パパには言わない

田中潮太

文字の大きさ
42 / 55
翠の真実

しおりを挟む

「きみ、誰?」

 翠に一筋の光が差し込み、心の扉は開かれた。目を覚ますのは久しぶりで、一瞬自分が誰で何をしているのかを理解できなかった。しかしすぐにその状況が待ち望んでいたものと気が付く。誰、と問われ相手が自分を何者か理解していないと考えた翠は咄嗟にこう言った。

「紅。わたしは紅」

 作り上げた架空の名前。
 自分が本当の翠であると名乗るよりも、偽名を名乗り少しずつ懐柔すべきだ。十歳、十一歳にしてそれ程の事を考えなくてはならなかった。

 翠は紅として、自分の体を取り戻す事にしたのだ。自分のフリをしている偽物の翠から。
 とはいえ最初はそれも難航していた。紅としての設定を練らなくてはならない。相手――――翠は流されやすい性格だと判断していた紅は自分の情報はあまり明かさずそれを仲の良さが足りないという理由付けにした。そうすることでひとまずは『自分の中にいる友達』として翠に近づいたのだ。紅は翠を乗っ取ろうとしている。そう気がつかせない為に。あくまで自然な流れで体を取り戻す必要があった上に、対話が出来たからと言ってすぐに体を乗っ取る事は不可能だった。あと少しで意識を侵食できそうだという領域には達するも、足りない。

 繰り返し体の乗っ取りを意識していた。
 そうしてある寒い日の朝。それは突然訪れた。
 特別な事はしていなかった。目が覚めると自分自身の体を動かすことが出来た! 

 朝の支度をしつつ、自分だと悟られないように大人しく、それすらも疑われないよう朝のニュース番組に見入っているような演技をし父親の目をどうにか誤魔化した。幸いにも父親は早々に仕事へと出かけて行った為にこの時間は乗り切る事が出来た。

 いつ人格が戻るかわからない。けれど自分の内側に未だ翠が存在している事ははっきりと感じ取れた。
 そのまま学校へ登校した紅は一時間目、二時間目と周囲を観察して過ごした。今までも内側から学校での様子は見ていたし翠からも聞いていた。そして今、自分の目で改めて教室内の動きを観察した。

(やっぱり予想通りというか)

 翠が春頃に仲良くしていた玲那という生徒。玲那は特別可愛い訳でも、性格が明るく面白いわけでもないのに何故かクラスの中心にいるような可愛らしくそれでいて明るく面白くしっかりした三人組と一緒にいる。その三人組は個々にしっかりとした個性があり皆の中心にいるのも頷けたが玲那だけは違った。

 三人の顔色を伺い、話も合わせてばかり。
 人格は違えど自分の事を唐突に避け始め媚びを売ってクラスの中心に行くようなその態度が紅は気に入らなかった。

(注目されたいって思うのは仕方ないとして、でも仲良くしていたわたしを突然避けるなんて!)

 紅の中の怒りの感情が露になった。紅はもう、二時間目の途中から玲那に対する怒りでいっぱいだった。今すぐにでも玲那に一言言ってやらないと気が済まないと思う程に。しかしそこはどうにか理性で抑え込み、二時間目が終了してすぐに紅は玲那の席へと足を運んだ。

「ねぇ、ちょっといい?」

 翠が高圧的にそう声をかければ玲那は怪訝そうな顔をし尖った声色で「何」と一言。その時点で紅は勝ったと思った。相手はただ一言「何」と言い返すので精一杯。その裏には臆病が見え隠れしている。

「前から思っていたんだけど、なんでぼくのこと急に避けたの?」

 周囲へ疑問を持たれないように。翠になりきる事も忘れない。自分らしく過ごすのはもう少し後でも良いと紅は画策する。

「なんでって……それは……」

 相手が言い淀む。予想通りの展開だった。周囲の生徒が自分たちの会話にさりげなく耳を傾けているのがわかる。その中には例の三人組もいる。

「ぼく何かした? したなら、謝るけど」

 当然、大人しい性格の翠は何もしていない。相手が引き合いに出せるような事も無い筈だ。「大人しくてつまらないから避けた」とは目の前の女子には言う度胸がないと紅は分かった上でどんどんと詰めていく。

「なんかしたっていうか……えぇと」
「えーと、なに?」
「ほら、瑞樹と凛子と由愛と……仲良くなったから」
「そんなに突然? だって、急にぼくのことを避けたよね? それまであの三人と仲良くしてる感じもなかったし」
「それは……」
「あ、ねぇ。瑞樹ちゃん達。何か知ってる? 玲那と急に仲良くなってたよね?」

 急に話を振ると当然、三人は顔を見合わせた。そして真ん中に立っていた瑞樹が口を開く。

「うちらは何も……ってか玲那が突然うちらのとこに入ってきたから。翠ちゃんと喧嘩でもしたのかもって」
「だって。ぼくたち喧嘩なんてしてないよね?」

 玲那はもう泣きそうな顔をして唇を震わせていた。小さな声で「えっと」「あの」とぼやいている。
 快感だった。相手を追い詰めていく、そんな快感。
 追い詰められた相手を見るのが何よりも大きな快感だ。翠と父親もこうしてやりたいと、怒りの表情を作りながらも心の内では可笑しくて仕方がなかった。

「クラスの中心にいたいからってその三人について回って楽しい? ぼく何もしてないのに急に避けられて悲しかったんだよ」

 前半の言葉は、玲那にだけ聞こえるような声量で言う事を忘れない。自分が不利になる事を大勢の前で言ってはいけない。それに、紅からしてみればこれは正論だ。自分が全て正しいのだ。
その言葉を言い放った時、玲那の目に溜まっていた涙が流れ出た。誰も擁護する者はいなかった。

「確かにさぁ、れなっちは突然由愛たちんとこ来たよね。みどりんって真面目っぽいから何かしたようにも見えないし。ハブる理由もないよね」

 ハブる理由もない。由愛のその言葉に教室内に残っていた生徒たちは「確かに」「別に嫌う理由ないよね」「言われてみれば……」と口々に翠を擁護し始めた。そんな状況に玲那が耐えられるはずもなく、玲那は席を立つと教室を出て行ってしまう。

「みどりん、今までハブってたみたいでごめんね」

 玲那に辛辣な言葉を投げかけた張本人、由愛が紅に謝罪する。この三人に認められるのが手っ取り早いと紅は理解していた。トップに認めてもらえばその下は自然とついてくる。

「謝らないでいいよ。ぼくが好きで一人でいたようなものだし。でもずっと玲那の事が引っかかってたんだ」

 紅は恥ずかしそうに、それでいて悲しそうに笑った。心の内ではこの勝負に勝ったことに声をあげて笑いたい気持ちだった。否、勝負ですらなかった。相手は何の抵抗する手段も持たずただそこにいた木偶の坊だ。
 放課後。下駄箱の前で靴を履き替えていると玲那が近付いてきた。紅は特に気にかけず無視して下校しようとしたが呼び止められてしまう。

「翠」

 紅は無表情のままそちらに顔を向ける。

「あの、ごめんね」
「何が?」

 周囲に誰もいないこの状況。紅は自分を取り繕う必要がなかった。

「その、急に避けたりして。だから、ごめんね」
「そう」

 玲那からの謝罪は求めていない。むしろ紅にとってはもうどうでも良い存在だ。いてもいなくても、謝っても謝らなくてもどうでも良かった。

「あ、あのさ!」

 紅が玲那の存在を無視して帰ろうとした時、肩を掴んで引き留められた。

「なに?」
「い、一緒に帰らない?」
「なんで?」
「なんで、って」

 まさか断られると思っていなかったのだろう。玲那の顔が歪む。

「だって友達じゃないでしょ?」

 手を払い退ける。玲那の表情を伺う必要さえなかった。紅はそのまま玲那に背を向けて帰路へとついた。気分が良かった。自分の言葉で、態度で、相手を言い負かす事ができた快感が何よりの幸福だった。
 しかしいつまでも小さな幸福に拘っていられなかった。翠がまだ自身の中に存在する今、いつ人格が交代してしまうのかわからない。次の瞬間には交代してしまうのかもしれない。しかしこのまま交代しなかったとして、紅には最大の難関が待ち構えている。

(パパをどうするか、よね)

 二つのパターンがある。一つはこのまま翠のフリを続ける。いつも翠の喋り方や癖を内側から見ていた紅にとってそれは容易な事だ。それに癖というものは体に染みついている。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】

皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」 「っ――――!!」 「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」 クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。 ****** ・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。

もう散々泣いて悔やんだから、過去に戻ったら絶対に間違えない

もーりんもも
恋愛
セラフィネは一目惚れで結婚した夫に裏切られ、満足な食事も与えられず自宅に軟禁されていた。 ……私が馬鹿だった。それは分かっているけど悔しい。夫と出会う前からやり直したい。 そのチャンスを手に入れたセラフィネは復讐を誓う――。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

許婚と親友は両片思いだったので2人の仲を取り持つことにしました

結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
<2人の仲を応援するので、どうか私を嫌わないでください> 私には子供のころから決められた許嫁がいた。ある日、久しぶりに再会した親友を紹介した私は次第に2人がお互いを好きになっていく様子に気が付いた。どちらも私にとっては大切な存在。2人から邪魔者と思われ、嫌われたくはないので、私は全力で許嫁と親友の仲を取り持つ事を心に決めた。すると彼の評判が悪くなっていき、それまで冷たかった彼の態度が軟化してきて話は意外な展開に・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

離婚した彼女は死ぬことにした

はるかわ 美穂
恋愛
事故で命を落とす瞬間、政略結婚で結ばれた夫のアルバートを愛していたことに気づいたエレノア。 もう一度彼との結婚生活をやり直したいと願うと、四年前に巻き戻っていた。 今度こそ彼に相応しい妻になりたいと、これまでの臆病な自分を脱ぎ捨て奮闘するエレノア。しかし、 「前にも言ったけど、君は妻としての役目を果たさなくていいんだよ」 返ってくるのは拒絶を含んだ鉄壁の笑みと、表面的で義務的な優しさ。 それでも夫に想いを捧げ続けていたある日のこと、アルバートの大事にしている弟妹が原因不明の体調不良に襲われた。 神官から、二人の体調不良はエレノアの体内に宿る瘴気が原因だと告げられる。 大切な人を守るために離婚して彼らから離れることをエレノアは決意するが──。

処理中です...