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翠の真実
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しおりを挟む「きみ、誰?」
翠に一筋の光が差し込み、心の扉は開かれた。目を覚ますのは久しぶりで、一瞬自分が誰で何をしているのかを理解できなかった。しかしすぐにその状況が待ち望んでいたものと気が付く。誰、と問われ相手が自分を何者か理解していないと考えた翠は咄嗟にこう言った。
「紅。わたしは紅」
作り上げた架空の名前。
自分が本当の翠であると名乗るよりも、偽名を名乗り少しずつ懐柔すべきだ。十歳、十一歳にしてそれ程の事を考えなくてはならなかった。
翠は紅として、自分の体を取り戻す事にしたのだ。自分のフリをしている偽物の翠から。
とはいえ最初はそれも難航していた。紅としての設定を練らなくてはならない。相手――――翠は流されやすい性格だと判断していた紅は自分の情報はあまり明かさずそれを仲の良さが足りないという理由付けにした。そうすることでひとまずは『自分の中にいる友達』として翠に近づいたのだ。紅は翠を乗っ取ろうとしている。そう気がつかせない為に。あくまで自然な流れで体を取り戻す必要があった上に、対話が出来たからと言ってすぐに体を乗っ取る事は不可能だった。あと少しで意識を侵食できそうだという領域には達するも、足りない。
繰り返し体の乗っ取りを意識していた。
そうしてある寒い日の朝。それは突然訪れた。
特別な事はしていなかった。目が覚めると自分自身の体を動かすことが出来た!
朝の支度をしつつ、自分だと悟られないように大人しく、それすらも疑われないよう朝のニュース番組に見入っているような演技をし父親の目をどうにか誤魔化した。幸いにも父親は早々に仕事へと出かけて行った為にこの時間は乗り切る事が出来た。
いつ人格が戻るかわからない。けれど自分の内側に未だ翠が存在している事ははっきりと感じ取れた。
そのまま学校へ登校した紅は一時間目、二時間目と周囲を観察して過ごした。今までも内側から学校での様子は見ていたし翠からも聞いていた。そして今、自分の目で改めて教室内の動きを観察した。
(やっぱり予想通りというか)
翠が春頃に仲良くしていた玲那という生徒。玲那は特別可愛い訳でも、性格が明るく面白いわけでもないのに何故かクラスの中心にいるような可愛らしくそれでいて明るく面白くしっかりした三人組と一緒にいる。その三人組は個々にしっかりとした個性があり皆の中心にいるのも頷けたが玲那だけは違った。
三人の顔色を伺い、話も合わせてばかり。
人格は違えど自分の事を唐突に避け始め媚びを売ってクラスの中心に行くようなその態度が紅は気に入らなかった。
(注目されたいって思うのは仕方ないとして、でも仲良くしていたわたしを突然避けるなんて!)
紅の中の怒りの感情が露になった。紅はもう、二時間目の途中から玲那に対する怒りでいっぱいだった。今すぐにでも玲那に一言言ってやらないと気が済まないと思う程に。しかしそこはどうにか理性で抑え込み、二時間目が終了してすぐに紅は玲那の席へと足を運んだ。
「ねぇ、ちょっといい?」
翠が高圧的にそう声をかければ玲那は怪訝そうな顔をし尖った声色で「何」と一言。その時点で紅は勝ったと思った。相手はただ一言「何」と言い返すので精一杯。その裏には臆病が見え隠れしている。
「前から思っていたんだけど、なんでぼくのこと急に避けたの?」
周囲へ疑問を持たれないように。翠になりきる事も忘れない。自分らしく過ごすのはもう少し後でも良いと紅は画策する。
「なんでって……それは……」
相手が言い淀む。予想通りの展開だった。周囲の生徒が自分たちの会話にさりげなく耳を傾けているのがわかる。その中には例の三人組もいる。
「ぼく何かした? したなら、謝るけど」
当然、大人しい性格の翠は何もしていない。相手が引き合いに出せるような事も無い筈だ。「大人しくてつまらないから避けた」とは目の前の女子には言う度胸がないと紅は分かった上でどんどんと詰めていく。
「なんかしたっていうか……えぇと」
「えーと、なに?」
「ほら、瑞樹と凛子と由愛と……仲良くなったから」
「そんなに突然? だって、急にぼくのことを避けたよね? それまであの三人と仲良くしてる感じもなかったし」
「それは……」
「あ、ねぇ。瑞樹ちゃん達。何か知ってる? 玲那と急に仲良くなってたよね?」
急に話を振ると当然、三人は顔を見合わせた。そして真ん中に立っていた瑞樹が口を開く。
「うちらは何も……ってか玲那が突然うちらのとこに入ってきたから。翠ちゃんと喧嘩でもしたのかもって」
「だって。ぼくたち喧嘩なんてしてないよね?」
玲那はもう泣きそうな顔をして唇を震わせていた。小さな声で「えっと」「あの」とぼやいている。
快感だった。相手を追い詰めていく、そんな快感。
追い詰められた相手を見るのが何よりも大きな快感だ。翠と父親もこうしてやりたいと、怒りの表情を作りながらも心の内では可笑しくて仕方がなかった。
「クラスの中心にいたいからってその三人について回って楽しい? ぼく何もしてないのに急に避けられて悲しかったんだよ」
前半の言葉は、玲那にだけ聞こえるような声量で言う事を忘れない。自分が不利になる事を大勢の前で言ってはいけない。それに、紅からしてみればこれは正論だ。自分が全て正しいのだ。
その言葉を言い放った時、玲那の目に溜まっていた涙が流れ出た。誰も擁護する者はいなかった。
「確かにさぁ、れなっちは突然由愛たちんとこ来たよね。みどりんって真面目っぽいから何かしたようにも見えないし。ハブる理由もないよね」
ハブる理由もない。由愛のその言葉に教室内に残っていた生徒たちは「確かに」「別に嫌う理由ないよね」「言われてみれば……」と口々に翠を擁護し始めた。そんな状況に玲那が耐えられるはずもなく、玲那は席を立つと教室を出て行ってしまう。
「みどりん、今までハブってたみたいでごめんね」
玲那に辛辣な言葉を投げかけた張本人、由愛が紅に謝罪する。この三人に認められるのが手っ取り早いと紅は理解していた。トップに認めてもらえばその下は自然とついてくる。
「謝らないでいいよ。ぼくが好きで一人でいたようなものだし。でもずっと玲那の事が引っかかってたんだ」
紅は恥ずかしそうに、それでいて悲しそうに笑った。心の内ではこの勝負に勝ったことに声をあげて笑いたい気持ちだった。否、勝負ですらなかった。相手は何の抵抗する手段も持たずただそこにいた木偶の坊だ。
放課後。下駄箱の前で靴を履き替えていると玲那が近付いてきた。紅は特に気にかけず無視して下校しようとしたが呼び止められてしまう。
「翠」
紅は無表情のままそちらに顔を向ける。
「あの、ごめんね」
「何が?」
周囲に誰もいないこの状況。紅は自分を取り繕う必要がなかった。
「その、急に避けたりして。だから、ごめんね」
「そう」
玲那からの謝罪は求めていない。むしろ紅にとってはもうどうでも良い存在だ。いてもいなくても、謝っても謝らなくてもどうでも良かった。
「あ、あのさ!」
紅が玲那の存在を無視して帰ろうとした時、肩を掴んで引き留められた。
「なに?」
「い、一緒に帰らない?」
「なんで?」
「なんで、って」
まさか断られると思っていなかったのだろう。玲那の顔が歪む。
「だって友達じゃないでしょ?」
手を払い退ける。玲那の表情を伺う必要さえなかった。紅はそのまま玲那に背を向けて帰路へとついた。気分が良かった。自分の言葉で、態度で、相手を言い負かす事ができた快感が何よりの幸福だった。
しかしいつまでも小さな幸福に拘っていられなかった。翠がまだ自身の中に存在する今、いつ人格が交代してしまうのかわからない。次の瞬間には交代してしまうのかもしれない。しかしこのまま交代しなかったとして、紅には最大の難関が待ち構えている。
(パパをどうするか、よね)
二つのパターンがある。一つはこのまま翠のフリを続ける。いつも翠の喋り方や癖を内側から見ていた紅にとってそれは容易な事だ。それに癖というものは体に染みついている。
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