うさぎはくじらを殺したのだろうか

田中潮太

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はじまりの再会

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 あまり早く行くのも良くないかもしれない。だからわたしはお昼ご飯を食べてから行動を開始した。
 ここ桃果町は山と海に挟まれている。でもわたしの記憶では山の方へ行ったことはない。だからきっととーまお兄さんも海に近い範囲内に住んでるはずだ。なんたって、ご近所で話題にあがるくらいだから。

「あの、すいません」

 トイプードルを散歩させていたおばさんに声をかける。トイプードルは茶色くてもこもこしていて、ももちゃんにちょっとだけ似ていた。ももちゃんはクマだけど。

「はい?」

 にこやかに返事をしてもらえて、ほっとしながらわたしは言葉を続けた。

「あの……このへんにある三野さんのお宅を知りませんか? ええと、息子さんとわたし、お友達で」
「廉太郎くん……じゃないか、もしかして都真くんの?」
「はっはい」

 廉太郎って人はわからないけどおばさんはとーまお兄さんが次男って言ってたし、お兄さんかな? 
 おばさんの顔から笑顔が消えた。やっぱり何か失礼なことを言っちゃったかな。

「それならこの一本向こうの通りにある緑の屋根の家だよ」
「あっありがとうございます!」

 お礼を言ってトイプードルにも手を振る。トイプードルはきょとんとしていた。
 一本向こうの道の、緑の屋根の家。それだけわかれば辿り着ける。
 でもなんて言ってチャイムを押そう?
 都真くんのお友達です、って? 
 それとも都真くんに昔お世話になった者です?
 後者の方が正しいかもしれない。何せわたしがとーまお兄さんと遊んだのは十三年も昔のたった一か月だ。もしかしたら忘れられているかも。だったら、嫌だなぁ。
 道路を渡って一本後ろの道へ進む。家の並びを見ると緑の屋根の家は一軒しかなくてすぐにわかった。
 心臓がどきどきとうるさい。緊張してる。よく考えたらわたしは今、記憶の中にだけ存在しているお兄さんに会いにいくんだ。

 表札の名前は間違いなく『三野』だった。ここだ。この家であっている。

(ふぅ……)

 心の中で溜息をひとつ。意を決してわたしは音符マークの描かれたチャイムを押した。ポンっというシンプルな音が鳴る。
 少しの間。その間もわたしの心臓はどきどきとうるさい。

「はーい、どちら様?」

 ドア越しに聞こえた女の人の声。

「あのっ……わたし、昔、都真くんにお世話になった三屋うさぎと言います……あのっ」

 都真くんはいますか。そう聞く前にドアが開いた。

わたしのママよりちょっと年上だと思う。とーまお兄さんのお母さんかな。

「都真の? 世話になったって?」
「はい。わたしっ、三屋周子の姪で、小さい時に都真くんに遊んでもらって……」
「あぁ、あの時の」

 そこまで言うとお母さんは何か納得したようだった。だけどなんだか空気が冷たい。

「とーま! お客さん! 出といで!」

 お母さんが家の中に向けてそう叫んだ。

「悪いけど、ちょっとそこで待ってて」

 ドアを閉められる。わたしは玄関フードで立ち尽くした。
これからとーまお兄さんに会える? そう思うと収まっていた鼓動がまた戻って来る。
 それから五分は待ったと思う。どんな顔をして会えば良いか、何の話をすれば良いのか……蒸し暑い玄関フードの中でそんなことを考えていると何の前触れもなくドアが開いた。

「…………はい?」

 ドアの隙間。
 長い前髪から覗く瞳。あの頃より声が低くなったかも。背もわたしなんかよりずっと高い。
 でも目の前にいるその人は紛れもなくとーまお兄さんで。
わたしは何も言えなかった。ただ石のように固まってしまう。何を言えばいいのかわからない。たくさんの言葉がわたしの頭の中に濁流のように押し寄せて。

「わ、たし……みゃう、みゃうです」

 とーまお兄さんに呼ばれていた名前。

 わたしの名前、三屋うさぎだから。みやうさぎで、みゃう。うさぎなのにみゃうって呼ぶとネコみたいだねって。

「みゃう?」
「はっはい……」
「……あの小さかったみゃう?」
「そう、そう。わたし、あの時の、みゃう」

 そこまで言うとドアから顔を覗かせていただけのとーまお兄さんは一歩外へと歩み出てきて、わたしはそれに合わせて一歩後ろへと下がる。

「全然、別人みたい」

 ふ、と。
 とーまお兄さんの口元がゆるんだ。
 あぁ、わたしの大好きだった笑顔だ。あの頃の感情がわき上がる。この優しい笑顔が大好きだった。なんでこの気持ちを忘れていたのか、それが不思議なくらい。

「いいよ。緊張しなくて」

 とーまお兄さんの大きな手がぽんっとわたしの頭に乗せられた。どきどきした。とーまお兄さん、あの頃ときっと変わってない。見た目は変わったけど、でも。

「久しぶり。大きくなったね」
「とーまお兄さんも、すごく」
「俺? まぁ確かに背は伸びたし声変わりもしたかな」

緊張で頭が真っ白なわたしとは対照的にとーまお兄さんはすらすらと言葉を並べてくれる。

「ここで話すのもどうかと思うし、久しぶりに海でも行こうか?」

 わたしは頷いた。そうして、サンダルをぺたぺた言わせながら歩くとーまお兄さんの後に続いた。
 十三年ぶりだというのに、とーまお兄さんは驚くほど素直にわたしを受け入れてくれた。

 あの頃もそうしていたように。
 わたしたちは階段に並んで座った。隣に座る。それだけなのにわたしは緊張していた。

「みゃう、何歳になったの?」
「二十歳だよ」
「もうそんなになったんだ。大人だね」
「とーまお兄さんはいまいくつなの?」
「二十六かな」

 二十六歳。わたしの六つ上だ。ということはあの頃のとーまお兄さんは中学一年生だだったんだ。

「またおばさんのところに?」
「うん。いま大学の夏休みでね。ママがおばさんの家に泊っておいでって。一か月」
「そうなんだ。じゃああの頃とおんなじだ」

 あの頃もこの八月の一か月を一緒に過ごした。

「うん……ここに来てとーまお兄さんのこと思い出したの。それで、会いたいなって」
「嬉しいな。俺に会いに来てくれるなんて誰かと思ったから」

 やっぱり変わらない。大好きなとーまお兄さん。

「一か月、何して過ごすの? 大学の課題とか、忙しい?」

 その問いにわたしは首を横に振った。大学の課題はあるにはあるけど、少しずつ進めれば終わるものだけだ。

「なにも、なにもないよ。空白なの、この一か月」
「俺もおんなじ。と言っても俺はずっと空白だけど」

 とーまお兄さんは長い前髪を耳にかける。きれいな瞳がふたつ、まっすぐ海を見ている。

「あ、あのね」

 わたしが言いたかったこと。勇気を出してそれを言う。

「もし、もし良かったら。昔みたいに一か月、一緒に過ごさない?」

 また一緒に。今度は海には入らないし砂のお城は作らなくても。こうして隣に座ってお話をしたい。
 十三年ぶりの再会だから、話すことはたくさんあるはずだ。わたしは小さな子どもから大人になって、その間に色んなことがあったから。おもしろい話かは、わからないけど。

「うん。いいよ」
「やっ……ありがとう」

 やったぁ! そんなことを言いかけて口をつぐむ。嬉しいのは本心。だけど素直にそれを表現するのは恥ずかしかった。
 こうしてわたしはとーまお兄さんと一か月を一緒に過ごす権利、そして時間を手に入れた。

『八月三日
 きょうはなんと! とーまお兄さんと再会できました。それで一か月を一緒に過ごす約束もできた。明日から楽しみだな』

 幼稚な日記を今日も続けた。
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