うさぎはくじらを殺したのだろうか

田中潮太

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はじまりの再会

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 午前中のうちに大学の課題を終わらせてお昼ご飯を食べた後、わたしはすぐに海へと向かった。
 今日の天気はくもり。そのせいかちょっと涼しくて、わたしは薄手のカーディガンを着て外へ出た。風が強い。せっかくブラシで梳かした髪もあっという間に乱れてしまう。

「とーまお兄さん!」

 道路を渡るとすぐにその背中が見えた。とーまお兄さんは振り向いて小さく手をあげてくれる。

「みゃう。おはよう」
「うん、おはよう」

 おはようと挨拶をするにはもう遅い時間だけど、それでもわたしたちはおはようの挨拶を交わす。
 わたしは昨日と同じようにとーまお兄さんの隣に座る。
 さて。何を話そう? わたしの話もいいけど、昔のようにとーまお兄さんの話が聞きたい。そう思ってわたしはとーまお兄さんの話が聞きたいとお願いをした。

「俺の話? いいよ、何が聞きたい?」
「うーんと……」

 考える。わたしと過ごした後の、学校の話。それとも最近の話? そこでわたしはおばさんの言葉を思い出す。とーまお兄さんは一度この町を出て行っているということ。

「とーまお兄さん、この町から出たことがあるの?」
「……あぁ、うん。大学でこの町を出てその後もそのまま向こうで就職したよ。その仕事もやめて一年前に帰ってきたんだけどね」

 そうなると、とーまお兄さんは六年もの間この町にいなかったことになる。六年というとわたしは中学校に入学して高校を卒業している。かなり長い時間だ。

「長い時間、ここにいなかったんだね」
「そうなるね。俺にはあっという間に感じられたけど……みゃうはその間も学生か」
「うん。いまも学生だけどね」
「若いなぁ」

 そういうとーまお兄さんだって十分若いように思う。二十代後半と言えば世間的にはそう若くない歳なのかもしれないけど……でもとーまお兄さんの雰囲気が昔と変わっていないから、わたしの目にはずっとお兄さんのままだ。

「でもまたこうしてみゃうと会うことが出来たから。ここへ帰ってきたのも正解だったのかも」

 目を細めて笑う。そんなことを言われちゃったらわたしは嬉しくてしょうがない。会えて嬉しいなんて、おんなじ気持ちだ。

「大学はどう? 楽しい?」

 その質問にわたしはどう答えて良いのか悩んだ。わたしは今、学校の先生になる為の勉強をしている。勉強自体は好きだから苦じゃないけど……。

「ううん。あんまり、かな」

 嘘を言えなかった。

「嫌なことでもあるの?」

 頷く。

「あの、あのね。わたし教育学部に通ってるのね。それはパパ……ママの再婚相手の新しいパパが教師だからなの」

 中学一年生の時にわたしには新しいパパが出来た。
パパは中学校の先生。わたしにも教師になってほしいって思っていて、それにはママも賛成した。だからわたしはママとパパの望む道へと進んだ。

「新しいお父さん? あぁ、そういえばお父さんがいないって言っていたよね」

 七歳のみゃうはパパがいないことをとーまお兄さんに打ち明けていたらしい。

「でもわたしは教師になりたいわけじゃないしこれでいいのかなって」

 勉強は苦じゃない。でもわたし自身が先生になることをあまり想像できなかった。大勢の生徒を前に授業をする自分。それを楽しい、良い未来だとは思えない。

「みゃうは今、他にやりたいことがあるの?」
「ううん、ない。ないから、先生になる勉強をしてるの」

 言ってしまえば自分の意志がないということ。
 だから言いなりに、素直にママやパパの望む道を進んでいる。

「そっか。昔の俺とおんなじだ。俺も目標とか何もなくてただなんとなく大学に入って就職して……それで失敗した」
「失敗?」
「うん。IT系の企業に就職したけど一年経ったか、そのくらいで鬱病になった」

 鬱病。その病気は知っている。
 だってわたしのママとおんなじ病気だ。十三年前にこの桃果町にあるおばさんの家に預けられたのもママが鬱病で入院しちゃったから。

「大丈夫、なの?」
「大丈夫ではなかった、かな。自殺未遂をしてそのまま入院、退職、この町に帰ってきた」
「……今は、大丈夫?」

 ママもそうだ。病気が良くなったり悪くなったりをずっと繰り返している。パパと結婚してからは比較的、落ち着いているけど。

「正直に言えばずっと引きこもっていたし気分はあまり良くなかった。でも昨日、みゃうが俺を訪ねてきてくれて。それがすごく嬉しかったよ。ありがとう」

 ありがとう。その言葉を聞いてあたたかいものが胸の内側に広がった。お礼を言うのはわたしの方だ。こんなわたしに、良くしてくれる。

「ううん。わたしも、みゃうも会いたかったから」
「そっか。それは嬉しいな」

 そこで一旦会話は途切れてふたりで海を見ていた。途中で砂浜を人が通りがかったりしたけどそんなの関係なくて、言葉はなくとも隣に座って海を見ている。それだけでわたしはすごく幸せな心地だった。

「ねぇ、みゃう」
「うん? なに?」
「仮に、だけど。もし海に入って死ぬことが出来たらどう思う?」

 海に入って死ぬ。入水自殺。 
 それは絶対苦しいしもがきながらじわじわと死に引き込まれる。例えばビルから飛び降りたりピストルで頭を撃ったりしたら一瞬の痛みで死ぬことができると思う。
 でも海に入って死ぬには確実に多くの苦しみを伴う――とわたしには想像できる。言葉に詰まったわたしをどう思ったのか、とーまお兄さんは続ける。

「クジラに食べられてクジラになれるかもしれない」

 クジラになる。その言葉に記憶が呼び起こされる。
 それは十三年前――とーまお兄さんはおんなじことを言った。当時のわたしはクジラになるなんて楽しそうだしすごい! って思ってそれをそのまま言葉にした。
とーまお兄さんは優しく頭を撫でてくれて……。

「それ、昔のみゃうにも話していたよね?」
「覚えてたの?」
「思いだしたよ。クジラになるなんて楽しそうですごいって」
「そう。みゃうはあっさり肯定してくれた」

 肯定というよりも当時のわたしは意味がわかっていなかった。大きくなったらヒーローになりたいとか魔法使いになりたいとかそういうことだと解釈した。だから無邪気にも『楽しそうですごい』なんて言葉が浮かんだのだと思う。

「今のみゃうもそう思う?」

 雲がどんどん色を濃く変えていって、ぽつぽつと雫が落ちてきた。傘なんてない。だけどちょっとの雨くらい気にならない。
 今のみゃうはどう思うか。

「うん。死んでいなくなるんじゃなくてクジラになれるのはとても、とても楽しいんじゃないかな」
「そっか。良かった」

 とーまお兄さんは安堵したように言ってくれた。でもごめんなさい、みゃうはちょっとだけ嘘をつきました。
 とーまお兄さんがクジラになったらもう会うことができなくなる。それはみゃうにとって悲しいし寂しい。この町へ来ても会えないんだから。

「雨、降って来たね。今日は帰ろうか」

 その言葉にわたしたちは立ち上がってそれぞれの家に帰る道を歩き出した。
 じゃあまたね。そんな言葉を交わして。

『八月四日
クジラになる。その意味を考える。
とーまお兄さんは死にたいんじゃなくてクジラになりたいのかな? だって十三年前にもおんなじことを言っていたから』

 パパと結婚する前のママもよく死にたいと言っていた。
 でもそれはわたしにとってよくあることで特に気にしていなかったし言葉にするだけでママが実際に死のうとしたことはない。

 クジラになりたい、という言葉は何らかの比喩――かな。

 まだ時間はたくさんある。だからその言葉の真意はこれから、きっと教えてくれる。
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