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はじまりの再会
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砂浜をふたりで歩いた。
とりあえず行けるところまで。
この日、とーまお兄さんはクジラの話をずっと続けていた。
「ホエールウォッチングに行ってみたことがあるんだ」
「どうだったの?」
その問いかけに、とーまお兄さんは横に首を振った。
「あれはよくない。クジラはただそこで泳いでいるだけのに見世物にされて。水族館は保護の目的もあるから……まだ理解ができるし安全な環境で食べ物ももらえてある種水族館のクジラも幸せだろうけど、でも俺だってただ歩いてるだけでたくさんの人に見られて写真なんか撮られたらたまらないね」
饒舌だった。わたしが口を挟まなくてもずっとクジラのことを話してくれる。珍しい、と思った。彼は普段からあまり饒舌なタイプではないから。
とーまお兄さんはクジラになりたい。だからそのことをずっとお話できるのかもしれない。
それほどに溢れているクジラへの憧れ。一体どうして、そんな惹かれているのかを、やっぱりわたしは詳しく尋ねない。
「でも、でも……わたしと海辺の町で暮らすにはクジラになれないよ」
「うん。クジラになるのは最終手段。だってほら、ふつうにこのまま生きていたら絶対的に死を迎える。それは病気か寿命かはたまた事故か……だけどそうなる前にクジラになってしまえばいい」
その理屈はわたしにも理解ができた。
病気や事故、老衰で死ぬくらいならクジラになってしまえばいいということ。
つまり辛い人生を歩むよりもすてきなものへ姿を変えてしまえばいい。きれいな鱗を捨てた人魚姫もそう。何かを捨て、何かを得る。それがとーまお兄さんの場合は今の人間である自分を捨てること。
「苦しいと、思わないの?」
クジラになる為には海に身を投げなきゃいけない。クジラには必ず苦痛を伴うのに。
魔法使いの魔法で姿を変えるのとはわけが違う。
「構わないよ。クジラになれるならちょっとの苦しみくらい」
「あ……」
涙。涙、雫。きれい。
うつくしいそれがあふれてこぼれた。
自然と足を止める。
じっと見つめた。目線は交差しないけど、わたしはそのしずくを目で追った。
体の内側から何かがせりあがって来る。不思議な高揚感。今すぐに感情が爆発して砕け散るような。
我慢できなくてわたしは自分の胸を押さえた。呼吸の仕方もわからなくなって、浅く息を吐いて、吸った。
それからしゃがみこむ。意識がどこかへ引っ張られそうだった。妖精たちがこっちこっちって。
「…………みゃう?」
みゃう。わたしの名前。
「だい、じょぶ」
顔をあげた。その頬は濡れていた。拭い取ることはしなかった。じっとその顔をみつめて、それからわたしはぐっと顔を近づけて薄い唇にくちづけた。
「驚いた」
なぜそうしたかはわからないけど。
でもなんとなく、その薄い唇にふれたかった。
その行為にはそれ以上も以下も意味はなくて、ただふれあっただけ。
「あんまり、きれいだったから」
「そう」
わたしたちは踵を返して元の道を歩き始めた。
もうクジラの話はしなかった。それよりもわたしが好きなぶどうのグミの話をした。
「海外のグミのほうが美味しいんだよ。くまのキャラクターがパッケージに描いてあるグミ。きらきら笑顔」
「あれはくまなの?」
「うーん、多分?」
なんとなくくまのキャラクターだと思っていた。だけどもしかするとくまじゃない他の動物かもしれない。
「あんまりお菓子は食べないんだ」
そういうとーまお兄さんは確かに細いし、お菓子どころかご飯もちゃんと食べているのか心配になる。
「でもエナジードリンク、あれはたまに飲むよ」
意外だった。どちらかといえばコーヒーとかそういうものを好みそうに見える。イメージが結びつかない。
「好きなの?」
「ゆるやかな自殺」
最初は意味がわからなかったけど少し考えて納得した。
エナジードリンクは体に悪い。エナジードリンクを日常的に飲む人とそうじゃない人なら不健康なのは明らかに前者だ。不健康なものを摂取し続ければ早死にする。そういうことなのだと。
「みゃうには黙っていたけど煙草も吸うよ」
「へ、気が付かなかった」
「うん。夜にしか吸わない」
「それもゆるやかな自殺?」
「そのとおり」
ある意味でとーまお兄さんは落ち着いているようだった。
それはママが暴れるのを見たことがあるからで。ママはストレスや悲しみの発散方法を暴れることでしか解消できなかったのだと、この歳になって理解したけど。
「わたしも、真似しようかな」
エナジードリンクは口にあうかわからない。だってわたしは未だジュースが好きな子どもだし。煙草も苦いし口には合わないかも。においも好きじゃない。
「みゃうの口には合わないんじゃないかなぁ」
見透かされていた。わたし自身がそう思うのだから。
そんな会話をしながらいつもの階段がある場所まで戻ってきて、この日わたしたちは解散した。
「ももちゃん」
リボンをなくしたももちゃんは変わらずベッドの上に佇んでいる。
「リボン、ごめんねぇ」
元々はももちゃんのものだったから。だけどあまりに可哀想だったのでわたしは部屋着のズボンから白いリボンを引き抜いて首に結んであげた。
恥ずかしい話、わたしはリボン結びができない。だから縦結びになっちゃった。
「みーちゃん。これからもよろしくね」
クジラのみーちゃんに挨拶。この子にはこれからわたしの傍にいてもらうことになる。
『八月二十八日
クジラ。ぶどうグミ。
そういえばクジラはグミを食べるのかな? イメージだけどクジラは魚を食べると思う。それならわたしも魚を食べた方が良いのかな』
今日を入れてあと二日。
そうしたら少しの間わたしたちは離れ離れ。わたしが冬休みになったらバスに乗って会いにくることができるけど……でもこの桃果町は雪に覆われてしまう。とてもじゃないけどこうして外でお喋りなんて出来ないと思う。
遊びに来てもらおうにもわたしの住む町に海は無い。困った、とても困った。
「来年の夏に会おうよ」
「一年も先だよ」
「じゃあ春」
「それなら……」
短いけど春休みはある。だからその時に会いに来ることは出来るかもしれない。
問題はパパとママとおばさんが納得してくれるか、だけど。
「うん」
とーまお兄さんは唐突に、そう言って砂浜へと下りて行く。適当な木の枝を拾うとずーっと長い線を砂浜に引き始めた。その線は途中で曲線になる。ぐるぅっと大きく、線を伸ばしていく。その様子をわたしはスマホを取り出して写真に収めた。
その曲線は段々と形のある物へと変化した。小さなしっぽに大きな瞳。砂浜に現れたクジラだった。
「いつかの」
このクジラはとーまお兄さんそのものだった。
だけどわたしは足りないものがあると気が付いて、とーまお兄さんから木の枝を半ば奪うように取ってクジラの瞳の下に涙を書き足した。そしてクジラの大きな体の中にうさぎとねこの絵を描き足す。
「わたしも、一緒に」
別々のクジラになるよりもひとつのクジラになりたかった。わたしは完全にクジラになることはない。なぜならわたしはウサギでありネコであるから。
うさぎとして、ねことして。
クジラの一部になるのが良い。
「実をいえば、この場所にもクジラはいる」
クジラの横にとーまお兄さんは歪な図形を描き始めた。そしてそれがこの県の形であると少ししてから気が付く。
「ここが桃果町。それで、クジラがいるのはここ」
まっすぐ東に。もっとも、東だ。この大きな県の最も東にぐるぐると丸をつける。
「この桃果町では海に溶けたところでクジラになれやしない」
その言葉の意味するところをわたしは敏感にも感じ取った。
「とーまお兄さんは、約束を破らないでしょ」
一緒に暮らす約束だ。どこか遠い場所で、ふたりで。
「聡い」
「あたりまえ。とーまお兄さんの考え、読めるよ」
約束以前にクジラになるには東へ行く必要があると。そういうことだ。
「どうしてもクジラになりたい夜は、みゃうに電話して」
スマートフォン、携帯電話がある。
わたしたちはこれを電話として使ったことはない。あくまでわたしたちは海で顔を合わせて一緒にいる関係だから。
だけど緊急事態なら話は別。
「頼もしい」
「うん。頼もしくなったんだよ」
この一か月で。わたしは何も知らない、馬鹿じゃなくて。とーまお兄さんを守ると決意したからには頼もしく、強くなくてはいけない。
「みゃうは七歳なのにすごいね」
ちょっとだけ砂のついた手で頭を撫でられた。
「もう七歳じゃないんだよ」
「俺も十三歳じゃない」
「そう。わたしたちは大人になっちゃった」
時間の流れははやい。
きっとわたしたちは小さな子どもだったのに、気が付けばこうして二十歳と二十六歳の立派で残酷な大人に成り果てている。
砂浜に絵を描いても微笑ましいで済まされないし、ふたりで階段に座ってお喋りしていたらあることないことを疑われてしまう。それくらいはわかっている。でも気にならなかった。
「あ……」
わたしはあることを口にしようとして、やめた。
これは明日話した方が良いと、そう思ったから。
「うん?」
「なんでもないよ」
ちょっとの間わたしたちは黙った。
ゴールデンレトリーバーを連れたおじさんが遠くから歩いてきて、目の前を通り過ぎていくまでの時間。
「むかし、兄が嫌いだった」
そういえばとーまお兄さんには更にお兄さんがいたのだと、その言葉で思い出す。十三年前も聞いた話。ついこの前も聞いた話。兄が嫌いという言葉。
……わたしにはきょうだいがいないからよくわからなかったけど。
「ここは狭い世界だから。優秀な兄、姉……なんかがいるとほら」
「今は嫌いじゃないの?」
「うん。兄はここを出て行ったしたまに俺なんかを心配して電話もくれる。兄の婚約者も優しい人だ。素直に、兄の幸せを祈ってるよ」
つまりとーまお兄さんは嫌悪の感情を乗り超えた。それはすごいことじゃないだろうか?
一度嫌いになったものを再び好きになる。わたしはコンビニのお弁当が苦手だ。元々べつに、嫌いじゃなかったけど。いまは嫌い。克服はできても好きにはなれない。
「それなら良かった」
「うん。好きの反対は無関心なんて言うけどその通りだと思う。好きの反対が嫌いなら、一度嫌いになったらその反対に戻れないよ」
「好きと嫌いはほぼ一緒?」
「そう。その通り」
それは途端に難しい。
でも全部が全部そのパターンにはまるとは限らない。場合によると思う。だけどわたしはその意見を曖昧に飲み込んでこの場は素直に頷いた。
『八月二十九日
今日は夕ごはんを食べる前に日記を書いた。
クジラになる話はそう。好きと嫌いの話は難しい。わたしは国語の教員になろうと思っているから、こういうことはきちんと説明できないといけないのかも。でも、難しい。そもそも学生はあまり真剣に授業を聞かないから、いっか』
とりあえず行けるところまで。
この日、とーまお兄さんはクジラの話をずっと続けていた。
「ホエールウォッチングに行ってみたことがあるんだ」
「どうだったの?」
その問いかけに、とーまお兄さんは横に首を振った。
「あれはよくない。クジラはただそこで泳いでいるだけのに見世物にされて。水族館は保護の目的もあるから……まだ理解ができるし安全な環境で食べ物ももらえてある種水族館のクジラも幸せだろうけど、でも俺だってただ歩いてるだけでたくさんの人に見られて写真なんか撮られたらたまらないね」
饒舌だった。わたしが口を挟まなくてもずっとクジラのことを話してくれる。珍しい、と思った。彼は普段からあまり饒舌なタイプではないから。
とーまお兄さんはクジラになりたい。だからそのことをずっとお話できるのかもしれない。
それほどに溢れているクジラへの憧れ。一体どうして、そんな惹かれているのかを、やっぱりわたしは詳しく尋ねない。
「でも、でも……わたしと海辺の町で暮らすにはクジラになれないよ」
「うん。クジラになるのは最終手段。だってほら、ふつうにこのまま生きていたら絶対的に死を迎える。それは病気か寿命かはたまた事故か……だけどそうなる前にクジラになってしまえばいい」
その理屈はわたしにも理解ができた。
病気や事故、老衰で死ぬくらいならクジラになってしまえばいいということ。
つまり辛い人生を歩むよりもすてきなものへ姿を変えてしまえばいい。きれいな鱗を捨てた人魚姫もそう。何かを捨て、何かを得る。それがとーまお兄さんの場合は今の人間である自分を捨てること。
「苦しいと、思わないの?」
クジラになる為には海に身を投げなきゃいけない。クジラには必ず苦痛を伴うのに。
魔法使いの魔法で姿を変えるのとはわけが違う。
「構わないよ。クジラになれるならちょっとの苦しみくらい」
「あ……」
涙。涙、雫。きれい。
うつくしいそれがあふれてこぼれた。
自然と足を止める。
じっと見つめた。目線は交差しないけど、わたしはそのしずくを目で追った。
体の内側から何かがせりあがって来る。不思議な高揚感。今すぐに感情が爆発して砕け散るような。
我慢できなくてわたしは自分の胸を押さえた。呼吸の仕方もわからなくなって、浅く息を吐いて、吸った。
それからしゃがみこむ。意識がどこかへ引っ張られそうだった。妖精たちがこっちこっちって。
「…………みゃう?」
みゃう。わたしの名前。
「だい、じょぶ」
顔をあげた。その頬は濡れていた。拭い取ることはしなかった。じっとその顔をみつめて、それからわたしはぐっと顔を近づけて薄い唇にくちづけた。
「驚いた」
なぜそうしたかはわからないけど。
でもなんとなく、その薄い唇にふれたかった。
その行為にはそれ以上も以下も意味はなくて、ただふれあっただけ。
「あんまり、きれいだったから」
「そう」
わたしたちは踵を返して元の道を歩き始めた。
もうクジラの話はしなかった。それよりもわたしが好きなぶどうのグミの話をした。
「海外のグミのほうが美味しいんだよ。くまのキャラクターがパッケージに描いてあるグミ。きらきら笑顔」
「あれはくまなの?」
「うーん、多分?」
なんとなくくまのキャラクターだと思っていた。だけどもしかするとくまじゃない他の動物かもしれない。
「あんまりお菓子は食べないんだ」
そういうとーまお兄さんは確かに細いし、お菓子どころかご飯もちゃんと食べているのか心配になる。
「でもエナジードリンク、あれはたまに飲むよ」
意外だった。どちらかといえばコーヒーとかそういうものを好みそうに見える。イメージが結びつかない。
「好きなの?」
「ゆるやかな自殺」
最初は意味がわからなかったけど少し考えて納得した。
エナジードリンクは体に悪い。エナジードリンクを日常的に飲む人とそうじゃない人なら不健康なのは明らかに前者だ。不健康なものを摂取し続ければ早死にする。そういうことなのだと。
「みゃうには黙っていたけど煙草も吸うよ」
「へ、気が付かなかった」
「うん。夜にしか吸わない」
「それもゆるやかな自殺?」
「そのとおり」
ある意味でとーまお兄さんは落ち着いているようだった。
それはママが暴れるのを見たことがあるからで。ママはストレスや悲しみの発散方法を暴れることでしか解消できなかったのだと、この歳になって理解したけど。
「わたしも、真似しようかな」
エナジードリンクは口にあうかわからない。だってわたしは未だジュースが好きな子どもだし。煙草も苦いし口には合わないかも。においも好きじゃない。
「みゃうの口には合わないんじゃないかなぁ」
見透かされていた。わたし自身がそう思うのだから。
そんな会話をしながらいつもの階段がある場所まで戻ってきて、この日わたしたちは解散した。
「ももちゃん」
リボンをなくしたももちゃんは変わらずベッドの上に佇んでいる。
「リボン、ごめんねぇ」
元々はももちゃんのものだったから。だけどあまりに可哀想だったのでわたしは部屋着のズボンから白いリボンを引き抜いて首に結んであげた。
恥ずかしい話、わたしはリボン結びができない。だから縦結びになっちゃった。
「みーちゃん。これからもよろしくね」
クジラのみーちゃんに挨拶。この子にはこれからわたしの傍にいてもらうことになる。
『八月二十八日
クジラ。ぶどうグミ。
そういえばクジラはグミを食べるのかな? イメージだけどクジラは魚を食べると思う。それならわたしも魚を食べた方が良いのかな』
今日を入れてあと二日。
そうしたら少しの間わたしたちは離れ離れ。わたしが冬休みになったらバスに乗って会いにくることができるけど……でもこの桃果町は雪に覆われてしまう。とてもじゃないけどこうして外でお喋りなんて出来ないと思う。
遊びに来てもらおうにもわたしの住む町に海は無い。困った、とても困った。
「来年の夏に会おうよ」
「一年も先だよ」
「じゃあ春」
「それなら……」
短いけど春休みはある。だからその時に会いに来ることは出来るかもしれない。
問題はパパとママとおばさんが納得してくれるか、だけど。
「うん」
とーまお兄さんは唐突に、そう言って砂浜へと下りて行く。適当な木の枝を拾うとずーっと長い線を砂浜に引き始めた。その線は途中で曲線になる。ぐるぅっと大きく、線を伸ばしていく。その様子をわたしはスマホを取り出して写真に収めた。
その曲線は段々と形のある物へと変化した。小さなしっぽに大きな瞳。砂浜に現れたクジラだった。
「いつかの」
このクジラはとーまお兄さんそのものだった。
だけどわたしは足りないものがあると気が付いて、とーまお兄さんから木の枝を半ば奪うように取ってクジラの瞳の下に涙を書き足した。そしてクジラの大きな体の中にうさぎとねこの絵を描き足す。
「わたしも、一緒に」
別々のクジラになるよりもひとつのクジラになりたかった。わたしは完全にクジラになることはない。なぜならわたしはウサギでありネコであるから。
うさぎとして、ねことして。
クジラの一部になるのが良い。
「実をいえば、この場所にもクジラはいる」
クジラの横にとーまお兄さんは歪な図形を描き始めた。そしてそれがこの県の形であると少ししてから気が付く。
「ここが桃果町。それで、クジラがいるのはここ」
まっすぐ東に。もっとも、東だ。この大きな県の最も東にぐるぐると丸をつける。
「この桃果町では海に溶けたところでクジラになれやしない」
その言葉の意味するところをわたしは敏感にも感じ取った。
「とーまお兄さんは、約束を破らないでしょ」
一緒に暮らす約束だ。どこか遠い場所で、ふたりで。
「聡い」
「あたりまえ。とーまお兄さんの考え、読めるよ」
約束以前にクジラになるには東へ行く必要があると。そういうことだ。
「どうしてもクジラになりたい夜は、みゃうに電話して」
スマートフォン、携帯電話がある。
わたしたちはこれを電話として使ったことはない。あくまでわたしたちは海で顔を合わせて一緒にいる関係だから。
だけど緊急事態なら話は別。
「頼もしい」
「うん。頼もしくなったんだよ」
この一か月で。わたしは何も知らない、馬鹿じゃなくて。とーまお兄さんを守ると決意したからには頼もしく、強くなくてはいけない。
「みゃうは七歳なのにすごいね」
ちょっとだけ砂のついた手で頭を撫でられた。
「もう七歳じゃないんだよ」
「俺も十三歳じゃない」
「そう。わたしたちは大人になっちゃった」
時間の流れははやい。
きっとわたしたちは小さな子どもだったのに、気が付けばこうして二十歳と二十六歳の立派で残酷な大人に成り果てている。
砂浜に絵を描いても微笑ましいで済まされないし、ふたりで階段に座ってお喋りしていたらあることないことを疑われてしまう。それくらいはわかっている。でも気にならなかった。
「あ……」
わたしはあることを口にしようとして、やめた。
これは明日話した方が良いと、そう思ったから。
「うん?」
「なんでもないよ」
ちょっとの間わたしたちは黙った。
ゴールデンレトリーバーを連れたおじさんが遠くから歩いてきて、目の前を通り過ぎていくまでの時間。
「むかし、兄が嫌いだった」
そういえばとーまお兄さんには更にお兄さんがいたのだと、その言葉で思い出す。十三年前も聞いた話。ついこの前も聞いた話。兄が嫌いという言葉。
……わたしにはきょうだいがいないからよくわからなかったけど。
「ここは狭い世界だから。優秀な兄、姉……なんかがいるとほら」
「今は嫌いじゃないの?」
「うん。兄はここを出て行ったしたまに俺なんかを心配して電話もくれる。兄の婚約者も優しい人だ。素直に、兄の幸せを祈ってるよ」
つまりとーまお兄さんは嫌悪の感情を乗り超えた。それはすごいことじゃないだろうか?
一度嫌いになったものを再び好きになる。わたしはコンビニのお弁当が苦手だ。元々べつに、嫌いじゃなかったけど。いまは嫌い。克服はできても好きにはなれない。
「それなら良かった」
「うん。好きの反対は無関心なんて言うけどその通りだと思う。好きの反対が嫌いなら、一度嫌いになったらその反対に戻れないよ」
「好きと嫌いはほぼ一緒?」
「そう。その通り」
それは途端に難しい。
でも全部が全部そのパターンにはまるとは限らない。場合によると思う。だけどわたしはその意見を曖昧に飲み込んでこの場は素直に頷いた。
『八月二十九日
今日は夕ごはんを食べる前に日記を書いた。
クジラになる話はそう。好きと嫌いの話は難しい。わたしは国語の教員になろうと思っているから、こういうことはきちんと説明できないといけないのかも。でも、難しい。そもそも学生はあまり真剣に授業を聞かないから、いっか』
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