来世は花になりたい

乃木 京介

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#3

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「今日も生きてたんだ」

 母は至って真面目な顔で僕のことを見てそう言った。

 夏休みとは名ばかりで、塾の夏期講習に朝から通う日々に嫌気が差してきた頃だった。正直なところ、今日が夏休み何日目に当たるのか覚えていない。それほど僕は疲弊している。それなのに、すっかり夜に染まった頃に帰宅した我が子に対して、これ以上不釣り合いな言葉があるだろうか。

 見送るときは「頑張ってくるのよ」だなんて笑顔さえ見せていたが、こうも情緒の変化が激しいと別人なのではないかと疑ってしまう。もっとも僕がこれまで生きてきた記憶の中で正しい母の姿は、いま目の前にいる怪物のような顔をしている母なのだが。

 母から突き刺される言葉は、意味のない音だと認識するようにしている。外国語だって理解をしていなければただの音だ。表情や語気から読み取れる感情を察したとしても、意味を持たない言葉に深く心を揺らされることはない。

 口をパクパク動かしている魚だって、本当は人間には聞こえない音で何かを発しているかもしれない。釣り竿からのびる鋭い針で海から捕獲された時、鮮度のために氷だけ張ったクーラーボックスに閉じ込められ延命されている時、まだ命があるのに無情にも捌かれている時。とてつもない絶叫や断末魔を上げていたっておかしくない。

 だから最近の僕は、母の声を風切り音だと思うようにした。もはや無機物の存在であり、色んな条件が一致することでただ音が発生するそれだけのこと。自然の原理で発生するものは、僕にはどうすることもできない。

「まろんちゃんが代わりに生きてれば良かったのにねえ」

 ペット仏壇の前に座る母は、限りなく本心として言っているのだと思う。結局のところ脳は律儀に情報を処理するようで、僕がどう意識しようと記憶には確実に刻まれている。だから僕の記憶には実際に言われた母の言葉と、過去の経験上そう言うだろうという“毒語”が混合して入り混じっている。

 この現状の厄介なところは、すぐに致死量に達するような猛毒ではないということだ。ゆっくりと、だけど確かに僕の心を蝕んで、永遠の苦しみを感じさせてくるように浸食していく。

 けれど僕はその原因となるものを排除しようとはしない。正確に言うならば、中学生という立場上どうすることもできないと言える。僕が最短でこの家を出て自立するにしても、あと数年は掛かる。そこまで命の灯火を守れるだろうか。病に侵されていると分かっているのに、治療もできずじわじわと死に迫る恐怖を待っているようなものだ。そんな未来に光はない。いや、最初から光などなかった。産まれた時からずっと。

 でもきっと、僕は恵まれている方なのだと思う。毎日勉強ができて、帰る場所があって、ご飯を食べることができて、眠ることもできる。この世界には幼い頃から働かされている子供も、親から暴力を受けている子供も、食事を与えられずお腹を空かせてる子供も、色んな恐怖で眠れない子供もたくさんいる。

 僕はただ心に大きな穴が空いているだけ。母は僕に対して物理的な脅威は加えてこないから、僕が自決をしない限り命の針が止まることはない。

 それに何も、母は僕のことが嫌いな訳ではないのだろう。塾だって僕のためを思って通わせてくれているはずだ。本当に僕のことがどうでもいい存在だとしたら、そこにお金を掛けるなんて無駄なことはしないだろうから……などと幻想を信じて思い込まなければ、とてもじゃないと生きていけない。

『<<116c20w>> 数学ワーク予習』

 マナーモードにしているスマホの画面が光った。母に気付かれないよう視認した僕は息を呑む。一見、リマインダーの通知のように見えるそれは、英数字が無作為に並べられているあとに、メモが綴られていると認識するのが普通だろう。

 だがこれは、とある人物から送られてきたメッセージだ。僕が即座に既読を付けると、送信者はすぐにメッセージを取り消して、新たな言葉を綴った。

『<<116c20w>> 明日一緒にお出かけしよう』

 またしても僕が既読を付けると、すぐにメッセージは地に返り、新たな言葉が浮遊する。

『<<116c20w>> 午前10時、駅前のターミナルに集合ね』

 およそ十数秒の間に起きた出来事だった。そこにはもう会話の履歴は残っていない。アプリの性質上、取り消したことを表すシステム的メッセージも表示されない。アプリの運営者ならログを遡って見ることもできるのだろうけれど、ユーザーという括りにすれば、先ほどのメッセージ内容を知っているのは送信者と僕だけだ。

 その時、言葉で言い表せない嫌悪感を抱いた。その原因を理解するよりも前に、母が僕のスマホを覗き込んでいたことに気付く。後追いするように鳥肌が襲う。

「何を隠れて見てるの?」

「時間の確認。部屋で勉強してくるよ」

 このアプリは表面上、学習記録アプリとして機能している。どんな目的で作られたのかは謎だが、学生が親の目を誤魔化して誰かと会話できるアプリとして流行っているらしい。確かに、SNSなどの娯楽アプリ使用を制限されたり、スマホを没収されたとしても、学習アプリを使いたいと言えば都合がいい。

 母は特に問い詰めてくることなく、僕に向かっていつものように手を伸ばす。その動作を見て当然のように僕はスマホを母に預ける。ロックがされていないスマホは、母の操作一つで簡単に全てを開示する。見慣れた様子を眺めることもなく僕は自室に逃げ込んだ。

 今頃、僕のスマホを執拗以上にチェックしているだろう。先ほどのアプリは二重構造になっていて、特定の操作をしたあとパスコードを打たないと会話ツールとしての正体を表さない。それでも疑い深い母なら、常にそのようなトレンドを追っていていつか気付く可能性もある。そんな機能があることは知らなかった、と僕がしらを切ったとしても母は激怒するだろう。

 架空の情景が容易に想像できてしまって、僕は思わず失笑する。
 とてもじゃないが、母も僕も正気な精神状態ではない。

 なぜ僕はクラスメイト一人と連絡を取ることも許されないのか。それどころか幼い頃から誰かと遊ぶことさえ許されなかった。いつだって学業に取り組むことだけが正義で、母が望む成績を取らなければ言葉の刃を深く突き刺された。

 それに対象は僕だけではなかった。僕と交友関係を築いてくれようとしたクラスメイトにも、母は毒のある言葉を振り撒いて隔離させた。どうしてそんなことをするんだと泣き喚く僕に、『あなたの人生に、あなたの邪魔をする者はいらないのよ』と告げて。いつもその顔は何か大役を果たしたように、誇りに満ち溢れたものだった。そんな僕が孤立した学校生活を送るのは当然のことだ。

 一体、僕は何のために生きているのだろう。

 何百回と考えて答えが出なかった問いを早々と放り投げ、勉強机の前の椅子に座った僕は参考書を開く。不自然についた折れ目を指でなぞりながら、頭の中では一つのシーンを想像を展開して呟いた。

「優菜と二人で外出か……」

 先ほどの送信者が優菜であることを僕は知っている。もっとも僕に連絡をしてくる人など、最初から優菜しかいない。いや、監視者である母もいるか。今はその存在を消しておこうと靄をかける。

 それより夏休みに優菜と会うことになるとは思わなかった。これまで学校という場所を除けば、放課後に寄り道をして近所の河川敷で会話の花を咲かせたことは何度かあった。だが今回は休日の一日を共に過ごすわけだ。想像するだけで、なんだか頬に熱がこもってきた気がする。

 優菜と出会ってからの僕は本当の光を知った。一縷の希望、そこに手を伸ばして歩いている。だが、これまで生きてきた中で最近思うことは、知識は世界を広げることもあるが、同時に世界を狭めることもあると感じる。少し言い方を変えると、知らないということは恐怖でもあるが、時に救いとして守られることもあるのだ。

 つまり下記のような問いがあったとした時、その模範解答は何だろう?

『優菜と出会った僕は、はたして幸せ者と呼べるだろうか?』 

 今日まで続いている光がずっと確約されているならいい。でも現実は限りなく不透明だ。一年を通してずっと太陽が輝く日など存在しないように、いつかはこの光も雲に遮られて、滴る雫が大地に口づける。だから僕が優菜のことを想う気持ちに応じて、優菜と一緒に居られる未来をも作るとは限らない。優菜と僕のあいだに亀裂が入れば、僕はまた底知れぬ深みに落ちていく。

 一度幸せを知った人間は、再びその幸せを掴むことに固執して、執着して、苦しむことを、僕は母の姿を見てよく知っている。

 もちろん僕がそうなった時、優菜を恨むようなことはしない。むしろ申し訳なく思う。僕と出会ってしまったせいで、優菜はその優しさの性質から自分のことを責めるかもしれない。僕は優菜が傷付くことなんて、これっぽっちも望んでいないのだ。

 だから優菜の記憶から僕という存在が消えることを、そして僕の記憶からも優菜という存在が消えないと、きっと僕は一生苦しむことになる。そのリスクを常に抱えながら生きていくなんて、あまりにも息苦しい。

 何をそんなに自分のことを責めているんだ、と僕を見ている君は思うかもしれない。ヒロインのように現れた優菜の救いの手を握りしめて、いつかその地獄から抜け出せばいいだろうと。

 でも僕にはその未来を想像することができなかった。母という存在がいない世界のこと。現状を苦しいと感じるが、大前提として備え付けられていた感情は、僕の思考から色々なものを排除して、ありとあらゆる“起こりえたこと“を消していった。だから幸せという存在の形を想像できないというよりは、幸せそのものを知らないという言い方の方が正しいのだろう。

 これは一種の呪いなのだ。どの選択肢を選んでも、必ずその先には母が待ち構えていて嘲笑っている。もしかすると僕が優菜に向ける好意は、母の存在があってこそなのではないか、とさえ思う。

 たとえば僕が父の元に引き取られ、ごく一般的な人生を送ることができていたとしたら、僕は優菜との出会いを他のクラスメイトのように一線を置き、色眼鏡で優菜のことを目に映し拒絶していたかもしれない。

 まるで母という存在があってこそ、優菜に価値が生まれているような……。違う、それだけは違うのに。

 とどのつまり、僕と優菜が同じ世界線で生きるには、必ず母の存在も近くに置かなければならないということだ。そして母が僕に依存するように、僕もまた優菜に依存している。

 これらを踏まえたうえで君に再度問う。
 優菜と出会った僕は、はたして幸せ者と呼べるだろうか?
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