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『テスト勉強のために一日図書館で勉強をする』と僕から告げられた母は上機嫌だった。お盆に入ったことで、久しぶりに塾が休みにも関わらず、僕が自主的に勉強することが嬉しいのだろう。はりきって手作りの弁当を僕に持たせて、頑張ってくるのよと玄関で見送る母の姿は、何も知らない人から見ればとても幸せな親子関係に映るだろうか。
だとすれば、この世界のものを何も信じられなくなる。僕が知っている優菜の姿だって、ほんの1%にも満たない事実を視ているだけなのかもしれないのだから。
醒めない夢を追い求めるように最寄りのバスへと乗り込み、駅前のターミナルまで辿り着くと、既に優菜が居て僕を出迎えてくれた。蒼色に染まった花柄のワンピースが、優菜の手を振る動きに合わせて綺麗にたなびく。今日も優菜は花のように美しい。僕は恍惚とその姿を眺めながら、高鳴る胸を抑えて手を振り返す。
「京介くん、おはよ」
「優菜、おはよう」
僕たちは一日の始まりに、必ずお互いの名前を呼んで挨拶をする。いつからかは記憶にないが、おそらく優菜が始めた習慣に、僕が合わせたのだと思う。おはようと言ってくれる相手が居ること、おはようと言える相手が居ること。上手く言葉にすることはできないが、これが幸せと呼ぶものなのかもしれない。
「ちょっと遅れちゃったかな、ごめん」
「ううん、私も今来たところ。それに京介くんなら絶対に来てくれると思ったよ」
微笑みながら優菜がそう言うように、前日に結んだ約束は決して確約されたものではなかった。もちろん僕が優菜の誘いを断ることなどない。だから僕も笑顔で頷く。
お互い朝食を取っていなかった僕たちは、駅中にあるカフェで食事をすることに決めた。夏期休暇の、それもお盆時期ということもあってか、周囲を見渡せば僕たちのような学生が多かった。店内は開店直後だというのに、ピークタイムのような賑わいを見せている。
この店の王道メニューだというモーニングセットを優菜と一緒に頼み、しばし雑談を重ねていると、優菜が何かに気付いた様子で僕に訊ねた。
「それより京介くん、スマホはどうしてる?」
「部屋に置いてきたから持ってないよ」
「ん、大丈夫なの?」
「それだけ図書館で勉強に集中したかったって言えば大丈夫だと思う。もしかしたら図書館に来て僕を探そうとするかもしれないけどね」
僕の異常な家庭環境を、優菜はもう知っている。別に言うつもりはなかったのだが、優菜は僕の隠し事をすぐに見抜く。京介くんには嘘を付く才能がこれっぽっちもないから安心して一緒に居られる、とまで言われている。
だから僕はありとあらゆる自分のことを優菜に話している。ゆえに昨日連絡を取るときも、僕の母が見ているかもしれないと警戒して、最初にフェイクのメッセージを送信してくれた。既読が付かなければ、僕の母が見ているということだからだ。
「もしお母さんが本当に探しに来たら?」
「その時はその時さ。飲み物を買いにコンビニに行っていたとか、息抜きに近くを散歩していたとでも言えば大丈夫だよ」
僕の返答に優菜は納得できていない様子だったが、タイミング良く(優菜にとっては悪いだろうが)、店員さんがオーダーしたものを次々と運んできてくれた。
表面がきつね色にこんがりと焼き上がり、カリッとした触感が視覚から十分に想像できるハニートースト。ふんわりとした黄身が朝陽のように輝き、細かな波模様が美しいスクランブルエッグ。甘さ香る湯気がほんのりと立ち、カボチャの種がお洒落に散りばめられているコーンポタージュ。
目の前に並べられた料理を一度に見た優菜は、ゴクッと生唾を呑んだ音を嘘みたいに鳴らした。「でも──」と呟いて抵抗するも今度はお腹が鳴ったようで、観念したように「ひとまず食べてから考える」と口を尖らせた。
「僕のことは心配いらないよ、今日は楽しもう」
「ん、そうする」
優菜は僕のことをとても信用してくれている。だから少しだけ心が痛い。なぜなら優菜が僕の嘘を見抜くように、僕は僕で嘘を本当のことのように話すのが上手い。母と共存するために培った処世術のようなものだ。だから優菜が知る僕は、完全なオリジナルの僕ではない。
いつの日か今日のことが発覚すれば、僕は母から“罰”を受ける。優菜がそれを知ったら自分のことを責めるだろう。僕のことを遊びに誘うこともなくなるかもしれない。慎重に言葉を選ぶゆえに会話することもなくなるかもしれない。僕の存在が重すぎて離れていってしまうかもしれない。そんな悲しい未来を僕は望まない。
だからこれでいいのだ。この世界には優しい嘘も存在する。誰かを傷付ける嘘ではなく、誰かを守るための嘘。そうは言いながらも結局は自分の為なんだと思う。僕は自分の“知ってほしい部分だけ“を都合良く優菜に見せているとも言えるのだから。
幸せそうな顔をしながら「美味しいね」と呟く優菜を見ていると、不意にその何物にも代えられない美しさを記憶に収めたいと思った。
記憶というものは古いものから徐々に忘却されていく。上書きして残すためには、定期的に刻み続ける必要がある。母が僕に対して接するように。
いま僕の手元にスマホがあったとしても、写真を残すことはできない。母に見つかり削除されるだけなら、あるいは僕が“罰”を受けるだけなら我慢できる。けれど母のことだから、実際は優菜に対して危険が及ぶだろう。だから何よりも信用できるこの目で焼き付けるのだ。ちょっと昔ならスマホなんてものは存在しなかったのだから、なにも悲観することはない。
中学生がスマホを持っている割合は、おおよそ8割にも上ると聞いたことがある。母が僕にスマホを与えているのは、あくまでも僕の行動を制限するためだ。位置情報を共有し、毎日全ての情報を確認され、常に自分の支配下に置き続ける。もちろん記録に残らないこともあるから、毎日どんな出来事があったのか事細かく報告しなければならない。だから優菜と出会ってからの僕は、常に母に対して嘘を付いていることになる。もし全てが露呈したときのことを考えると恐ろしい。だけどもう後戻りなんてできない。
そんな境遇で生きているのに、それでも僕は母のことを完全に見捨てられずにいる。もしかすると母は、子供の頃に異様な家庭環境の元に育てられたのではないか。そんな境遇で生きてきて、ようやく愛を結び合えたと思っていたパートナーにも別れを告げられたとすれば。僕が物心付いたころから、家には母しか居なかった。僕という存在が、母にとって一縷の光だとすれば、それを手放したくない気持ちには同情できる。
そのような思考も母が掛けている呪いの影響なのかもしれない。これまで期待に応えて、母が望む理想の子供を演じてきたが、もう長くは持たない気がした。いつも僕の直感はたいてい当たる。もちろん、主に悪いことだけ。
もし優菜が僕の立場ならどうやって生きるだろう。いつか聞いてみたいと思った。けれど今はその思いを食事と一緒に呑み込み、ただそこにある幸せを目に映し続けた。
僕が想像する遊びはゲーセンやカラオケのような娯楽施設だったが、食事を終えてから優菜に提案された場所は、実に彼女らしいものだった。
「夢際の丘っていうお花畑があってね、そこに京介くんと一緒に行きたいの。街の外れにあって、バスを乗り継ぐから少し時間がかかっちゃうんだけど……いいかな?」
「もちろんだよ。あ、でも待って……」
確かめるまでもなかったのだが、僕はポケットから素朴な財布を取り出して中身を視認する。なけなしの小銭が、身を寄せ合って息を潜めているだけだった。
僕が逡巡している様子を見て、優菜が首を傾げる。こんなところで嘘を付いても解決しないし、かといって優菜が望む目的地を変える提案もしたくない。ここは正直に告げよう。
「ごめん、入場料を払うお金がないんだ……」
僕の心配を他所に「なんだそんなことか」と優菜は笑う。
「私が払うよ。その代わり一つ約束してね」
「約束?」
「向こうに着いたら一緒に写真を撮りたいの」
♢
「今日は一日中、お日様が出るって言ってたのに!」とバスの中で優菜が言うくらいには、おかしな天気だった。優菜と合流した時は雲ひとつ見えない晴天だったのに、今や空の青さはどことやら。一転、自慢げに上空を支配している灰色の雲が一面を覆い始め、しまいには霧雨が降り始めている。この様子だといつ本降りになってもおかしくない。
二人でそわそわしながらバスを乗り継ぎ、ようやく目的地の花畑まで辿り着いた。僕たちが入場口へと歩みを進めていく一方で、帰路に着こうと慌ただしく駆けていく人達が退場口から出てくる。そんな光景を見て優菜の足が一瞬止まるが、すぐにまた動き出す。
「ここまで来たんだから付き合ってね。私と京介くんが最後の二人になったとしても」
「もちろん。そのときは僕たちの貸し切りだな。いつもの図書室で過ごす時間みたいだ」
というような決意表明を交わして、僕たちは雨具一つも持たずに夢際の丘へと足を踏み入れた。
町外れにある花畑は、まるで世界のどこにも属さない夢の中のような幻想的な場所で……なんてことはなく、夢際の丘というその名前から情景を想像してしまうと、少し物足りなさを感じてしまう花畑だった。
入園する時に貰ったパンプレットに目を落とすと、フロアマップとこれまでの歴史が写真と共に文字で綴られていた。僕たちがちょうど生まれた頃に最も栄えた観光地らしく、所々に人々が残していった思い出の面影が確かに感じられる。
しかし今は整備が追い付いていないのか、枯れている花や朽ちかけた柵も目立つ。だけどそれもまた、人の手が加えられていない自然な美しさを感じられるとも言える。となると“夢際の丘”という名前も、また違った意味合いを持って時代を巡っているのかもしれない。
とても花畑を見るとは思えない歩幅で、僕たちは園内の花を次々目に映していく。丘の頂に向かって進むにつれ、霧雨の粒が大きくなり風も目立つようになった。優菜は時折、空を恨むように見上げていたが、その表情は決して暗くなかった。
まるで曙光を受けているかのような明るい笑みを常に浮かべて、この状況でも大いに楽しんでいる。そんな優菜の眩さに惹かれるように、花も生き生きと咲いているように僕には見えた。自分一人では決して行かないような場所だが、それを美しいと思うくらいには感性が刺激されて、特別な場所だなと感じた。もっともそれは、他の誰でもない優菜と一緒に行けたことで、何よりも価値が生まれているのだと思う。
「京介くん見て! ラベンダーだよ!」
大まかなエリアが変わる度に、優菜は感情を言葉で、表情で、身体の動きで僕に伝えてくれた。いま目の前にあるのは、観賞用に規則的に並び植えられていることを除けば、至って変哲もないラベンダーだ。だが優菜の反応を見ていると、まだ名もない新種の花を見つけたかのような高揚感さえ抱く。
正直なところ、僕の目に映っていた時間は、花より優菜の姿の方が多かったと思う。屈託のない笑顔が溢れ、花を見つめる横顔になってもその美しさが霞むことはない。歩く後ろ姿でさえ絵になるような様は、もはや優菜そのものが花畑のメインであると言っていいほど魅力的だ。なにより今その光景が、僕の目にだけ映っていることがたまらなく幸せだった。
太陽が沈めば、いずれ月が浮かぶように。始まりがあれば、当然終わりもあって。遠くから雷鳴が聞こえてきたとき、もうこの時間は長く続かないのだと急に実感した。最後くらいは何か、僕も明瞭な言葉を伝えてみようかと迷っていた時、隣を歩いていた優菜が独り言のように呟いた。
「花の美しさを感じると、心に波紋が広がって大切な人に会いたくなるよね」
分かる気がする、と言いかけた口を噤んだ。そのまま受け止めるにはどこか違和感を抱いた気がして、優菜が呟いた言葉を繰り返し頭の中で再生させる。何度目かの声が心髄まで届いた時、やっぱりそうだよなと僕は察した。ずっとその輪郭は見えていたけれど、見ない振りをしていたもの。
雨が降る前の匂いがする。あと何分後に地面を濡らしてくれるのだろう。できれば今すぐにでも降ってほしかった。
丘の頂には、僕たち二人がちょうど座れるくらいの木製ベンチが一つだけぽつんと置かれていた。僕たちは迷いなく隣り合って座り、無言でしばしの余韻に浸る。
やがて雨粒と呼んでいい音と、優菜の声が重なった。
「もう帰ろっか」
帰りたくないな、と呟いたが声にはならなかった。
僕は空を見上げながら代わりの言葉を返す。
「まだ居てもいいよ。あと三十分は大降りにはならないさ」
「図書館で勉強しているはずの京介くんが、濡れてお家に帰ってきたらおかしいでしょう」
「それは何か上手い言い訳を考えるよ」
「じゃあ、もし私たちの家の周辺では雨が降っていなかったら?」
「眠気覚ましに水を浴びようと思ったら、蛇口を勢いよく捻りすぎた。これでどう?」
「京介くん、帰ろう」
最後は優菜に袖を掴まれて、僕たちは夢際の丘に別れを告げた。
優菜が希望していた2ショット写真は、僕たちと同じように最後まで雨の中での鑑賞を楽しんでいた人に撮ってもらった。さっそく優菜のスマホに収められた写真を確認してみると、お互い雨粒を受けて髪が乱れていたり、風の強さに目を細めていたりと散々だ。
だけどそこに映っていた優菜の天使のような微笑みはもちろん、僕もとっても幸せそうな顔をしていた。母が監視する僕のスマホには当然残しておけないので、優菜から写真を送ってもらうこともできない。優菜と会える時はいつでも見せてもらえるだろうが、なんだかそれは気恥ずかしい。だからいつでも思い出せるように記憶へ焼け付けておく。僕がこれから生きていくための御守りになるかもしれないから。
終に降り出した大粒の雨は、帰りのバスの屋根に守られて直接受けることはなかった。雨粒がバスの窓ガラスを強く叩いている。そこに反射して映る自分の顔に水滴が重なっていた。その中で一本の線が、鮮明に引かれて頬まで伝っている。僕はそれを優菜に気付かれないように指でぬぐった。
花畑で過ごした時間は、たった一時間ほどの出来事だったと思う。一瞬に感じられたが、記憶には一生残る大切な思い出になった。僕と同じくらいの鮮やかさはなくとも、この思い出が優菜の記憶にもずっと残っていますようにと願った。
もう少しで駅前に着くとき、ふと自分の手に温もりを感じた。それは初夏の柔らかな陽射しを受けたような感覚に似ていたけれど、肌を通じて、鼓動を揺らし、僕の心を優しく撫でくれた。
重なっているのであろう手も、優菜の顔も見ることはできなかった。これ以上の幸せを憶えてしまったら、未来の僕が生きていけそうになかったから。
「来世は花になりたいね」
いつもとは違う一文字付け加えられた言葉の意味を、優菜の心情通りに理解できたかは分からない。けれどやっぱり優菜も、僕と同じ世界で生きる人間なのだと思った。それがすごく嬉しくて、だけど優菜にさえこの世界で生きるのは困難なことなのだと思うと、それ以上に悲しくなった。
だとすれば、この世界のものを何も信じられなくなる。僕が知っている優菜の姿だって、ほんの1%にも満たない事実を視ているだけなのかもしれないのだから。
醒めない夢を追い求めるように最寄りのバスへと乗り込み、駅前のターミナルまで辿り着くと、既に優菜が居て僕を出迎えてくれた。蒼色に染まった花柄のワンピースが、優菜の手を振る動きに合わせて綺麗にたなびく。今日も優菜は花のように美しい。僕は恍惚とその姿を眺めながら、高鳴る胸を抑えて手を振り返す。
「京介くん、おはよ」
「優菜、おはよう」
僕たちは一日の始まりに、必ずお互いの名前を呼んで挨拶をする。いつからかは記憶にないが、おそらく優菜が始めた習慣に、僕が合わせたのだと思う。おはようと言ってくれる相手が居ること、おはようと言える相手が居ること。上手く言葉にすることはできないが、これが幸せと呼ぶものなのかもしれない。
「ちょっと遅れちゃったかな、ごめん」
「ううん、私も今来たところ。それに京介くんなら絶対に来てくれると思ったよ」
微笑みながら優菜がそう言うように、前日に結んだ約束は決して確約されたものではなかった。もちろん僕が優菜の誘いを断ることなどない。だから僕も笑顔で頷く。
お互い朝食を取っていなかった僕たちは、駅中にあるカフェで食事をすることに決めた。夏期休暇の、それもお盆時期ということもあってか、周囲を見渡せば僕たちのような学生が多かった。店内は開店直後だというのに、ピークタイムのような賑わいを見せている。
この店の王道メニューだというモーニングセットを優菜と一緒に頼み、しばし雑談を重ねていると、優菜が何かに気付いた様子で僕に訊ねた。
「それより京介くん、スマホはどうしてる?」
「部屋に置いてきたから持ってないよ」
「ん、大丈夫なの?」
「それだけ図書館で勉強に集中したかったって言えば大丈夫だと思う。もしかしたら図書館に来て僕を探そうとするかもしれないけどね」
僕の異常な家庭環境を、優菜はもう知っている。別に言うつもりはなかったのだが、優菜は僕の隠し事をすぐに見抜く。京介くんには嘘を付く才能がこれっぽっちもないから安心して一緒に居られる、とまで言われている。
だから僕はありとあらゆる自分のことを優菜に話している。ゆえに昨日連絡を取るときも、僕の母が見ているかもしれないと警戒して、最初にフェイクのメッセージを送信してくれた。既読が付かなければ、僕の母が見ているということだからだ。
「もしお母さんが本当に探しに来たら?」
「その時はその時さ。飲み物を買いにコンビニに行っていたとか、息抜きに近くを散歩していたとでも言えば大丈夫だよ」
僕の返答に優菜は納得できていない様子だったが、タイミング良く(優菜にとっては悪いだろうが)、店員さんがオーダーしたものを次々と運んできてくれた。
表面がきつね色にこんがりと焼き上がり、カリッとした触感が視覚から十分に想像できるハニートースト。ふんわりとした黄身が朝陽のように輝き、細かな波模様が美しいスクランブルエッグ。甘さ香る湯気がほんのりと立ち、カボチャの種がお洒落に散りばめられているコーンポタージュ。
目の前に並べられた料理を一度に見た優菜は、ゴクッと生唾を呑んだ音を嘘みたいに鳴らした。「でも──」と呟いて抵抗するも今度はお腹が鳴ったようで、観念したように「ひとまず食べてから考える」と口を尖らせた。
「僕のことは心配いらないよ、今日は楽しもう」
「ん、そうする」
優菜は僕のことをとても信用してくれている。だから少しだけ心が痛い。なぜなら優菜が僕の嘘を見抜くように、僕は僕で嘘を本当のことのように話すのが上手い。母と共存するために培った処世術のようなものだ。だから優菜が知る僕は、完全なオリジナルの僕ではない。
いつの日か今日のことが発覚すれば、僕は母から“罰”を受ける。優菜がそれを知ったら自分のことを責めるだろう。僕のことを遊びに誘うこともなくなるかもしれない。慎重に言葉を選ぶゆえに会話することもなくなるかもしれない。僕の存在が重すぎて離れていってしまうかもしれない。そんな悲しい未来を僕は望まない。
だからこれでいいのだ。この世界には優しい嘘も存在する。誰かを傷付ける嘘ではなく、誰かを守るための嘘。そうは言いながらも結局は自分の為なんだと思う。僕は自分の“知ってほしい部分だけ“を都合良く優菜に見せているとも言えるのだから。
幸せそうな顔をしながら「美味しいね」と呟く優菜を見ていると、不意にその何物にも代えられない美しさを記憶に収めたいと思った。
記憶というものは古いものから徐々に忘却されていく。上書きして残すためには、定期的に刻み続ける必要がある。母が僕に対して接するように。
いま僕の手元にスマホがあったとしても、写真を残すことはできない。母に見つかり削除されるだけなら、あるいは僕が“罰”を受けるだけなら我慢できる。けれど母のことだから、実際は優菜に対して危険が及ぶだろう。だから何よりも信用できるこの目で焼き付けるのだ。ちょっと昔ならスマホなんてものは存在しなかったのだから、なにも悲観することはない。
中学生がスマホを持っている割合は、おおよそ8割にも上ると聞いたことがある。母が僕にスマホを与えているのは、あくまでも僕の行動を制限するためだ。位置情報を共有し、毎日全ての情報を確認され、常に自分の支配下に置き続ける。もちろん記録に残らないこともあるから、毎日どんな出来事があったのか事細かく報告しなければならない。だから優菜と出会ってからの僕は、常に母に対して嘘を付いていることになる。もし全てが露呈したときのことを考えると恐ろしい。だけどもう後戻りなんてできない。
そんな境遇で生きているのに、それでも僕は母のことを完全に見捨てられずにいる。もしかすると母は、子供の頃に異様な家庭環境の元に育てられたのではないか。そんな境遇で生きてきて、ようやく愛を結び合えたと思っていたパートナーにも別れを告げられたとすれば。僕が物心付いたころから、家には母しか居なかった。僕という存在が、母にとって一縷の光だとすれば、それを手放したくない気持ちには同情できる。
そのような思考も母が掛けている呪いの影響なのかもしれない。これまで期待に応えて、母が望む理想の子供を演じてきたが、もう長くは持たない気がした。いつも僕の直感はたいてい当たる。もちろん、主に悪いことだけ。
もし優菜が僕の立場ならどうやって生きるだろう。いつか聞いてみたいと思った。けれど今はその思いを食事と一緒に呑み込み、ただそこにある幸せを目に映し続けた。
僕が想像する遊びはゲーセンやカラオケのような娯楽施設だったが、食事を終えてから優菜に提案された場所は、実に彼女らしいものだった。
「夢際の丘っていうお花畑があってね、そこに京介くんと一緒に行きたいの。街の外れにあって、バスを乗り継ぐから少し時間がかかっちゃうんだけど……いいかな?」
「もちろんだよ。あ、でも待って……」
確かめるまでもなかったのだが、僕はポケットから素朴な財布を取り出して中身を視認する。なけなしの小銭が、身を寄せ合って息を潜めているだけだった。
僕が逡巡している様子を見て、優菜が首を傾げる。こんなところで嘘を付いても解決しないし、かといって優菜が望む目的地を変える提案もしたくない。ここは正直に告げよう。
「ごめん、入場料を払うお金がないんだ……」
僕の心配を他所に「なんだそんなことか」と優菜は笑う。
「私が払うよ。その代わり一つ約束してね」
「約束?」
「向こうに着いたら一緒に写真を撮りたいの」
♢
「今日は一日中、お日様が出るって言ってたのに!」とバスの中で優菜が言うくらいには、おかしな天気だった。優菜と合流した時は雲ひとつ見えない晴天だったのに、今や空の青さはどことやら。一転、自慢げに上空を支配している灰色の雲が一面を覆い始め、しまいには霧雨が降り始めている。この様子だといつ本降りになってもおかしくない。
二人でそわそわしながらバスを乗り継ぎ、ようやく目的地の花畑まで辿り着いた。僕たちが入場口へと歩みを進めていく一方で、帰路に着こうと慌ただしく駆けていく人達が退場口から出てくる。そんな光景を見て優菜の足が一瞬止まるが、すぐにまた動き出す。
「ここまで来たんだから付き合ってね。私と京介くんが最後の二人になったとしても」
「もちろん。そのときは僕たちの貸し切りだな。いつもの図書室で過ごす時間みたいだ」
というような決意表明を交わして、僕たちは雨具一つも持たずに夢際の丘へと足を踏み入れた。
町外れにある花畑は、まるで世界のどこにも属さない夢の中のような幻想的な場所で……なんてことはなく、夢際の丘というその名前から情景を想像してしまうと、少し物足りなさを感じてしまう花畑だった。
入園する時に貰ったパンプレットに目を落とすと、フロアマップとこれまでの歴史が写真と共に文字で綴られていた。僕たちがちょうど生まれた頃に最も栄えた観光地らしく、所々に人々が残していった思い出の面影が確かに感じられる。
しかし今は整備が追い付いていないのか、枯れている花や朽ちかけた柵も目立つ。だけどそれもまた、人の手が加えられていない自然な美しさを感じられるとも言える。となると“夢際の丘”という名前も、また違った意味合いを持って時代を巡っているのかもしれない。
とても花畑を見るとは思えない歩幅で、僕たちは園内の花を次々目に映していく。丘の頂に向かって進むにつれ、霧雨の粒が大きくなり風も目立つようになった。優菜は時折、空を恨むように見上げていたが、その表情は決して暗くなかった。
まるで曙光を受けているかのような明るい笑みを常に浮かべて、この状況でも大いに楽しんでいる。そんな優菜の眩さに惹かれるように、花も生き生きと咲いているように僕には見えた。自分一人では決して行かないような場所だが、それを美しいと思うくらいには感性が刺激されて、特別な場所だなと感じた。もっともそれは、他の誰でもない優菜と一緒に行けたことで、何よりも価値が生まれているのだと思う。
「京介くん見て! ラベンダーだよ!」
大まかなエリアが変わる度に、優菜は感情を言葉で、表情で、身体の動きで僕に伝えてくれた。いま目の前にあるのは、観賞用に規則的に並び植えられていることを除けば、至って変哲もないラベンダーだ。だが優菜の反応を見ていると、まだ名もない新種の花を見つけたかのような高揚感さえ抱く。
正直なところ、僕の目に映っていた時間は、花より優菜の姿の方が多かったと思う。屈託のない笑顔が溢れ、花を見つめる横顔になってもその美しさが霞むことはない。歩く後ろ姿でさえ絵になるような様は、もはや優菜そのものが花畑のメインであると言っていいほど魅力的だ。なにより今その光景が、僕の目にだけ映っていることがたまらなく幸せだった。
太陽が沈めば、いずれ月が浮かぶように。始まりがあれば、当然終わりもあって。遠くから雷鳴が聞こえてきたとき、もうこの時間は長く続かないのだと急に実感した。最後くらいは何か、僕も明瞭な言葉を伝えてみようかと迷っていた時、隣を歩いていた優菜が独り言のように呟いた。
「花の美しさを感じると、心に波紋が広がって大切な人に会いたくなるよね」
分かる気がする、と言いかけた口を噤んだ。そのまま受け止めるにはどこか違和感を抱いた気がして、優菜が呟いた言葉を繰り返し頭の中で再生させる。何度目かの声が心髄まで届いた時、やっぱりそうだよなと僕は察した。ずっとその輪郭は見えていたけれど、見ない振りをしていたもの。
雨が降る前の匂いがする。あと何分後に地面を濡らしてくれるのだろう。できれば今すぐにでも降ってほしかった。
丘の頂には、僕たち二人がちょうど座れるくらいの木製ベンチが一つだけぽつんと置かれていた。僕たちは迷いなく隣り合って座り、無言でしばしの余韻に浸る。
やがて雨粒と呼んでいい音と、優菜の声が重なった。
「もう帰ろっか」
帰りたくないな、と呟いたが声にはならなかった。
僕は空を見上げながら代わりの言葉を返す。
「まだ居てもいいよ。あと三十分は大降りにはならないさ」
「図書館で勉強しているはずの京介くんが、濡れてお家に帰ってきたらおかしいでしょう」
「それは何か上手い言い訳を考えるよ」
「じゃあ、もし私たちの家の周辺では雨が降っていなかったら?」
「眠気覚ましに水を浴びようと思ったら、蛇口を勢いよく捻りすぎた。これでどう?」
「京介くん、帰ろう」
最後は優菜に袖を掴まれて、僕たちは夢際の丘に別れを告げた。
優菜が希望していた2ショット写真は、僕たちと同じように最後まで雨の中での鑑賞を楽しんでいた人に撮ってもらった。さっそく優菜のスマホに収められた写真を確認してみると、お互い雨粒を受けて髪が乱れていたり、風の強さに目を細めていたりと散々だ。
だけどそこに映っていた優菜の天使のような微笑みはもちろん、僕もとっても幸せそうな顔をしていた。母が監視する僕のスマホには当然残しておけないので、優菜から写真を送ってもらうこともできない。優菜と会える時はいつでも見せてもらえるだろうが、なんだかそれは気恥ずかしい。だからいつでも思い出せるように記憶へ焼け付けておく。僕がこれから生きていくための御守りになるかもしれないから。
終に降り出した大粒の雨は、帰りのバスの屋根に守られて直接受けることはなかった。雨粒がバスの窓ガラスを強く叩いている。そこに反射して映る自分の顔に水滴が重なっていた。その中で一本の線が、鮮明に引かれて頬まで伝っている。僕はそれを優菜に気付かれないように指でぬぐった。
花畑で過ごした時間は、たった一時間ほどの出来事だったと思う。一瞬に感じられたが、記憶には一生残る大切な思い出になった。僕と同じくらいの鮮やかさはなくとも、この思い出が優菜の記憶にもずっと残っていますようにと願った。
もう少しで駅前に着くとき、ふと自分の手に温もりを感じた。それは初夏の柔らかな陽射しを受けたような感覚に似ていたけれど、肌を通じて、鼓動を揺らし、僕の心を優しく撫でくれた。
重なっているのであろう手も、優菜の顔も見ることはできなかった。これ以上の幸せを憶えてしまったら、未来の僕が生きていけそうになかったから。
「来世は花になりたいね」
いつもとは違う一文字付け加えられた言葉の意味を、優菜の心情通りに理解できたかは分からない。けれどやっぱり優菜も、僕と同じ世界で生きる人間なのだと思った。それがすごく嬉しくて、だけど優菜にさえこの世界で生きるのは困難なことなのだと思うと、それ以上に悲しくなった。
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青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
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