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夢を見た。僕は部屋の片隅に蹲り、何かに怯えるように身体を震わせている。心臓がうるさいくらい声を上げていて、その口を塞ぐように極限まで身を丸くする。その音を嗅ぎつけたように何かが近付いてくる。母の足音だ。それも怒りに満ちた、力強い振動が床を通じて身体に伝わってくる。
夢の中の僕は、高速で思考を整理する。図書館で勉強をすると言ったのに、優菜と一緒に遊びに行ったことがバレたのだろう。“罪の計量”は相当に重い。過去に同等の過ちを犯してしまった時、僕はどうなった? それが再び繰り返されたとなると……。
「京介くん」
答えが出る前に聴こえた声は、震え上がった僕の心を温かく包み込んでくれた。じんわりと広がる安堵感が心地よい。落ち着きを取り戻したように、僕の心は再びゆっくりと正常な呼吸を取り戻す。
「大丈夫だよ。私がずっと傍にいるから」
優菜は怯える僕の隣に座ってそう言ってくれた。
「ずっとっていうのは学生期間だけのこと?」
「ううん、私たちが花になってその命を全うするまで。だからずっと一緒だよ」
僕は緩みかけた頬に力を入れる。そんな都合の良い話なんて、これまで生きてきた中でたった一度も存在しなかった。きっとこれは母の罠だ。優菜に扮した母が、僕のことを騙して何かを引き出そうとしている。
「いいや、優菜はいつか離れていってしまう。僕の悪い直感は当たるんだ。僕の弱さに呆れて、いつまでもうじうじと変わらない姿を見て嫌になって、あの日僕に話しかけたことは間違いだったと後悔する時がくる」
「それは違うなあ。私は京介くんと一緒に居たくて、自分で選択して今ここに居るんだよ。そんな私の行動は間違ってる? 京介くんにとって迷惑?」
僕は無言で首を横に振る。
「ただ私を信じてくれるだけでいいの。京介くんが幸せでいられる魔法を私がかけてあげる。だから顔を上げて、ほらもう一度立ち上がれるでしょう?」
夢はそこで覚めた。目の前に残った空疎な現実を掴んで思う。
僕の願望や欲望が詰まった、造花のような夢だったなと。
♢
優菜の家庭も片親であるということを知った時、僕はさほど驚くことなく受け止めた。前々から料理に留まらず家事をしているだとか、学校終わりにスーパーで買い物をしているだとか、いつも頑張っているお母さんを救いたいという言葉をよく聞いていた。
優菜の話に出てくる母の存在は、僕の母とは別次元で生きる優しい人だった。「私を特別に愛してくれることを除けば、どこにでもいるような普通のお母さんだよ」といつも嬉しそうに優菜は話していた。だが僕にとってその普通は特別な母だった。普通とは、特別が積み重なって成り立つものなのだと知った。
だから僕がそう思うように、優菜にとっての普通も異なるだろう。いつか優菜も母からの愛情を過保護と感じるかもしれない。優しさを過干渉と感じるかもしれない。その逆で僕の家庭だって、誰かから見ればそれは深い特別な愛情の証だと羨ましがられる対象にもなり得る。正しさの形なんて、ずいぶん脆くて曖昧なものだ。
最近の母は恐ろしいほど落ち着いていて、それでいて気味の悪い優しさを感じる。優菜と遊びに行った日のことがあり、後ろめたさがあるからそう感じるのだろうか。あるいは夢の中の僕が考えたように、当日にはとっくに見抜かれていて、今ごろ僕の“処置”を思慮しているのかもしれない。
いずれにしても、僕には何もすることができない。これまでと同じように、それを自分の運命だと受け止めるしかない。見ない振りをするのは得意だ。
夏休みが明けた翌日、優菜が初めて学校を休んだ。『すっかり昼夜逆転しちゃって起きられなかった。私は元気だから大丈夫だよ』とメッセージが届いたが、その文面を言葉通り受け取るほど、僕たちの関係性は浅くないと思っている。普段の優菜なら、もし一睡もできなかったとしても、僕にその様子を感じさせず学校に来るだろうから。
やはり一日二日に留まらず、優菜は一週間まるまる学校を欠席した。「お前はいつも美月と一緒に居るだろう?」と担任からプリントを渡された時、一瞬誰のことかと戸惑ったが、優菜の性名であることを思い出して引き受けた。いつの間にか僕の中で、優菜と呼ぶことは特別ではなく普通のことになっていたようだ。
それにしても、この一週間はとても寂しく感じた。いつも図書室や下校時に優菜と談笑をすることが多かったから当然のことだ。それに夏休みに会ったあの日以降、時折メッセージで短い言葉を交わすだけだった。僕はお盆明けからまた塾に通わなければいけなかったし、優菜もいろいろと家の事情があってお互いにタイミングが合わなかった。
もちろん、一日のどこかで合間を縫って会うことはいつでも出来ただろうが、母の監視下に置かれているということは、想像している以上に行動や思考に制限が掛かる。一度でも発覚してしまえば、もう二度と優菜とは今のような関係性には戻れない。そのリスクはあまりにも代償として大きすぎる。だから僕にとって学校は、無条件で優菜と一緒に時間を過ごせる救いの場所なのだ。
なにはともあれ優菜と会う口実ができたのは幸いなことだ。こういう心配事は引き延ばしせず、直接顔を合わせて確かめたほうがいい。
帰りのホームルームが終わり一目散に教室を出た僕は、足早に優菜の家へと向かう。これから控えている塾の時間から逆算すると、およそ三十分ほどは話す猶予がありそうだった。近況を交わすには充分だろう。
そういえば、僕はいつ優菜の家を知ったんだっけ……? と思いながら辿り着いた家のインターフォンを押すと、十数秒ほどで玄関扉が開いた。目の前に現れた優菜は、僕の記憶にある面影の純度百パーセントを保ち、そのまま一寸の狂いもなく重なった。一週間で記憶が薄れていないことに僕は安堵する。
部屋着だろうか、いつもとは違う日常に溶ける姿も可憐で似合っている。思わず無言でまじまじと見つめる僕に「来るなら連絡してよ!」と優菜は恥ずかしそうに僕の肩を小突いた。
「もう……お母さんかと思ったから部屋着で出てきちゃったよ」
「ごめん。どうしてもすぐに届けたいものがあったんだ」
優菜はそれだけで全てを察してくれたようで、いつもの優しい笑顔を浮かべてくれた。
「そうだったんだ、ありがとう。上がっていいよ」
優菜に招かれた僕は「お邪魔します……」と恐るおそる玄関口に足を踏み入れる。きょろきょろと辺りを見渡しながら優菜の後を付いていく僕の姿は、親戚の家に遊びに来た人見知りの子供みたいだろうな、と自分で想像して苦笑した。
リビングのソファーに座るように促された僕は、解けない緊張から縮こまるように座る。二人分のマグカップを持ってきた優菜が、そんな僕の姿を見て笑う。
「もっとリラックスしなよ」
「なんだか落ち着かないよ」
「夏休みのあの日、一緒に遊びに行ったのに?」
「だからこそだよ」
優菜からマグカップを受け取り、緊張で乾いた喉を潤すために口を付ける。ようやく普段の落ち着きを取り戻した僕は、自分の鞄からファイルを取り出して優菜に手渡した。
「これ溜まってたプリント。主にテストがどうとかの話だけど」
「ありがとう。そっかあ、すぐに学力テストがあるもんね」
「そろそろ内申点の目途も立ってくる頃だし、進路を定める時期だよな。優菜は決めてる?」
「うん、候補はいくつか」
そのような日常会話を重ねていくなかで、特に優菜の異変は見られなかった。少なくともそこに居るのは“僕が知り得る”優菜だ。
思えば優菜は、常日頃あれほど元気を振り撒いているのだ。それに家に帰れば、母の手助けをするために家のことも率先して行っている。いつも頑張っているぶん、思う存分休む時間だって必要だ。
ある程度の近状を交わしたところで会話は途切れた。時間も丁度いい頃合いだろう。表向きの理由であるプリントは渡し、優菜の体調も後少しだけ休めば回復する見込みだと分かり安心した。
リビングの片隅に置かれていた空気清浄機が、沈黙を救うように音を立てる。その力を借りて立ち上がり、『じゃあ今日この辺で』と言いかけた僕の言葉に交じって、優菜が囁くように音を乗せた。
「京介くんは何かに頑張れないとき、どうしてる?」
とてもシンプルな問題で、だけどテスト終盤に待ち構えている大問のような難しさだった。それでも過去の経験上、ここで無言になっていけないことだけは分かった。優菜が勇気を振り絞って伸ばした手を、そのままにしてはおけない。
「その頑張ることは、自分の意思で決めているかどうかにもよるかな」
「自分の意思で決めている。でも用意されていた選択肢は、自分で決めたものではない」
矛盾してそうで、実はこの上ない正確な表現であることを、僕は自分の境遇と重ねてすぐに理解した。
しかしこういうとき、どう答えるのが正解なのだろう。ひとまず共感や理解の言葉をかけて、優しく心を抱きしめるべきか。あるいは現実を変えられない慰めなんかより、一つの解決案を示して手を取るべきか。どちらも人によっては優しさであるし、あるいは冷たさにもなり得る。
だがそれよりも今僕が危惧すべきことは、これまで約半年間のあいだ一緒に居たのに、優菜が抱えている問題に対して何も見当がつかないということだ。
その動揺は瞬く間に僕の身体を駆け巡り、せめてもの足掻きで出来合いの言葉を作り出した。
「優菜はどうしたい?」
「私は頑張りたいよ。無理をしてでも、私が望む未来を掴みたかった。でもね、頑張っても変えられないこともあるのかもしれない」
「ずっと頑張らなくてもいいんだよ。たまには休むことも──」
「京介くんは分かってない」
僕の言葉を遮った優菜は、今にも涙を流しそうな気持ちを堪えて身体を震わせていた。
「私がどれだけ君のことを思って生きているか。私がどれだけ君のことを考えて言葉や行動を選んでいるか。私がどれだけ君のことを好きか──京介くんは分かってる?」
初めて優菜が直接的な言葉で想いを伝えた瞬間だった。命を削るようなその声を聞いているのに、今の僕はただ目の前にいる優菜の姿が消えないように、視線を合わせ続けることしかできない。
やがて優菜は貼り付けたような笑顔を浮かべる。
「あはは重いよね、冗談だよ。京介くんはこれから塾でしょう? 私はもう大丈夫、また学校で会おうね」
結局僕は最後まで、自分の言葉を見つけて気持ちを伝えることはできなかった。
塾で過ごす時間は恐ろしいほど長く感じた。途中から記憶には何も残っていなくて、気付いた時には家の近くの児童遊園でブランコに乗って揺れていた。夜風に促されて帰宅した時、母が鬼のような剣幕で何か言っていたけれど聞こえなかった。僕は聞こえない振りも得意だ。
そうやって対峙しないといけない問題から目を背けて逃げてきたから、僕にとって都合の良いものだけを目に映したり聞き続けていたから──自分の大切な人が何かに苦しんでいる時でさえも、僕は現実を直視できず何もできなかったのだ。
土日が明けても優菜は学校に来なかった。
だけど毎日メッセージを送ってくれるようになった。
僕は母の目を掻い潜り、今まで以上にたくさんの言葉を優菜と交わした。
優菜は近いうちにまた学校へ行くと約束を結んでくれた。
『僕も優菜のことが好きだ』
いつの日か、そんな文字を打ち込んだが送信することはなかった。
もしこの言葉を伝えるのだとしたら、優菜と直接会って顔を合わせた時に、自分の声で伝えるのが一番だと思ったから。
あの日の出来事を絶対に忘れないように、僕は毎日深く記憶に刻み込んでいる。
もう二度と、優菜の綺麗な顔に悲しい涙を浮かべさせてはいけない。
夢の中の僕は、高速で思考を整理する。図書館で勉強をすると言ったのに、優菜と一緒に遊びに行ったことがバレたのだろう。“罪の計量”は相当に重い。過去に同等の過ちを犯してしまった時、僕はどうなった? それが再び繰り返されたとなると……。
「京介くん」
答えが出る前に聴こえた声は、震え上がった僕の心を温かく包み込んでくれた。じんわりと広がる安堵感が心地よい。落ち着きを取り戻したように、僕の心は再びゆっくりと正常な呼吸を取り戻す。
「大丈夫だよ。私がずっと傍にいるから」
優菜は怯える僕の隣に座ってそう言ってくれた。
「ずっとっていうのは学生期間だけのこと?」
「ううん、私たちが花になってその命を全うするまで。だからずっと一緒だよ」
僕は緩みかけた頬に力を入れる。そんな都合の良い話なんて、これまで生きてきた中でたった一度も存在しなかった。きっとこれは母の罠だ。優菜に扮した母が、僕のことを騙して何かを引き出そうとしている。
「いいや、優菜はいつか離れていってしまう。僕の悪い直感は当たるんだ。僕の弱さに呆れて、いつまでもうじうじと変わらない姿を見て嫌になって、あの日僕に話しかけたことは間違いだったと後悔する時がくる」
「それは違うなあ。私は京介くんと一緒に居たくて、自分で選択して今ここに居るんだよ。そんな私の行動は間違ってる? 京介くんにとって迷惑?」
僕は無言で首を横に振る。
「ただ私を信じてくれるだけでいいの。京介くんが幸せでいられる魔法を私がかけてあげる。だから顔を上げて、ほらもう一度立ち上がれるでしょう?」
夢はそこで覚めた。目の前に残った空疎な現実を掴んで思う。
僕の願望や欲望が詰まった、造花のような夢だったなと。
♢
優菜の家庭も片親であるということを知った時、僕はさほど驚くことなく受け止めた。前々から料理に留まらず家事をしているだとか、学校終わりにスーパーで買い物をしているだとか、いつも頑張っているお母さんを救いたいという言葉をよく聞いていた。
優菜の話に出てくる母の存在は、僕の母とは別次元で生きる優しい人だった。「私を特別に愛してくれることを除けば、どこにでもいるような普通のお母さんだよ」といつも嬉しそうに優菜は話していた。だが僕にとってその普通は特別な母だった。普通とは、特別が積み重なって成り立つものなのだと知った。
だから僕がそう思うように、優菜にとっての普通も異なるだろう。いつか優菜も母からの愛情を過保護と感じるかもしれない。優しさを過干渉と感じるかもしれない。その逆で僕の家庭だって、誰かから見ればそれは深い特別な愛情の証だと羨ましがられる対象にもなり得る。正しさの形なんて、ずいぶん脆くて曖昧なものだ。
最近の母は恐ろしいほど落ち着いていて、それでいて気味の悪い優しさを感じる。優菜と遊びに行った日のことがあり、後ろめたさがあるからそう感じるのだろうか。あるいは夢の中の僕が考えたように、当日にはとっくに見抜かれていて、今ごろ僕の“処置”を思慮しているのかもしれない。
いずれにしても、僕には何もすることができない。これまでと同じように、それを自分の運命だと受け止めるしかない。見ない振りをするのは得意だ。
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やはり一日二日に留まらず、優菜は一週間まるまる学校を欠席した。「お前はいつも美月と一緒に居るだろう?」と担任からプリントを渡された時、一瞬誰のことかと戸惑ったが、優菜の性名であることを思い出して引き受けた。いつの間にか僕の中で、優菜と呼ぶことは特別ではなく普通のことになっていたようだ。
それにしても、この一週間はとても寂しく感じた。いつも図書室や下校時に優菜と談笑をすることが多かったから当然のことだ。それに夏休みに会ったあの日以降、時折メッセージで短い言葉を交わすだけだった。僕はお盆明けからまた塾に通わなければいけなかったし、優菜もいろいろと家の事情があってお互いにタイミングが合わなかった。
もちろん、一日のどこかで合間を縫って会うことはいつでも出来ただろうが、母の監視下に置かれているということは、想像している以上に行動や思考に制限が掛かる。一度でも発覚してしまえば、もう二度と優菜とは今のような関係性には戻れない。そのリスクはあまりにも代償として大きすぎる。だから僕にとって学校は、無条件で優菜と一緒に時間を過ごせる救いの場所なのだ。
なにはともあれ優菜と会う口実ができたのは幸いなことだ。こういう心配事は引き延ばしせず、直接顔を合わせて確かめたほうがいい。
帰りのホームルームが終わり一目散に教室を出た僕は、足早に優菜の家へと向かう。これから控えている塾の時間から逆算すると、およそ三十分ほどは話す猶予がありそうだった。近況を交わすには充分だろう。
そういえば、僕はいつ優菜の家を知ったんだっけ……? と思いながら辿り着いた家のインターフォンを押すと、十数秒ほどで玄関扉が開いた。目の前に現れた優菜は、僕の記憶にある面影の純度百パーセントを保ち、そのまま一寸の狂いもなく重なった。一週間で記憶が薄れていないことに僕は安堵する。
部屋着だろうか、いつもとは違う日常に溶ける姿も可憐で似合っている。思わず無言でまじまじと見つめる僕に「来るなら連絡してよ!」と優菜は恥ずかしそうに僕の肩を小突いた。
「もう……お母さんかと思ったから部屋着で出てきちゃったよ」
「ごめん。どうしてもすぐに届けたいものがあったんだ」
優菜はそれだけで全てを察してくれたようで、いつもの優しい笑顔を浮かべてくれた。
「そうだったんだ、ありがとう。上がっていいよ」
優菜に招かれた僕は「お邪魔します……」と恐るおそる玄関口に足を踏み入れる。きょろきょろと辺りを見渡しながら優菜の後を付いていく僕の姿は、親戚の家に遊びに来た人見知りの子供みたいだろうな、と自分で想像して苦笑した。
リビングのソファーに座るように促された僕は、解けない緊張から縮こまるように座る。二人分のマグカップを持ってきた優菜が、そんな僕の姿を見て笑う。
「もっとリラックスしなよ」
「なんだか落ち着かないよ」
「夏休みのあの日、一緒に遊びに行ったのに?」
「だからこそだよ」
優菜からマグカップを受け取り、緊張で乾いた喉を潤すために口を付ける。ようやく普段の落ち着きを取り戻した僕は、自分の鞄からファイルを取り出して優菜に手渡した。
「これ溜まってたプリント。主にテストがどうとかの話だけど」
「ありがとう。そっかあ、すぐに学力テストがあるもんね」
「そろそろ内申点の目途も立ってくる頃だし、進路を定める時期だよな。優菜は決めてる?」
「うん、候補はいくつか」
そのような日常会話を重ねていくなかで、特に優菜の異変は見られなかった。少なくともそこに居るのは“僕が知り得る”優菜だ。
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リビングの片隅に置かれていた空気清浄機が、沈黙を救うように音を立てる。その力を借りて立ち上がり、『じゃあ今日この辺で』と言いかけた僕の言葉に交じって、優菜が囁くように音を乗せた。
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とてもシンプルな問題で、だけどテスト終盤に待ち構えている大問のような難しさだった。それでも過去の経験上、ここで無言になっていけないことだけは分かった。優菜が勇気を振り絞って伸ばした手を、そのままにしてはおけない。
「その頑張ることは、自分の意思で決めているかどうかにもよるかな」
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矛盾してそうで、実はこの上ない正確な表現であることを、僕は自分の境遇と重ねてすぐに理解した。
しかしこういうとき、どう答えるのが正解なのだろう。ひとまず共感や理解の言葉をかけて、優しく心を抱きしめるべきか。あるいは現実を変えられない慰めなんかより、一つの解決案を示して手を取るべきか。どちらも人によっては優しさであるし、あるいは冷たさにもなり得る。
だがそれよりも今僕が危惧すべきことは、これまで約半年間のあいだ一緒に居たのに、優菜が抱えている問題に対して何も見当がつかないということだ。
その動揺は瞬く間に僕の身体を駆け巡り、せめてもの足掻きで出来合いの言葉を作り出した。
「優菜はどうしたい?」
「私は頑張りたいよ。無理をしてでも、私が望む未来を掴みたかった。でもね、頑張っても変えられないこともあるのかもしれない」
「ずっと頑張らなくてもいいんだよ。たまには休むことも──」
「京介くんは分かってない」
僕の言葉を遮った優菜は、今にも涙を流しそうな気持ちを堪えて身体を震わせていた。
「私がどれだけ君のことを思って生きているか。私がどれだけ君のことを考えて言葉や行動を選んでいるか。私がどれだけ君のことを好きか──京介くんは分かってる?」
初めて優菜が直接的な言葉で想いを伝えた瞬間だった。命を削るようなその声を聞いているのに、今の僕はただ目の前にいる優菜の姿が消えないように、視線を合わせ続けることしかできない。
やがて優菜は貼り付けたような笑顔を浮かべる。
「あはは重いよね、冗談だよ。京介くんはこれから塾でしょう? 私はもう大丈夫、また学校で会おうね」
結局僕は最後まで、自分の言葉を見つけて気持ちを伝えることはできなかった。
塾で過ごす時間は恐ろしいほど長く感じた。途中から記憶には何も残っていなくて、気付いた時には家の近くの児童遊園でブランコに乗って揺れていた。夜風に促されて帰宅した時、母が鬼のような剣幕で何か言っていたけれど聞こえなかった。僕は聞こえない振りも得意だ。
そうやって対峙しないといけない問題から目を背けて逃げてきたから、僕にとって都合の良いものだけを目に映したり聞き続けていたから──自分の大切な人が何かに苦しんでいる時でさえも、僕は現実を直視できず何もできなかったのだ。
土日が明けても優菜は学校に来なかった。
だけど毎日メッセージを送ってくれるようになった。
僕は母の目を掻い潜り、今まで以上にたくさんの言葉を優菜と交わした。
優菜は近いうちにまた学校へ行くと約束を結んでくれた。
『僕も優菜のことが好きだ』
いつの日か、そんな文字を打ち込んだが送信することはなかった。
もしこの言葉を伝えるのだとしたら、優菜と直接会って顔を合わせた時に、自分の声で伝えるのが一番だと思ったから。
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