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第4章 モンマルトルと砂糖漬けすみれ
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ホテルに帰り着いてベッドに腰かけ休んでいると、プレヌがロジェの部屋の扉をたたいた。
「夕飯は済んだ?」
あえてのように明るいトーンで尋ねられ、しばし答えに惑う。
プレヌはやれやれと腰に片手をあてた。
「やっぱり。そんなことじゃないかと思って、これ」
ほのかな甘い香りが鼻腔をつき、ことりと目の前の丸い机に置かれたのは、小皿。
「エルネスト先生から、聞いたの。食欲がない人でも、食べやすいレシピ」
乾燥した小さな薄紫の花弁に、ビーズのように纏いつくのは、砂糖。
「すみれの砂糖漬けよ。ロジェ、ぜんぜん食べないから」
またあえてのようにあっさりとした口調が、徐々に、途切れがちになってくる。
いつしかプレヌは顔を赤らめ、もじもじと両手の指をもてあそんでいた。
「そのうち、倒れちゃいそうって。……気になっていて」
まさか、とロジェは目を見開く。
「さっき、モンマルトルのカフェでそのことを」
気づまりそうに口をつぐんだ後、プレヌはこくりとうなずいた。
勢いをつけるように、ベッドの隣に腰かける。
「食欲不振だけじゃなく、頭痛が現れるようなら、睡眠をとれているか注意しなさいって言われたわ」
まっすぐで、真剣な瞳が、斜め下から覗き込んでくる。
「そのあたりはどうなの? ちゃんと眠れてる?」
あまりに突然のことで、うまい返答ができなかった。
「あ。いや」
「やっぱり」
哀しみを宿す瞳を見るの忍びないような気がして、ロジェは視線を落とす。
差し出されたすみれの纏う砂糖が、差し込む夕日を浴びて輝き出す。
よくできていた。
そう思うと同時に、大きく胸を上下させる自分に気づく。
激しくほっとしていた。
直後、心のどこかを長らくこわばらせていたことに気づく。
たぶん、もう前から、ずっと。
笑い出したいような泣き出したいような。妙な心地だ。
小さな空間にあふれんばかりに敷き詰められた花弁の一つを手にとりそっと口に含む。
砂糖の感触も。
添えられたミルクティーの湯気の温度も感じる。
でも味だけはやはり、感じることができなかった。
それでもぜんぶ咀嚼して飲み込んで。
「……プレヌ」
口をついて出たのは、彼女の名前だった。
詳細な感想を伝えることができない。
こんな当たり前のことすら、できない。
当たり前に、なり損ねた存在であることを、謝りたく思う。
できることなら今それを告白して許しを請いたいとも。
だが彼はそれをしなかった。
なにかのなり損ないがこんなにも満たされることがあるのかと思うから。
だからロジェはすべて飲み下して、笑った。
それでもなお自発的に――笑みがこぼれ出てくるのだった。
「おいしい」
嘘をついてでも、充足を伝えたかった。
人を疑うことを知らない、朝露を浴びた花のような彼女はつぼみがほころぶように微笑んだ。
「夕飯は済んだ?」
あえてのように明るいトーンで尋ねられ、しばし答えに惑う。
プレヌはやれやれと腰に片手をあてた。
「やっぱり。そんなことじゃないかと思って、これ」
ほのかな甘い香りが鼻腔をつき、ことりと目の前の丸い机に置かれたのは、小皿。
「エルネスト先生から、聞いたの。食欲がない人でも、食べやすいレシピ」
乾燥した小さな薄紫の花弁に、ビーズのように纏いつくのは、砂糖。
「すみれの砂糖漬けよ。ロジェ、ぜんぜん食べないから」
またあえてのようにあっさりとした口調が、徐々に、途切れがちになってくる。
いつしかプレヌは顔を赤らめ、もじもじと両手の指をもてあそんでいた。
「そのうち、倒れちゃいそうって。……気になっていて」
まさか、とロジェは目を見開く。
「さっき、モンマルトルのカフェでそのことを」
気づまりそうに口をつぐんだ後、プレヌはこくりとうなずいた。
勢いをつけるように、ベッドの隣に腰かける。
「食欲不振だけじゃなく、頭痛が現れるようなら、睡眠をとれているか注意しなさいって言われたわ」
まっすぐで、真剣な瞳が、斜め下から覗き込んでくる。
「そのあたりはどうなの? ちゃんと眠れてる?」
あまりに突然のことで、うまい返答ができなかった。
「あ。いや」
「やっぱり」
哀しみを宿す瞳を見るの忍びないような気がして、ロジェは視線を落とす。
差し出されたすみれの纏う砂糖が、差し込む夕日を浴びて輝き出す。
よくできていた。
そう思うと同時に、大きく胸を上下させる自分に気づく。
激しくほっとしていた。
直後、心のどこかを長らくこわばらせていたことに気づく。
たぶん、もう前から、ずっと。
笑い出したいような泣き出したいような。妙な心地だ。
小さな空間にあふれんばかりに敷き詰められた花弁の一つを手にとりそっと口に含む。
砂糖の感触も。
添えられたミルクティーの湯気の温度も感じる。
でも味だけはやはり、感じることができなかった。
それでもぜんぶ咀嚼して飲み込んで。
「……プレヌ」
口をついて出たのは、彼女の名前だった。
詳細な感想を伝えることができない。
こんな当たり前のことすら、できない。
当たり前に、なり損ねた存在であることを、謝りたく思う。
できることなら今それを告白して許しを請いたいとも。
だが彼はそれをしなかった。
なにかのなり損ないがこんなにも満たされることがあるのかと思うから。
だからロジェはすべて飲み下して、笑った。
それでもなお自発的に――笑みがこぼれ出てくるのだった。
「おいしい」
嘘をついてでも、充足を伝えたかった。
人を疑うことを知らない、朝露を浴びた花のような彼女はつぼみがほころぶように微笑んだ。
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