完全少女と不完全少年

柴野日向

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7章 楓

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 季節は更に冬に向かい、十一月になると木枯らしが吹くようになった。雪が降るのも年に数回程度の土地だが、今年は寒くなりそうだ。
 一日の授業が終わり、仕事が始まる二十分前に店に入り更衣室で着替える。ブレザーの袖を抜いた時の寒さに、亜希は慌ててトレーナーを頭から被った。
 ジーンズに履き替えエプロンをかける。着替え終えるとスマートフォンがきちんとマナーモードになっていることを確認し、それをしまった鞄をロッカーに入れて鍵をかけた。
 タイムカードを押すため休憩室に向かう最中、ぼそぼそと声が聞こえるのに気が付いた。静かにドアを開け、邪魔にならないよう挨拶を口の中で呟く。
「お疲れさまです……」
 自分のスマートフォンで通話をしていた航は、ちらりとこちらに上げた目を逸らした。立ったままでいる彼が持つ機器からは、内容までは分からないが声が漏れて聞こえてくる。甲高いそれから察するに、どうやら相手は女性のようだ。それも柔らかな春乃のものとは異なる、鼓膜を針で突き刺すような鋭い女声だ。
「だから、そんな急に言われたって無理です」航が声をおさえ早口で告げる。「俺にだって、予定はあるんですよ」
 彼の後方の壁際へ向かい、ラックの上の小物入れからタイムカードを取り出し、ふと疑問に思う。
「無茶言わないでください」
 不真面目でいつも投げやりな彼がまともに敬語を使うのは、初めて聞いた気がする。
 もちろん、目上の人間に常時タメ口をきくわけではないが、これほど切羽詰まった口調で敬語を使う姿は見たことがない。
 航の必死さと相対し、相手の声には笑い声が混じっている。明らかに彼を馬鹿にし見下した笑い方だが、彼の方は至って真面目に返答している。
 最終的に航が相手の要求を呑む形となり、「バイトなんで」という言葉で会話は締めくくられた。
 通話が切れると途端に静けさが満ちる。見聞きしてはいけない場面に遭遇してしまった気がして、亜希はなんだか気まずくなる。
「あの……」通話内容を聞くのもなんだか憚られる。「大丈夫ですか」そんな言葉で場を取り繕う。
 うん、と彼も浮かない顔で頷く。
 いったい誰との、どういう会話だったのだろう。つい亜希が思案していると、彼が「やば」と呟いた。つられて目を向けた先で、ラック上のデジタル時計は五時一分前を示していた。

「おーい、もうちょっと早く来いよ。ギリギリだぞ」
「すんません」
「ごめんなさい」
 一階に下り、長谷川と入れ違いにレジに入る。「それにしても、亜希ちゃんが遅刻しかけるなんて、珍しいね」
「油断してました」
 そう言うと、「気をつけなよー」と言って彼は品出しのため階段を上がっていった。
 外の風が冷たいせいか、温かな飲み物を買っていく客が多い。レジを打つ合間で、亜希はそういえばと思い出した。今日は開始時刻も同じだが、終了も同じタイミングのはずだ。彼が約束しているなら、楓と会えるかもしれない。
 客足が途絶えた時、航に尋ねようと横を向き、彼もこちらを見て目を丸くしているのに気が付いた。いや、よく視線を辿ると、彼は自分を通して出入口の方を見ている。
 振り返り、亜希も驚きに思わず言葉が出た。
「楓くん……」
 店には足を運ばないはずの楓が、店に一歩入ったところで棚に半分隠れるようにして、こちらの様子を窺っていた。
 自分の名前を聞くと、意を決したように駆け寄ってくる。不安げだった顔には徐々に嬉しさが滲み、亜希の近くに立つ頃には笑顔になっていた。
「顔、どうしたの」
 しかし亜希は、思わずそんな台詞を口にした。楓の左頬に、青い痣ができている。先日までそんな怪我はしていなかったはずなのに。
「なんでもないよ」
 楓は首を振って、痣を隠すように頬を拳で擦る。
「おまえ、なんで店まで来たんだ」
 航の疑問に、彼はばつが悪そうに視線を下げた。
「ごめんなさい……」そして上目遣いに二人を見上げる。「こーちゃんとあきちゃんに、あいたかったの」
 八時まではあと十五分だが、楓はそれも待ちきれなかったらしい。普段は聞き分けよくきちんと公園で待っている彼も、やはり幼い子どもなのだ。それにこうも会いたいという気持ちを伝えられれば、無下にするのはいただけない。
「その痣、どうした」
 航が更に問いかけると、楓は情けなく眉尻を下げて首を振る。「なんでもない」をただ繰り返す。
「車にぶつかったとか、喧嘩しただとか、そんなんじゃないんだな」
「うん」
 こっくりと頷き、楓は大きな瞳で航を見つめる。そこには、縋るような懇願が潜んでいる。
「そんなら、あとちょっとだから待ってな」
「おみせにいても、いい?」
「邪魔にならないようにしとけよ。もし怒られたら、俺が何とか言い訳するから」
「うん!」
 途端に笑顔で頷く楓。邪魔になるなという言葉通り、店の隅に向かう。万引き防止用のミラーに映り込んだ彼は、棚に並ぶ駄菓子をきょろきょろと眺めている。
 これほど長い十五分を過ごしたのは、初めてだった。楓を追い出すのも心苦しいし、かといって関係者しか入れない場所に通すわけにもいかない。楓は他の店員や店長にとっては見知らぬ子どもだ、怪しまれれば摘み出してしまうかもしれない。
 ちらちらと楓の姿を確認しながら、亜希はレジを打つ。今の自分はさぞ挙動不審だろう。
 交代の店員が下りてきてようやく時計の針が八時を示し、二人は慌ただしくレジを交代した。三階でタイムカードに打刻し、亜希は更衣室に飛び込む。トレーナーを脱いだ時の肌寒さは今は感じない。いつも通りの制服に着替えてから、これほど急いでいるならエプロンを外しただけの私服で帰るべきではと思い直した。染み付いた自分の真面目さに、思わず苦笑いしてしまう。
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