28 / 48
7章 楓
1
しおりを挟む
季節は更に冬に向かい、十一月になると木枯らしが吹くようになった。雪が降るのも年に数回程度の土地だが、今年は寒くなりそうだ。
一日の授業が終わり、仕事が始まる二十分前に店に入り更衣室で着替える。ブレザーの袖を抜いた時の寒さに、亜希は慌ててトレーナーを頭から被った。
ジーンズに履き替えエプロンをかける。着替え終えるとスマートフォンがきちんとマナーモードになっていることを確認し、それをしまった鞄をロッカーに入れて鍵をかけた。
タイムカードを押すため休憩室に向かう最中、ぼそぼそと声が聞こえるのに気が付いた。静かにドアを開け、邪魔にならないよう挨拶を口の中で呟く。
「お疲れさまです……」
自分のスマートフォンで通話をしていた航は、ちらりとこちらに上げた目を逸らした。立ったままでいる彼が持つ機器からは、内容までは分からないが声が漏れて聞こえてくる。甲高いそれから察するに、どうやら相手は女性のようだ。それも柔らかな春乃のものとは異なる、鼓膜を針で突き刺すような鋭い女声だ。
「だから、そんな急に言われたって無理です」航が声をおさえ早口で告げる。「俺にだって、予定はあるんですよ」
彼の後方の壁際へ向かい、ラックの上の小物入れからタイムカードを取り出し、ふと疑問に思う。
「無茶言わないでください」
不真面目でいつも投げやりな彼がまともに敬語を使うのは、初めて聞いた気がする。
もちろん、目上の人間に常時タメ口をきくわけではないが、これほど切羽詰まった口調で敬語を使う姿は見たことがない。
航の必死さと相対し、相手の声には笑い声が混じっている。明らかに彼を馬鹿にし見下した笑い方だが、彼の方は至って真面目に返答している。
最終的に航が相手の要求を呑む形となり、「バイトなんで」という言葉で会話は締めくくられた。
通話が切れると途端に静けさが満ちる。見聞きしてはいけない場面に遭遇してしまった気がして、亜希はなんだか気まずくなる。
「あの……」通話内容を聞くのもなんだか憚られる。「大丈夫ですか」そんな言葉で場を取り繕う。
うん、と彼も浮かない顔で頷く。
いったい誰との、どういう会話だったのだろう。つい亜希が思案していると、彼が「やば」と呟いた。つられて目を向けた先で、ラック上のデジタル時計は五時一分前を示していた。
「おーい、もうちょっと早く来いよ。ギリギリだぞ」
「すんません」
「ごめんなさい」
一階に下り、長谷川と入れ違いにレジに入る。「それにしても、亜希ちゃんが遅刻しかけるなんて、珍しいね」
「油断してました」
そう言うと、「気をつけなよー」と言って彼は品出しのため階段を上がっていった。
外の風が冷たいせいか、温かな飲み物を買っていく客が多い。レジを打つ合間で、亜希はそういえばと思い出した。今日は開始時刻も同じだが、終了も同じタイミングのはずだ。彼が約束しているなら、楓と会えるかもしれない。
客足が途絶えた時、航に尋ねようと横を向き、彼もこちらを見て目を丸くしているのに気が付いた。いや、よく視線を辿ると、彼は自分を通して出入口の方を見ている。
振り返り、亜希も驚きに思わず言葉が出た。
「楓くん……」
店には足を運ばないはずの楓が、店に一歩入ったところで棚に半分隠れるようにして、こちらの様子を窺っていた。
自分の名前を聞くと、意を決したように駆け寄ってくる。不安げだった顔には徐々に嬉しさが滲み、亜希の近くに立つ頃には笑顔になっていた。
「顔、どうしたの」
しかし亜希は、思わずそんな台詞を口にした。楓の左頬に、青い痣ができている。先日までそんな怪我はしていなかったはずなのに。
「なんでもないよ」
楓は首を振って、痣を隠すように頬を拳で擦る。
「おまえ、なんで店まで来たんだ」
航の疑問に、彼はばつが悪そうに視線を下げた。
「ごめんなさい……」そして上目遣いに二人を見上げる。「こーちゃんとあきちゃんに、あいたかったの」
八時まではあと十五分だが、楓はそれも待ちきれなかったらしい。普段は聞き分けよくきちんと公園で待っている彼も、やはり幼い子どもなのだ。それにこうも会いたいという気持ちを伝えられれば、無下にするのはいただけない。
「その痣、どうした」
航が更に問いかけると、楓は情けなく眉尻を下げて首を振る。「なんでもない」をただ繰り返す。
「車にぶつかったとか、喧嘩しただとか、そんなんじゃないんだな」
「うん」
こっくりと頷き、楓は大きな瞳で航を見つめる。そこには、縋るような懇願が潜んでいる。
「そんなら、あとちょっとだから待ってな」
「おみせにいても、いい?」
「邪魔にならないようにしとけよ。もし怒られたら、俺が何とか言い訳するから」
「うん!」
途端に笑顔で頷く楓。邪魔になるなという言葉通り、店の隅に向かう。万引き防止用のミラーに映り込んだ彼は、棚に並ぶ駄菓子をきょろきょろと眺めている。
これほど長い十五分を過ごしたのは、初めてだった。楓を追い出すのも心苦しいし、かといって関係者しか入れない場所に通すわけにもいかない。楓は他の店員や店長にとっては見知らぬ子どもだ、怪しまれれば摘み出してしまうかもしれない。
ちらちらと楓の姿を確認しながら、亜希はレジを打つ。今の自分はさぞ挙動不審だろう。
交代の店員が下りてきてようやく時計の針が八時を示し、二人は慌ただしくレジを交代した。三階でタイムカードに打刻し、亜希は更衣室に飛び込む。トレーナーを脱いだ時の肌寒さは今は感じない。いつも通りの制服に着替えてから、これほど急いでいるならエプロンを外しただけの私服で帰るべきではと思い直した。染み付いた自分の真面目さに、思わず苦笑いしてしまう。
一日の授業が終わり、仕事が始まる二十分前に店に入り更衣室で着替える。ブレザーの袖を抜いた時の寒さに、亜希は慌ててトレーナーを頭から被った。
ジーンズに履き替えエプロンをかける。着替え終えるとスマートフォンがきちんとマナーモードになっていることを確認し、それをしまった鞄をロッカーに入れて鍵をかけた。
タイムカードを押すため休憩室に向かう最中、ぼそぼそと声が聞こえるのに気が付いた。静かにドアを開け、邪魔にならないよう挨拶を口の中で呟く。
「お疲れさまです……」
自分のスマートフォンで通話をしていた航は、ちらりとこちらに上げた目を逸らした。立ったままでいる彼が持つ機器からは、内容までは分からないが声が漏れて聞こえてくる。甲高いそれから察するに、どうやら相手は女性のようだ。それも柔らかな春乃のものとは異なる、鼓膜を針で突き刺すような鋭い女声だ。
「だから、そんな急に言われたって無理です」航が声をおさえ早口で告げる。「俺にだって、予定はあるんですよ」
彼の後方の壁際へ向かい、ラックの上の小物入れからタイムカードを取り出し、ふと疑問に思う。
「無茶言わないでください」
不真面目でいつも投げやりな彼がまともに敬語を使うのは、初めて聞いた気がする。
もちろん、目上の人間に常時タメ口をきくわけではないが、これほど切羽詰まった口調で敬語を使う姿は見たことがない。
航の必死さと相対し、相手の声には笑い声が混じっている。明らかに彼を馬鹿にし見下した笑い方だが、彼の方は至って真面目に返答している。
最終的に航が相手の要求を呑む形となり、「バイトなんで」という言葉で会話は締めくくられた。
通話が切れると途端に静けさが満ちる。見聞きしてはいけない場面に遭遇してしまった気がして、亜希はなんだか気まずくなる。
「あの……」通話内容を聞くのもなんだか憚られる。「大丈夫ですか」そんな言葉で場を取り繕う。
うん、と彼も浮かない顔で頷く。
いったい誰との、どういう会話だったのだろう。つい亜希が思案していると、彼が「やば」と呟いた。つられて目を向けた先で、ラック上のデジタル時計は五時一分前を示していた。
「おーい、もうちょっと早く来いよ。ギリギリだぞ」
「すんません」
「ごめんなさい」
一階に下り、長谷川と入れ違いにレジに入る。「それにしても、亜希ちゃんが遅刻しかけるなんて、珍しいね」
「油断してました」
そう言うと、「気をつけなよー」と言って彼は品出しのため階段を上がっていった。
外の風が冷たいせいか、温かな飲み物を買っていく客が多い。レジを打つ合間で、亜希はそういえばと思い出した。今日は開始時刻も同じだが、終了も同じタイミングのはずだ。彼が約束しているなら、楓と会えるかもしれない。
客足が途絶えた時、航に尋ねようと横を向き、彼もこちらを見て目を丸くしているのに気が付いた。いや、よく視線を辿ると、彼は自分を通して出入口の方を見ている。
振り返り、亜希も驚きに思わず言葉が出た。
「楓くん……」
店には足を運ばないはずの楓が、店に一歩入ったところで棚に半分隠れるようにして、こちらの様子を窺っていた。
自分の名前を聞くと、意を決したように駆け寄ってくる。不安げだった顔には徐々に嬉しさが滲み、亜希の近くに立つ頃には笑顔になっていた。
「顔、どうしたの」
しかし亜希は、思わずそんな台詞を口にした。楓の左頬に、青い痣ができている。先日までそんな怪我はしていなかったはずなのに。
「なんでもないよ」
楓は首を振って、痣を隠すように頬を拳で擦る。
「おまえ、なんで店まで来たんだ」
航の疑問に、彼はばつが悪そうに視線を下げた。
「ごめんなさい……」そして上目遣いに二人を見上げる。「こーちゃんとあきちゃんに、あいたかったの」
八時まではあと十五分だが、楓はそれも待ちきれなかったらしい。普段は聞き分けよくきちんと公園で待っている彼も、やはり幼い子どもなのだ。それにこうも会いたいという気持ちを伝えられれば、無下にするのはいただけない。
「その痣、どうした」
航が更に問いかけると、楓は情けなく眉尻を下げて首を振る。「なんでもない」をただ繰り返す。
「車にぶつかったとか、喧嘩しただとか、そんなんじゃないんだな」
「うん」
こっくりと頷き、楓は大きな瞳で航を見つめる。そこには、縋るような懇願が潜んでいる。
「そんなら、あとちょっとだから待ってな」
「おみせにいても、いい?」
「邪魔にならないようにしとけよ。もし怒られたら、俺が何とか言い訳するから」
「うん!」
途端に笑顔で頷く楓。邪魔になるなという言葉通り、店の隅に向かう。万引き防止用のミラーに映り込んだ彼は、棚に並ぶ駄菓子をきょろきょろと眺めている。
これほど長い十五分を過ごしたのは、初めてだった。楓を追い出すのも心苦しいし、かといって関係者しか入れない場所に通すわけにもいかない。楓は他の店員や店長にとっては見知らぬ子どもだ、怪しまれれば摘み出してしまうかもしれない。
ちらちらと楓の姿を確認しながら、亜希はレジを打つ。今の自分はさぞ挙動不審だろう。
交代の店員が下りてきてようやく時計の針が八時を示し、二人は慌ただしくレジを交代した。三階でタイムカードに打刻し、亜希は更衣室に飛び込む。トレーナーを脱いだ時の肌寒さは今は感じない。いつも通りの制服に着替えてから、これほど急いでいるならエプロンを外しただけの私服で帰るべきではと思い直した。染み付いた自分の真面目さに、思わず苦笑いしてしまう。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる