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1章 暝島
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「ほれ、これ喰ってみな。旨いぞ」
一人の男が皿を手にやって来た。五十を迎えた頃か、葛西将吾より年上だろうと陽向は当てをつけた。船乗りの武藤に似た浅黒さにがっしりとした体格の男は、白樫と名乗った。一際声が大きく、本当にガハハという笑い声を陽向は初めて聞いた。半袖から伸びる腕は毛深く、肉食の獣を思わせる。
皿に載っているのは刺身だった。ハマチだという。噛み締めると、しっとりした旨味が口の中に広がった。
「旨いです」
「だろ。俺が釣ってきたからな」
「捌いたのはあたしだけどね」
コップを持ってやって来た律が口を挟んだ。彼女は魚も捌けるのかと、陽向は内心で驚く。だがそれよりも……。
「それ、もしかして」
律が手にするコップを指さした。金色の液体は、白い泡を被っている。
「ん? ビール飲みたい?」
「そうじゃなくって……未成年じゃなかったの」
歳上には見えるが、二十歳以上には見えない。陽向を尻目に、律はごくりと喉を鳴らしてビールを飲んだ。
「あんた、意外と細かいこと気にすんだね。いーの、あたしは妖怪なんだから」
彼女は都合よく妖怪を盾に取る。
「陽向も飲んでみろ、酒と刺身は合うぞ」
白樫が座卓のビール瓶を手に取った。「無理させるなよー」と凪が隣から口を挟む。
だが律と白樫に勧められ、陽向はコップにビールを注いでもらった。母は酒を飲まないし、葛西の飲み残しなど口にしたくないから、今まで酒を飲んだことはない。期待を交えて一口含む。その苦さから眉間に皺を寄せる顔を見て、律たちが笑った。
「ほらほら、無理して飲まなくてもいーんだよ?」
妖といえど女の子にからかわれ、陽向は無理矢理コップの中身を飲み干した。苦くてちっとも旨くない。
しかし、料理をつまみ、律たちと話している内に頭がぼんやりとしてきた。ふわふわと浮かんだ気持ちになり、寝落ちしてしまいそうな心地よさがある。
「……二人は、ほんとに妖怪なのか?」
目を擦りながら問いかけると、「そうだけど」と少なくとも三杯目を口にしながら律が言う。
「ふーん」
「妖怪ってのはいるんだ。怖えぞ」
にやつきながら白樫が両手を前に垂らし、ふざけた格好を取る。何が妖怪だ。陽向はゆらゆらした意識でそう思った。皆して、俺を怖がらせようとしているんだな。
「妖怪なんていないよ」
「なんかあんた、生意気じゃない。都会人ぶっちゃって、あたしより年下のくせに……」
「こんなのも、作りもんだろ」
つまんでみると、指先にフェルトのような感触。短い毛がふわふわしていて、触り心地が良い。昔、近所の犬の耳を触った時のことを思い出す。あの犬も、同じような三角耳を持っていた。
ぽかんとした律の顔が視界に入ったと思うと、絶叫した彼女に思い切り頬をぶたれ、陽向の記憶はぷっつりと途切れてしまった。
ビールに酔い律の耳を触ってしまったのは覚えている。眠っていたのは、酔ったせいか律に殴られた衝撃か。目を覚ました頃には、既に縁側の向こうで夕陽が沈もうとしていた。
宴会の後片付けを手伝っていた残りの数名も帰ってしまい、古く広い家はさっきまでが嘘のような静けさに満ちている。
「この部屋、使っていいよ」
暗くなってきたので、凪が灯りを点けた。十畳はある和室の布団に陽向は寝かされていて、隅には唯一の持ち物であるボストンバッグが置かれていた。
「凪は帰っちゃうの」
「陽向がいる間はこの家にいようと思ってるんだけど、いいか」
その言葉に安堵しつつ、半身を起こしたまま頷いた。母以外の他人と暮らすのは初めてだが、気疲れよりも知らない土地で一人で暮らす心細さの方が勝っていた。それに凪は、出会った時から全くの他人とは思えない親しみやすさを感じさせる。不満などない。
ふと、ぺたぺたと裸足の足音が近づいてくるのが聞こえた。縁側にコップを持った律が現れる。
「やっと目え覚めた? 全く、世話が焼けるなあ」
彼女が差し出すコップには、ビールでなく水が入っていた。礼を言って受け取り、喉に流す。冷えた水が身体の隅々まで行き渡るようで心地よい。一気に半分を飲み干し、一息ついた。
「陽向、あんたね、女の子の耳を掴むなんてどういう神経してるのよ」
「ごめんってば。……でも、殴ることないだろ」
「はあ? 悪いのはあんたでしょ」
「まあまあ。陽向、律の弱点は耳なんだ。知らなかったんだからしょうがないけどな」
そばに胡坐をかく凪が仲裁に入り、律は大袈裟にため息をつくとくるりと踵を返す。
「あーあ、お酒臭くなっちゃった。先、お風呂入ってるから。覗いたら殺すからね」
「誰が……」おまえなんか覗くか。そう言いかけて、疑問が浮かぶ。
「律は、家に帰らないのか」
去りかけた律は、ひらひらと手を振り事も無げに言った。
「あたし、しばらくここに住むから」
一人の男が皿を手にやって来た。五十を迎えた頃か、葛西将吾より年上だろうと陽向は当てをつけた。船乗りの武藤に似た浅黒さにがっしりとした体格の男は、白樫と名乗った。一際声が大きく、本当にガハハという笑い声を陽向は初めて聞いた。半袖から伸びる腕は毛深く、肉食の獣を思わせる。
皿に載っているのは刺身だった。ハマチだという。噛み締めると、しっとりした旨味が口の中に広がった。
「旨いです」
「だろ。俺が釣ってきたからな」
「捌いたのはあたしだけどね」
コップを持ってやって来た律が口を挟んだ。彼女は魚も捌けるのかと、陽向は内心で驚く。だがそれよりも……。
「それ、もしかして」
律が手にするコップを指さした。金色の液体は、白い泡を被っている。
「ん? ビール飲みたい?」
「そうじゃなくって……未成年じゃなかったの」
歳上には見えるが、二十歳以上には見えない。陽向を尻目に、律はごくりと喉を鳴らしてビールを飲んだ。
「あんた、意外と細かいこと気にすんだね。いーの、あたしは妖怪なんだから」
彼女は都合よく妖怪を盾に取る。
「陽向も飲んでみろ、酒と刺身は合うぞ」
白樫が座卓のビール瓶を手に取った。「無理させるなよー」と凪が隣から口を挟む。
だが律と白樫に勧められ、陽向はコップにビールを注いでもらった。母は酒を飲まないし、葛西の飲み残しなど口にしたくないから、今まで酒を飲んだことはない。期待を交えて一口含む。その苦さから眉間に皺を寄せる顔を見て、律たちが笑った。
「ほらほら、無理して飲まなくてもいーんだよ?」
妖といえど女の子にからかわれ、陽向は無理矢理コップの中身を飲み干した。苦くてちっとも旨くない。
しかし、料理をつまみ、律たちと話している内に頭がぼんやりとしてきた。ふわふわと浮かんだ気持ちになり、寝落ちしてしまいそうな心地よさがある。
「……二人は、ほんとに妖怪なのか?」
目を擦りながら問いかけると、「そうだけど」と少なくとも三杯目を口にしながら律が言う。
「ふーん」
「妖怪ってのはいるんだ。怖えぞ」
にやつきながら白樫が両手を前に垂らし、ふざけた格好を取る。何が妖怪だ。陽向はゆらゆらした意識でそう思った。皆して、俺を怖がらせようとしているんだな。
「妖怪なんていないよ」
「なんかあんた、生意気じゃない。都会人ぶっちゃって、あたしより年下のくせに……」
「こんなのも、作りもんだろ」
つまんでみると、指先にフェルトのような感触。短い毛がふわふわしていて、触り心地が良い。昔、近所の犬の耳を触った時のことを思い出す。あの犬も、同じような三角耳を持っていた。
ぽかんとした律の顔が視界に入ったと思うと、絶叫した彼女に思い切り頬をぶたれ、陽向の記憶はぷっつりと途切れてしまった。
ビールに酔い律の耳を触ってしまったのは覚えている。眠っていたのは、酔ったせいか律に殴られた衝撃か。目を覚ました頃には、既に縁側の向こうで夕陽が沈もうとしていた。
宴会の後片付けを手伝っていた残りの数名も帰ってしまい、古く広い家はさっきまでが嘘のような静けさに満ちている。
「この部屋、使っていいよ」
暗くなってきたので、凪が灯りを点けた。十畳はある和室の布団に陽向は寝かされていて、隅には唯一の持ち物であるボストンバッグが置かれていた。
「凪は帰っちゃうの」
「陽向がいる間はこの家にいようと思ってるんだけど、いいか」
その言葉に安堵しつつ、半身を起こしたまま頷いた。母以外の他人と暮らすのは初めてだが、気疲れよりも知らない土地で一人で暮らす心細さの方が勝っていた。それに凪は、出会った時から全くの他人とは思えない親しみやすさを感じさせる。不満などない。
ふと、ぺたぺたと裸足の足音が近づいてくるのが聞こえた。縁側にコップを持った律が現れる。
「やっと目え覚めた? 全く、世話が焼けるなあ」
彼女が差し出すコップには、ビールでなく水が入っていた。礼を言って受け取り、喉に流す。冷えた水が身体の隅々まで行き渡るようで心地よい。一気に半分を飲み干し、一息ついた。
「陽向、あんたね、女の子の耳を掴むなんてどういう神経してるのよ」
「ごめんってば。……でも、殴ることないだろ」
「はあ? 悪いのはあんたでしょ」
「まあまあ。陽向、律の弱点は耳なんだ。知らなかったんだからしょうがないけどな」
そばに胡坐をかく凪が仲裁に入り、律は大袈裟にため息をつくとくるりと踵を返す。
「あーあ、お酒臭くなっちゃった。先、お風呂入ってるから。覗いたら殺すからね」
「誰が……」おまえなんか覗くか。そう言いかけて、疑問が浮かぶ。
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