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2章 妖
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二日が経ったが、あれ以降、地震は一度も起きていない。ケガレの名を称する妖怪とも遭遇していない。
これまでと同じように、庭の野菜を育て、店の手伝いをした。住民の話し相手になり、ちょっとした頼まれごとを引き受ける。凪たちには寝ているように勧められたが、じっとしている方が疲れを感じた。果てしない思考がぐるぐると巡り、却って疲弊してしまう。少しでも動いている方が気が紛れた。
それでも、ふとした拍子に考え込む。あのお守りがなければ、自分はどうなっていたのか。十中八九、ケガレとやらに喰い殺されていただろう。身震いすると同時に、あの時の感覚を思い出す。寂しい、悲しい、辛い、憎らしい。あらゆる悲壮な感情に包まれたのは、ケガレの影響だったのか。
思いがけず自身の死を目前にしたせいか、千宙のことが頻繁に頭をよぎる。彼女と付き合うようになってから、十日も顔を合わせないのは初めてだ。夏休みや冬休みでも、数日おきには会っていた。特に感動もなく他愛のない話をするだけだが、陽向にとって彼女との会話は、日常生活の一つとして立派に馴染んでいた。
千宙はどうだったのだろう。実は面倒だったり、鬱陶しく思っていたのだろうか。葛西祐司と居合わせた時に叩きつけられた言葉を思い出し、その可能性に至ってしまう。
砂浜に誰かが置いたベンチ代わりの木箱に座り、陽向は午後の海を眺めつつ思わずため息をついた。その背中をどんと強く叩かれ、「いた!」と声が漏れてしまう。
「すまんすまん、怪我しとるの忘れとったわ」
いつものガハハ笑いの白樫が立っていた。日に焼けた腕で釣り竿を担いでいる。彼は釣った魚を島民に売ったり配ったりするので重宝されていた。
「なーにをため息ついとるんだ。街の彼女のことでも考えとったんだろ」
図星をつかれ必死に何でもない顔をするが、上手くいかない。口をへの字に曲げる姿を見て、白樫が満足げに笑った。
「若いなあ。ため息なんかつきおって」
「ほっといてよ」
「悩める若者をほっとけるかい。どうだ陽向、気分転換に付き合わないか」
また酒でも勧められるのかと身構えたが、白樫は肩に担いだ竿を軽く振った。釣りに行こうというのだ。
「俺、釣りやったことないけど」
「そうかそうか、そんならはよこい」
面倒見の良い妖怪の誘いを無下に断るのもよろしくない。何が「そんなら」なのかさっぱり分からないが、白樫が歩き出したので、大人しくついて行くことにした。
海沿いの小さな小屋から、白樫は釣り竿をもう一本持ってきた。それを受け取り、共に堤防に向かう。椅子代わりに小さなクーラーボックスも受け取っていたので、それに軽く腰かけた。
「げ、なにこれ」
餌として差し出されたパックの中を見て、変な声が出る。
「エビ?」
「エビじゃない、オキアミだ」
しかしどう見ても小さなエビだ。指先程の小さなそれが、パックにぎっしりと詰まっている。気持ちが悪い。ぞわぞわと悪寒が一気に背筋を駆けあがった。
「おまえなあ、女の子じゃないんだぞ」
陽向の腕の鳥肌を見て、白樫がガハハと笑う。躊躇いながらも、陽向は指先でその一つを摘まんだ。見よう見まねで針にオキアミとやらをつける。
「うえ、生臭い」
「あたりめえよ。釣りは生臭いもんだ」
ついて来たことを少し後悔しつつ、陽向は海に竿を振った。
ぼんやりと浮きを見ながら、ぽつぽつと話をする。ときおり引きを感じて竿を上げるが、餌は見事に取られていた。がっかりし、臭いに辟易しながら餌をつけ直す。それでも幾度目かには、引き上げた糸の先で魚が暴れていた。
「ほんとに釣れた」
「釣りに来たんだからな。ほら、針外せ」
「これ、触るの?」
家でたまに魚を揚げることはあったが、生きている魚に触れたことは一度もない。堤防でびちびちと跳ねるイワシを、恐る恐る握りこむ。手の中で暴れるのを必死に抑え、四苦八苦しながら針を外した。クーラーボックスに放り込んだ頃には、一仕事終えた気分だった。
それでも二度三度と連なると、少しずつ慣れてきた。十匹も釣り上げた頃、ふいに「そろそろ帰るか」と白樫が言った。彼は陽向の三倍は釣っていた。
時刻は三時を過ぎた頃で、日差しが眩しく、肌がじりじりと陽に焼けていくのを感じる。疲れたのかと思ったが、白樫は「雨が降るぞ」と言った。
「雨?」空を見上げても、それらしい雲は見当たらない。青く晴れ渡り、空気はからっと乾いている。
しかし白樫はテキパキと後片付けを始めた。腑に落ちないまま、陽向も帰り支度を始める。
クーラーボックスを手にすると、ゴロゴロと遠くで雷の音がした。まさかと思って振り返ると、海の向こうに黒い雲が湧いている。唖然としつつ、急いで白樫に続いて堤防を進んだ。
最初に釣り竿を出した小屋に戻ると、すぐに雨が降り出した。それも大雨だ。大粒が地面を叩き、平屋の屋根をバシバシと殴っている。引き戸のすぐ向こうでは、地面があっという間に濡れ、激しい雷鳴がとどろいた。
さっきまでのカンカン照りが嘘のようなひどい夕立だ。雨粒に景色がかすみ、ざあざあと激しい雨音が鼓膜を震わせる。轟音が響き、稲光が瞬いた。
どうしてわかったの。そう聞こうとして、隣の白樫を見上げて気が付いた。彼は子どものように目を輝かせ、豪雨の景色を見つめていた。
そして唐突に、外に走り出した。
「危ない!」
陽向は叫ぶが、それが全く聞こえない風に彼は道を横切り、真っ直ぐに海へ続く堤防を走っていく。雨で足を滑らせれて海に落ちれば、取り返しのつかないことになる。
ひやひやしながら見つめる陽向に構わず、白樫は堤防の先で両手を広げた。豪快な笑い声が雨音の中から響いてくる。
あっと叫び声が出た。視界が真っ白になり、あまりに大きな音に皮膚がびりびりと痺れる感覚がある。足元が揺れ、轟音に耳の奥でキーンと耳鳴りがする。
それより、白樫は大丈夫か。どう見ても、雷は彼に落ちた。無事でいられるはずがない。
しかし、男の身体はそこに立っていた。ガハハと笑う声が耳鳴りを透過する。確かに雷に打たれたはずなのに、感電だの火傷だのどころか、仁王立ちして笑っている。
彼が雷獣という妖怪と混じっていると陽向が知ったのは、雨が止んでびしょ濡れの白樫が戻ってきてからだった。
これまでと同じように、庭の野菜を育て、店の手伝いをした。住民の話し相手になり、ちょっとした頼まれごとを引き受ける。凪たちには寝ているように勧められたが、じっとしている方が疲れを感じた。果てしない思考がぐるぐると巡り、却って疲弊してしまう。少しでも動いている方が気が紛れた。
それでも、ふとした拍子に考え込む。あのお守りがなければ、自分はどうなっていたのか。十中八九、ケガレとやらに喰い殺されていただろう。身震いすると同時に、あの時の感覚を思い出す。寂しい、悲しい、辛い、憎らしい。あらゆる悲壮な感情に包まれたのは、ケガレの影響だったのか。
思いがけず自身の死を目前にしたせいか、千宙のことが頻繁に頭をよぎる。彼女と付き合うようになってから、十日も顔を合わせないのは初めてだ。夏休みや冬休みでも、数日おきには会っていた。特に感動もなく他愛のない話をするだけだが、陽向にとって彼女との会話は、日常生活の一つとして立派に馴染んでいた。
千宙はどうだったのだろう。実は面倒だったり、鬱陶しく思っていたのだろうか。葛西祐司と居合わせた時に叩きつけられた言葉を思い出し、その可能性に至ってしまう。
砂浜に誰かが置いたベンチ代わりの木箱に座り、陽向は午後の海を眺めつつ思わずため息をついた。その背中をどんと強く叩かれ、「いた!」と声が漏れてしまう。
「すまんすまん、怪我しとるの忘れとったわ」
いつものガハハ笑いの白樫が立っていた。日に焼けた腕で釣り竿を担いでいる。彼は釣った魚を島民に売ったり配ったりするので重宝されていた。
「なーにをため息ついとるんだ。街の彼女のことでも考えとったんだろ」
図星をつかれ必死に何でもない顔をするが、上手くいかない。口をへの字に曲げる姿を見て、白樫が満足げに笑った。
「若いなあ。ため息なんかつきおって」
「ほっといてよ」
「悩める若者をほっとけるかい。どうだ陽向、気分転換に付き合わないか」
また酒でも勧められるのかと身構えたが、白樫は肩に担いだ竿を軽く振った。釣りに行こうというのだ。
「俺、釣りやったことないけど」
「そうかそうか、そんならはよこい」
面倒見の良い妖怪の誘いを無下に断るのもよろしくない。何が「そんなら」なのかさっぱり分からないが、白樫が歩き出したので、大人しくついて行くことにした。
海沿いの小さな小屋から、白樫は釣り竿をもう一本持ってきた。それを受け取り、共に堤防に向かう。椅子代わりに小さなクーラーボックスも受け取っていたので、それに軽く腰かけた。
「げ、なにこれ」
餌として差し出されたパックの中を見て、変な声が出る。
「エビ?」
「エビじゃない、オキアミだ」
しかしどう見ても小さなエビだ。指先程の小さなそれが、パックにぎっしりと詰まっている。気持ちが悪い。ぞわぞわと悪寒が一気に背筋を駆けあがった。
「おまえなあ、女の子じゃないんだぞ」
陽向の腕の鳥肌を見て、白樫がガハハと笑う。躊躇いながらも、陽向は指先でその一つを摘まんだ。見よう見まねで針にオキアミとやらをつける。
「うえ、生臭い」
「あたりめえよ。釣りは生臭いもんだ」
ついて来たことを少し後悔しつつ、陽向は海に竿を振った。
ぼんやりと浮きを見ながら、ぽつぽつと話をする。ときおり引きを感じて竿を上げるが、餌は見事に取られていた。がっかりし、臭いに辟易しながら餌をつけ直す。それでも幾度目かには、引き上げた糸の先で魚が暴れていた。
「ほんとに釣れた」
「釣りに来たんだからな。ほら、針外せ」
「これ、触るの?」
家でたまに魚を揚げることはあったが、生きている魚に触れたことは一度もない。堤防でびちびちと跳ねるイワシを、恐る恐る握りこむ。手の中で暴れるのを必死に抑え、四苦八苦しながら針を外した。クーラーボックスに放り込んだ頃には、一仕事終えた気分だった。
それでも二度三度と連なると、少しずつ慣れてきた。十匹も釣り上げた頃、ふいに「そろそろ帰るか」と白樫が言った。彼は陽向の三倍は釣っていた。
時刻は三時を過ぎた頃で、日差しが眩しく、肌がじりじりと陽に焼けていくのを感じる。疲れたのかと思ったが、白樫は「雨が降るぞ」と言った。
「雨?」空を見上げても、それらしい雲は見当たらない。青く晴れ渡り、空気はからっと乾いている。
しかし白樫はテキパキと後片付けを始めた。腑に落ちないまま、陽向も帰り支度を始める。
クーラーボックスを手にすると、ゴロゴロと遠くで雷の音がした。まさかと思って振り返ると、海の向こうに黒い雲が湧いている。唖然としつつ、急いで白樫に続いて堤防を進んだ。
最初に釣り竿を出した小屋に戻ると、すぐに雨が降り出した。それも大雨だ。大粒が地面を叩き、平屋の屋根をバシバシと殴っている。引き戸のすぐ向こうでは、地面があっという間に濡れ、激しい雷鳴がとどろいた。
さっきまでのカンカン照りが嘘のようなひどい夕立だ。雨粒に景色がかすみ、ざあざあと激しい雨音が鼓膜を震わせる。轟音が響き、稲光が瞬いた。
どうしてわかったの。そう聞こうとして、隣の白樫を見上げて気が付いた。彼は子どものように目を輝かせ、豪雨の景色を見つめていた。
そして唐突に、外に走り出した。
「危ない!」
陽向は叫ぶが、それが全く聞こえない風に彼は道を横切り、真っ直ぐに海へ続く堤防を走っていく。雨で足を滑らせれて海に落ちれば、取り返しのつかないことになる。
ひやひやしながら見つめる陽向に構わず、白樫は堤防の先で両手を広げた。豪快な笑い声が雨音の中から響いてくる。
あっと叫び声が出た。視界が真っ白になり、あまりに大きな音に皮膚がびりびりと痺れる感覚がある。足元が揺れ、轟音に耳の奥でキーンと耳鳴りがする。
それより、白樫は大丈夫か。どう見ても、雷は彼に落ちた。無事でいられるはずがない。
しかし、男の身体はそこに立っていた。ガハハと笑う声が耳鳴りを透過する。確かに雷に打たれたはずなのに、感電だの火傷だのどころか、仁王立ちして笑っている。
彼が雷獣という妖怪と混じっていると陽向が知ったのは、雨が止んでびしょ濡れの白樫が戻ってきてからだった。
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