影の消えた夏

柴野日向

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2章 妖

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 その子を抱いて、海鳥に向かった。店にはまだ凪とスミレが残っていて、陽向と律が息せき切って駆け込むと仰天したが、手短に訳を話すとすぐに納得してくれた。
「どうしよう、溺れたのかな。水とか飲んでたら吐き出させないと……」
 しかし、慌てる陽向以外の三人は、至って落ち着いていた。枕代わりに座布団を畳み、座敷に子どもを寝かせて様子を見ている。まるで命の危機を感じているようには見えない。
「送り犬ですね」
 訝しむ陽向の脇で、子どもの頭に触れたスミレが言った。細い指先で、黒い三角耳をそっと辿る。送り犬? 陽向が問いかけようとしたとき、子どもが小さな呻き声を発した。
 眩しそうに目を細めていた子は、たちまち息を呑んで怯えたように縮こまった。凪とスミレが「大丈夫」と何度も声を掛け、水を飲むように促すと、ようやくコップを受け取って水をそっと喉に流し込む。薄い唇からコップを離すと、「ここ、どこ……?」と頼りない声で囁いた。
「ここは、暝島。海の上の島ですよ」
 まだ五、六歳ほどの子は目をしばたたかせ、「しま?」と呟く。自分が海岸に倒れていたと聞いても、いまいちピンと来ない様子で首を傾げている。その様子が思っていたよりも元気そうで、陽向はほっと息をつく。
「どっかから、海に落ちたのか?」
 陽向が問いかけると、はたと考え込む仕草をする。だが、しばらくして出した答えは、「わかんない」だった。
「名前、なんて言うんだ」
 なまえ。おうむ返しに呟いた後の答えも、「わかんない」だった。
「ぼくのなまえ、なんていうの」
 挙句にそんなことを言う。まさか記憶喪失だろうか。陽向はその子の三角耳がぴょこぴょこと動くのを眺める。さっきスミレの言った、送り犬とはなんのことだろう。突然現れたこの子も、彼らと同じ妖なのだろうか。
 問い詰めたかったが、大きな瞳がとろんと眠たげにしているのを見て、口を噤んだ。彼の手からスミレがコップを受け取り、凪がどこからか出してきた毛布をかけてやる。数分もすれば、小さな寝息を立てて眠り込んでしまった。
「疲れたんだね」
 その頭を律が優しく撫でてやる。
 腑に落ちない気持ちで二人を眺めている陽向に、「ケガレだ」と難しい顔をして腕を組む凪が言った。
「ケガレって、あの、山で俺を襲った……」
「ああ、間違いない。この子は、ケガレに襲われたんだ」
 凪がその子を毛布ごと抱き上げる。スミレと律が手際よく身の回りを片付け、店の電気を落とした。
 家に帰る道すがら、そして家に帰ってから凪が語った全容は、こうだった。
 ケガレは、時折人を喰らう。島を出て、街の人間を襲うのだ。ケガレは様々な妖怪の塊であり、喰われた人間の肉体は滅び、魂は妖怪の一つと混ざってしまう。そうして人間の部分と妖怪の部分が半分ずつ混ざった状態となり、この島の海岸に姿を現す。つまり暝島は、ケガレに襲われた人間の魂が、妖怪と混ざった姿で吐き出される土地なのだ。島民はもともと人間であり、この子もケガレに襲われ、送り犬という妖怪と混ざり、海岸に現れた。そしてケガレに喰われた者は一人残らず、人間であった頃の記憶を失ってしまう。家族のことも、住んでいた場所も、自分の名前さえも。
「それって……」陽向は、つばを飲み込む。「あの時、俺を襲えなかったケガレが、街の方で代わりにこの子を襲ったってこと……?」
「……確実だとは言えない」
 凪はそう言ってくれたが、陽向には「確実」にしか思えなかった。ケガレは飢えを理由に人を喰うという。あの時自分を食べて腹を満たしていれば、ケガレはこの子を襲うこともなかったはずなのだ。
 居間に寝かされた小さな身体を見つめ、やるせない気持ちに包まれた。
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