影の消えた夏

柴野日向

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3章 千宙と祐司

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 翌日、陽向は一度街に戻ることになっていた。島に来て十五日が経った八月五日。そろそろ一度くらい家に帰って、母親にも顔を見せた方がいい。陽向に帰りたいという積極的な気持ちはなかったが、凪はそう言った。二週間も一切の連絡を絶っていたのだ。仕方ないが彼の言う通りだと思ったので、行きと同じく武藤が舵を切る船に乗った。街での用事を済ませるべく、凪も同乗していた。
 船でコンセントを借り、スマートフォンの充電をしつつ久しぶりに電源を入れる。確認すると、未読のメッセージが届いていた。タップする指が思わず止まる。送信者の名は、望月千宙。

 ――話したいことがあるんだけど、いつ帰ってくる?

 十日前に送られたメッセージに、陽向は緊張しつつも安堵する。千宙が連絡をくれた。心が躍るほど嬉しいが、彼女の「話したいこと」という言葉にも、どきりとする。一体千宙は何を話すつもりだろう。怖じてしまう前に返事を打ち込む。「遅くなってごめん、これから帰る。急だけど、明日会える?」送信ボタンをタップして、大きく息を吐いた。
 後部の甲板で、遠ざかる島を眺める凪の横に並ぶ。思えば、不思議な島と人たちだ。
「暝島は、誰かが来ることはないの。近くを通りかかった人とか」
 偶然通りかかった普通の人間が迷い込めば、大変なことになる。よく今までオカルト島として有名にならなかったものだ。
「島は、行こうとしないと辿り着けないんだ。だから、迷い込む人なんていないよ」
 凪の説明によれば、暝島は存在を認識して目指さなければ、その姿さえ目に入らないのだそうだ。島を知っている武藤や、凪から話を聞いて在るものと信じ込んでいた陽向は入ることができたが、島に入るという意思がなければ訪れることはできない。実に不思議な場所なのだ。
「そうだ、忘れないうちに渡しておくよ」
 肩にかけたバッグから封筒を取り出し陽向に手渡す。手紙でも入っているのかと中身を取り出し、驚いた。一万円札が入っている。数えてみると、十五枚ある。
「陽向はバイトだからな。バイト代だよ」
「貰えないよ、俺、大したことしてないし、住むとことか食事まで貰ってるんだし」
 慌てて返そうとすると、凪はおかしそうに笑う。
「いいよ、貰っときな。家は空き家だし、陽向は大食いなわけでもないから、それこそ大したことはない。バイト代ぐらい渡さないと、俺たちもきまりが悪いだろ」
「そうはいっても……」
 仮に受け取るとしても、貰い過ぎだと思う。一日一万円の勘定だ。どういう時給換算かわからないが、十五万円は立派な大金だ。あくせく働いているわけでもないのに、受け取るのが心苦しい。
 手元と自分を見比べてまごつく陽向に、凪が提案した。
「それなら、島の連中に土産でも買ってやってくれよ。俺たちも陽向がいてくれて助かってるんだ。前よりもずっと、みんな活き活きしてるんだぜ。バイト代ぐらい貰っても、ばちは当たらないと思うよ」
 思わぬ言葉に目を丸くする。厄介者扱いどころか、自分がいて助かっているだなんて、今まで一度も言われたことがない。役に立った覚えもないのに、役に立てているらしい。
「……ありがとう」封筒をそっと両手で握る。嬉しさという感情が、ゆっくりと胸の中を温めていった。

 団地についた頃には、既に陽が傾いていた。島を出た時刻が既に午後三時を過ぎていたから仕方ない。母には電車でメッセージを打ち込んでいた。返事はすぐにあり、夕食を用意して待っているとのことだった。
 二週間も島で暮らしていれば、団地は随分と狭苦しい場所に見えた。この狭い空間に何世帯もの家族がひしめくように暮らしている。街は便利だが、生活はまるで窒息してしまいそうだ。
「ただいま……」
 鍵を開けて家に入る。おかえりと母の返事が聞こえ、無条件にほっとする。三和土を見ても無骨な革靴はなく、母のサンダルが一足きちんと並んでいるだけだ。
「元気そうでよかった。すっかり日焼けしちゃったね、毎日何してたの」
 いつもより口数多く話しかけてくるのが、なんだか嬉しい。夕食が、昔から好きなハンバーグであることも。
 だが、食卓について心が翳るのを感じた。家にある唯一の灰皿が置かれ、吸い殻が刺さっている。黙ってそれを手に取り、中身をキッチンのゴミ箱に捨てる。そこで空き缶の入ったビニール袋を見つけ、翳りが若干の憤りに変わった。母は酒を飲まないのに、ビールの空き缶が五つも六つも入っている。
 話したいことは沢山あると思っていた。少なくとも、家に帰った直後はそうだった。島の詳細は語れないが、自分が関わった人たちのことや、縁側で食べたスイカの甘さ、海辺で見た一面の星空について話したかった。
 しかし、吸い殻や空き缶を目にすると、急速に心が冷めていった。代わりに、いつもこの部屋で感じていた苛立ちが、じわりと心を再び侵食していく。自分の座っている場所が、葛西将吾が好き勝手していた場所なのかと思うと、吐きたくなるほど気持ちが悪い。
 結局、母にはまるで話ができなかった。その機嫌の良さも自分が帰ったためでなく、二週間も羽を伸ばせたおかげかと邪推してしまう。あいつはいつ帰ったの。そんな嫌味を言わないようにするのに精いっぱいだった。
 あのお守りはどこで手に入れたものだったのか、聞くのを忘れた。眠る前にふと思い出したが、もう何も話したくなかった。
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