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1章 邂逅
深海2
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慣れないことに心身ともに疲れきってしまった少年は、少女の横にぐったりと転げてしまった。強がっていた気の張りも今ではすっかり消え、真っ白なシーツに埋もれ、どこか眠たげなとろんとした目を半分だけ開いている。赤らんだ顔に、未だに肩で呼吸をしている。
「気持ちよかった?」
しかし少女がいたずらっぽく問いかけると、彼は閉じかけていた瞼をはっきり開き、口をぎゅっとつむり、血色の良い顔をますます赤くさせた。瞳を上へ泳がせ、次は足元を向き、困り果てて視線を左右へ巡らせ、頬を押し当てるシーツを見つめ。
答えなくとも彼女が許して、何か話し始めてくれないかと黙ったまま、彼はシーツにしがみつくように懸命に隠れてしまう。それでも見えてしまう頬は、あまりの恥ずかしさからもう真っ赤だ。
だがそんな少年の期待を、少女は意地悪く許さなかった。やがて、顔の右半分を懸命にシーツに埋める彼も、このまま黙っていても彼女は妥協してくれないことを理解した。決して視線を合わせず、左手で無意識に強くシーツを握り締めた彼は、弱々しく喉を震わせる。
はい、と蚊の鳴くような、今にもぶれて消え入りそうな細い声だった。
その様子を見て、少女はこれがいつも叔父から自分にかけられる台詞だと思い出し、僅かな自己嫌悪を抱く。だが、自分にとっての「男」という常識からかけ離れた、恥ずかしさに震えてしまいそうな少年を見ると、思わず笑ってしまう。
「このマセガキ」
目を瞑る彼の鼻先をつついてやると、怒らない彼も流石にそっぽを向いてしまった。文句を口にする代わりに、寝返りを打って背を向けた。
怒ってもいいのに。そう思いながら、少女はそんな少年の背を眺める。
大人には幾年及ばない彼の背はまだ薄い。はっきりと突き出る肩甲骨と、枕元の明かりに照らされ、うっすらと浮き出るあばらから落ちる影が、息をするたびに揺れている。彼は、彼女が思っていた通りに痩せていて、身体の中心を通る背骨は凹凸を作っている。
だが彼は細身だが体力があり、ただ骨ばって痩せているのではないことを彼女は知っていた。
明るさと暗闇の狭間にある少年の背を指で辿った。彼の中心、浮かぶ背骨の輪郭を、指先でそっとなぞった。
突然の感触に驚いた彼が、顔を後ろに傾けた。ほんのり朱に染まる頬に手をやってこちらを向かせると、ようやく呼吸を落ち着けた少年は大人しく振り返った。
優しく頬を撫でてやり、顔を覗き込んで、少女は少年の瞳がいつもより輝いて見える理由に気が付いた。
彼の瞳は、濡れていた。
「怖かった?」
穏やかな口調で尋ねると、彼は首を小さく横に振る。
「でも、泣いてる」
「泣いてないよ」
「嘘つき」
「泣いてないってば」
瞬きをする彼の瞳からは、涙は溢れない。それでも、軽く閉じられる瞼を指で撫で、再び開かれる深い黒を見つめる。
「そうだよね。あんたは、望んでるわけじゃないもんね」そう、少女は優しく言った。
全ては彼の意思など関係ない、少女の思惑通りだった。
彼の休日を聞き出し、ここまで誘い、シャワーを浴びさせ。キスから始まった全ては彼女自身が望んだことであり、彼は促す言葉さえひとつも口にしてはいないのだ。
こんなの、あの男と同じじゃないか。少女の中に、罪悪感の芽が生える。天井を向くことが出来ない彼は、もし逆の立ち位置ならば、天井のしみを懸命に探して数えていただろうか。全てが終わる時間だけを待ち望んでいても、その優しさが仇となり、今もなお文句ひとつ言えないのではないのか。
その思いを見透かしたかのように、少年がふふっと笑った。
口の端を緩め、静かで穏やかな、少女にとって愛おしくて仕方のない笑顔を見せた。
「悲しまないでください」決して大きくない声は、少女の耳にはっきりと届く。
細い彼の腕が伸ばされる。その手がそっと少女の肩に触れる。体温を分け合うように身を寄せ、彼は確かに彼女を抱きしめた。
「ぼくは、あなたが好きなんです」
思いがけない言葉だった。
だが少女は聞き返すと言う無粋な真似などしなかった。彼の声はたった一度で、胸の奥に心を通して染み込むように響いてくる。
胸が詰まって、苦しい。だがこれまで知って来た、痛みや辛さに由来するものではない、胸の奥が熱くて熱くて締め付けられる苦しさだった。正しく表現する言葉を見つけられない、十七年という人生で少女が初めて抱く感情だった。
「泣かないで」
優しい声とともに、指先で目元を拭われる。
そうして少女は、自分が涙をこぼしていたことに気が付いた。悲しくなんてないのに、辛さも苦しさも寂しさも、いまは何一つ感じられないのに、熱い胸の奥から熱い涙が零れてくる。その雫の熱で彼女が火傷してしまわないうちに、彼の細い指は目元を撫でるように動いては涙をすくっていく。
だいすき。そう口にする彼女の声は震えていた。こみ上げる涙のせいで頼りなくぶれてしまうそれを少しだけ大きくすると、少女はもう一度彼に訴えた。
「大好き」
いつも遠くへ離れて行く彼を、毎朝見送るだけの身体を、両腕を伸ばして抱きしめる。
今は、彼は隣にいる。どこにもいかない。いかないでほしい。こうして触れているだけで涙があふれてしまうほど、彼が大好きなんだ。
彼は何も言わない。もう、泣かないでとは言わない。彼女の涙を全身で受け止めて、ただただ限りなくそばにいる。だから少女は涙を殺すことなく、それが自然と止まってしまうまで泣くことが出来た。
「ぎゅってして」寄せた顔で、小さな声で、少女は囁く。「少しでいいの。離れないでいて。思いっきりでいいから、苦しくなんてないから、強く抱きしめて。一緒にいて」
言葉の代わりに、彼は少女を抱きしめる腕に力を入れた。苦しくないよう加減はされているが、全身の温もりが、命の鼓動が、これ以上なく少女へ伝わる。心の底から安堵する少女も、同じように強く彼を抱きしめた。痩せた細い体、少し高い体温。指先で、まだ僅かに湿っている髪に触れ、自分が本当に望んでいたことを知った。
無条件に愛し、無償で抱きしめてくれる愛しい誰かが、これまでずっと欲しかった。
望まない人間などとはいくら身体を重ねても、温もりどころかその体温自体が消滅すればとも願った。それなのに、言われた通りに腕を伸ばすしかない無力な自分に対する巨大な影のような劣等感や不甲斐なさにも押しつぶされ、これまで本来の涙さえ失っていた。
決して忘れない。
少女は強く強く、心の中で繰り返す。好きだと言ってくれた今の彼を、背に回る腕の強さを、全てを受け入れてくれる途方もない優しさを。たとえ傷跡でもいい、残しておきたい。傷だなんて思わないから。目に見えなくとも身体に刻まれた証として、一生残しておきたい。
「……私ね、息が苦しいんだ」抱き合ったまま、少女は囁いた。「病気とか怪我とか、そんなんじゃないよ。いくら吸っても、酸素が体に入ってこないの」
誰にも聞かせたことのない話だった。少女だけが見ている、彼女だけが存在し、感じている世界の話だ。
「なんだかね、水の中にいるみたい。いつからかは、覚えてないんだけど……。それでね、いつの間にか、息継ぎが、上手くできなくなってたんだ」
「それでも、溺れて死んだりしない。水の中にも酸素はあるから、ただ足りなくて、苦しいだけ」
驚きに、少女は顔を動かして少年を目を合わせた。何故だか自分が続けようとした台詞を、何も知らないはずの彼が静かに語っている。
「まるで、海の底なんだ。だけど、上手に泳げない。そのうち、もがくのにも疲れてしまって、歩くのがやっとなんだ」
「そう。水面に上がろうっていう気も、最初はあったはずなのに。いつまでたっても、どうしても届かないの。気づいたら上がるどころか、どんどん遠くなっていって、沈んでいって。海の底を、ひとりで歩いてる」
歩くのだって楽ではない。軽々となんて動けないし、走るのなんて尚更だ。水の中なんだから。そのくせ上手に泳げもしないまま、途方に暮れて、ただ足を動かしているだけ。
「いつの間にか、水深が二百メートルを超えてるんだ。深海だよ。たった一人で、深い海の底にいるんだ」
そうか、深海だったのか。少女はいたく納得した。手を伸ばせば、少し泳げば水面に到達する距離ではなく、深い海と書かれてしまう深海にまでいつの間にか辿り着いていたのだ。
「静かで、誰の声も聞こえない。姿もない。深くなるたびにね、全部が遠くなってくの」
「だけど、わかってるよ。上には光があるんだ。今が朝か昼か、それとも夜なのかもわからないけど、もしも上まで泳ぎきれたっら、思うんだ」
頷く少女は、ようやく腹落ちした。自分ひとりが存在しているのだと思っていたが、実は彼も、同じ世界に生きていたのだ。孤独な深海に、彼もたった一人で、潜っていたのだ。
少女は、頬を緩めて小さく笑った。
「でも、可笑しいよね。光があるってわかるなんて。深海って真っ暗なんでしょ。光なんて届くはずのない世界なのに」
「完全に真っ暗になるのは、水深千メートルからなんだ。それまでは、光はゼロではない。人の目にはわからないだろうけど」彼はいたく真面目に言った。「でもね、どれだけ潜ってもわかるんだ、光のある方向が。千メートルを超えても、どれだけ遠くなってしまっても、見えなくはならないんだ」
それは、求めている光だから。どれだけ遠のいても感じられるのは、いつかは触れてみたいと願い続けているから。
「泳げなくて、浮かべもしないのに。呼吸すら難しいのに。底にいるくせに。ずっとね、見上げてるんだ」
静寂に満ちた、孤独の世界の物語。それぞれが見続けていた、自分しか知らない幻影と、しようのない現実との交点にある青い世界。
「時々、ほんのたまに、生き物が通りかかるんだ。触れたことはないけど」
「深海魚?」
少女が尋ねると、少年は柔らかな表情で頷く。
「私は、見たことないや。あんたとは、いる海が違うのかな」
「でも、海は全部繋がってるよ」
「なら、いつか会えるかな。ずっと歩いて、たまにもがいて探してたら、海の中で、会えるのかな」
「無理なんて、しなくていいよ」優しい言葉とともに、少女を見つめるとても綺麗な彼の瞳。海の底のように、深く、孤独で、美しい。
「迎えに行きます。そしたら、一緒に上がりましょう」
ひとりでは上がれない。少なくともこれまでずっとそうだった。
しかし、ふたりならば。共に手を繋ぎ合うことが出来るなら、水面まで泳ぎきれるだろうか。顔を上げて、胸いっぱいに空気を吸い込むことが出来るだろうか。それはどんなに、幸せな未来の世界だろう。
顔を寄せて、少女は彼の額に額をくっつけた。彼の小さな笑い声が聞こえる。
真面目で素直で、いつだって一生懸命な少年は、嘘など吐かない。だからこうしてそばにいれば、いつか本当になるだろう。手を繋ぎ、共に呼吸ができるだろう。
出会えてよかった。本当に、彼と同じ世界にいられてよかった。心の底から、少女は思った。
「気持ちよかった?」
しかし少女がいたずらっぽく問いかけると、彼は閉じかけていた瞼をはっきり開き、口をぎゅっとつむり、血色の良い顔をますます赤くさせた。瞳を上へ泳がせ、次は足元を向き、困り果てて視線を左右へ巡らせ、頬を押し当てるシーツを見つめ。
答えなくとも彼女が許して、何か話し始めてくれないかと黙ったまま、彼はシーツにしがみつくように懸命に隠れてしまう。それでも見えてしまう頬は、あまりの恥ずかしさからもう真っ赤だ。
だがそんな少年の期待を、少女は意地悪く許さなかった。やがて、顔の右半分を懸命にシーツに埋める彼も、このまま黙っていても彼女は妥協してくれないことを理解した。決して視線を合わせず、左手で無意識に強くシーツを握り締めた彼は、弱々しく喉を震わせる。
はい、と蚊の鳴くような、今にもぶれて消え入りそうな細い声だった。
その様子を見て、少女はこれがいつも叔父から自分にかけられる台詞だと思い出し、僅かな自己嫌悪を抱く。だが、自分にとっての「男」という常識からかけ離れた、恥ずかしさに震えてしまいそうな少年を見ると、思わず笑ってしまう。
「このマセガキ」
目を瞑る彼の鼻先をつついてやると、怒らない彼も流石にそっぽを向いてしまった。文句を口にする代わりに、寝返りを打って背を向けた。
怒ってもいいのに。そう思いながら、少女はそんな少年の背を眺める。
大人には幾年及ばない彼の背はまだ薄い。はっきりと突き出る肩甲骨と、枕元の明かりに照らされ、うっすらと浮き出るあばらから落ちる影が、息をするたびに揺れている。彼は、彼女が思っていた通りに痩せていて、身体の中心を通る背骨は凹凸を作っている。
だが彼は細身だが体力があり、ただ骨ばって痩せているのではないことを彼女は知っていた。
明るさと暗闇の狭間にある少年の背を指で辿った。彼の中心、浮かぶ背骨の輪郭を、指先でそっとなぞった。
突然の感触に驚いた彼が、顔を後ろに傾けた。ほんのり朱に染まる頬に手をやってこちらを向かせると、ようやく呼吸を落ち着けた少年は大人しく振り返った。
優しく頬を撫でてやり、顔を覗き込んで、少女は少年の瞳がいつもより輝いて見える理由に気が付いた。
彼の瞳は、濡れていた。
「怖かった?」
穏やかな口調で尋ねると、彼は首を小さく横に振る。
「でも、泣いてる」
「泣いてないよ」
「嘘つき」
「泣いてないってば」
瞬きをする彼の瞳からは、涙は溢れない。それでも、軽く閉じられる瞼を指で撫で、再び開かれる深い黒を見つめる。
「そうだよね。あんたは、望んでるわけじゃないもんね」そう、少女は優しく言った。
全ては彼の意思など関係ない、少女の思惑通りだった。
彼の休日を聞き出し、ここまで誘い、シャワーを浴びさせ。キスから始まった全ては彼女自身が望んだことであり、彼は促す言葉さえひとつも口にしてはいないのだ。
こんなの、あの男と同じじゃないか。少女の中に、罪悪感の芽が生える。天井を向くことが出来ない彼は、もし逆の立ち位置ならば、天井のしみを懸命に探して数えていただろうか。全てが終わる時間だけを待ち望んでいても、その優しさが仇となり、今もなお文句ひとつ言えないのではないのか。
その思いを見透かしたかのように、少年がふふっと笑った。
口の端を緩め、静かで穏やかな、少女にとって愛おしくて仕方のない笑顔を見せた。
「悲しまないでください」決して大きくない声は、少女の耳にはっきりと届く。
細い彼の腕が伸ばされる。その手がそっと少女の肩に触れる。体温を分け合うように身を寄せ、彼は確かに彼女を抱きしめた。
「ぼくは、あなたが好きなんです」
思いがけない言葉だった。
だが少女は聞き返すと言う無粋な真似などしなかった。彼の声はたった一度で、胸の奥に心を通して染み込むように響いてくる。
胸が詰まって、苦しい。だがこれまで知って来た、痛みや辛さに由来するものではない、胸の奥が熱くて熱くて締め付けられる苦しさだった。正しく表現する言葉を見つけられない、十七年という人生で少女が初めて抱く感情だった。
「泣かないで」
優しい声とともに、指先で目元を拭われる。
そうして少女は、自分が涙をこぼしていたことに気が付いた。悲しくなんてないのに、辛さも苦しさも寂しさも、いまは何一つ感じられないのに、熱い胸の奥から熱い涙が零れてくる。その雫の熱で彼女が火傷してしまわないうちに、彼の細い指は目元を撫でるように動いては涙をすくっていく。
だいすき。そう口にする彼女の声は震えていた。こみ上げる涙のせいで頼りなくぶれてしまうそれを少しだけ大きくすると、少女はもう一度彼に訴えた。
「大好き」
いつも遠くへ離れて行く彼を、毎朝見送るだけの身体を、両腕を伸ばして抱きしめる。
今は、彼は隣にいる。どこにもいかない。いかないでほしい。こうして触れているだけで涙があふれてしまうほど、彼が大好きなんだ。
彼は何も言わない。もう、泣かないでとは言わない。彼女の涙を全身で受け止めて、ただただ限りなくそばにいる。だから少女は涙を殺すことなく、それが自然と止まってしまうまで泣くことが出来た。
「ぎゅってして」寄せた顔で、小さな声で、少女は囁く。「少しでいいの。離れないでいて。思いっきりでいいから、苦しくなんてないから、強く抱きしめて。一緒にいて」
言葉の代わりに、彼は少女を抱きしめる腕に力を入れた。苦しくないよう加減はされているが、全身の温もりが、命の鼓動が、これ以上なく少女へ伝わる。心の底から安堵する少女も、同じように強く彼を抱きしめた。痩せた細い体、少し高い体温。指先で、まだ僅かに湿っている髪に触れ、自分が本当に望んでいたことを知った。
無条件に愛し、無償で抱きしめてくれる愛しい誰かが、これまでずっと欲しかった。
望まない人間などとはいくら身体を重ねても、温もりどころかその体温自体が消滅すればとも願った。それなのに、言われた通りに腕を伸ばすしかない無力な自分に対する巨大な影のような劣等感や不甲斐なさにも押しつぶされ、これまで本来の涙さえ失っていた。
決して忘れない。
少女は強く強く、心の中で繰り返す。好きだと言ってくれた今の彼を、背に回る腕の強さを、全てを受け入れてくれる途方もない優しさを。たとえ傷跡でもいい、残しておきたい。傷だなんて思わないから。目に見えなくとも身体に刻まれた証として、一生残しておきたい。
「……私ね、息が苦しいんだ」抱き合ったまま、少女は囁いた。「病気とか怪我とか、そんなんじゃないよ。いくら吸っても、酸素が体に入ってこないの」
誰にも聞かせたことのない話だった。少女だけが見ている、彼女だけが存在し、感じている世界の話だ。
「なんだかね、水の中にいるみたい。いつからかは、覚えてないんだけど……。それでね、いつの間にか、息継ぎが、上手くできなくなってたんだ」
「それでも、溺れて死んだりしない。水の中にも酸素はあるから、ただ足りなくて、苦しいだけ」
驚きに、少女は顔を動かして少年を目を合わせた。何故だか自分が続けようとした台詞を、何も知らないはずの彼が静かに語っている。
「まるで、海の底なんだ。だけど、上手に泳げない。そのうち、もがくのにも疲れてしまって、歩くのがやっとなんだ」
「そう。水面に上がろうっていう気も、最初はあったはずなのに。いつまでたっても、どうしても届かないの。気づいたら上がるどころか、どんどん遠くなっていって、沈んでいって。海の底を、ひとりで歩いてる」
歩くのだって楽ではない。軽々となんて動けないし、走るのなんて尚更だ。水の中なんだから。そのくせ上手に泳げもしないまま、途方に暮れて、ただ足を動かしているだけ。
「いつの間にか、水深が二百メートルを超えてるんだ。深海だよ。たった一人で、深い海の底にいるんだ」
そうか、深海だったのか。少女はいたく納得した。手を伸ばせば、少し泳げば水面に到達する距離ではなく、深い海と書かれてしまう深海にまでいつの間にか辿り着いていたのだ。
「静かで、誰の声も聞こえない。姿もない。深くなるたびにね、全部が遠くなってくの」
「だけど、わかってるよ。上には光があるんだ。今が朝か昼か、それとも夜なのかもわからないけど、もしも上まで泳ぎきれたっら、思うんだ」
頷く少女は、ようやく腹落ちした。自分ひとりが存在しているのだと思っていたが、実は彼も、同じ世界に生きていたのだ。孤独な深海に、彼もたった一人で、潜っていたのだ。
少女は、頬を緩めて小さく笑った。
「でも、可笑しいよね。光があるってわかるなんて。深海って真っ暗なんでしょ。光なんて届くはずのない世界なのに」
「完全に真っ暗になるのは、水深千メートルからなんだ。それまでは、光はゼロではない。人の目にはわからないだろうけど」彼はいたく真面目に言った。「でもね、どれだけ潜ってもわかるんだ、光のある方向が。千メートルを超えても、どれだけ遠くなってしまっても、見えなくはならないんだ」
それは、求めている光だから。どれだけ遠のいても感じられるのは、いつかは触れてみたいと願い続けているから。
「泳げなくて、浮かべもしないのに。呼吸すら難しいのに。底にいるくせに。ずっとね、見上げてるんだ」
静寂に満ちた、孤独の世界の物語。それぞれが見続けていた、自分しか知らない幻影と、しようのない現実との交点にある青い世界。
「時々、ほんのたまに、生き物が通りかかるんだ。触れたことはないけど」
「深海魚?」
少女が尋ねると、少年は柔らかな表情で頷く。
「私は、見たことないや。あんたとは、いる海が違うのかな」
「でも、海は全部繋がってるよ」
「なら、いつか会えるかな。ずっと歩いて、たまにもがいて探してたら、海の中で、会えるのかな」
「無理なんて、しなくていいよ」優しい言葉とともに、少女を見つめるとても綺麗な彼の瞳。海の底のように、深く、孤独で、美しい。
「迎えに行きます。そしたら、一緒に上がりましょう」
ひとりでは上がれない。少なくともこれまでずっとそうだった。
しかし、ふたりならば。共に手を繋ぎ合うことが出来るなら、水面まで泳ぎきれるだろうか。顔を上げて、胸いっぱいに空気を吸い込むことが出来るだろうか。それはどんなに、幸せな未来の世界だろう。
顔を寄せて、少女は彼の額に額をくっつけた。彼の小さな笑い声が聞こえる。
真面目で素直で、いつだって一生懸命な少年は、嘘など吐かない。だからこうしてそばにいれば、いつか本当になるだろう。手を繋ぎ、共に呼吸ができるだろう。
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