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2章 深海の星空
深海の星空1
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二人は、人混みを駆けていた。
バス停から少し離れたファストフード店で空腹を満たしていた間に、いつの間にか二時間が経過していた。身体に悪いハンバーガーショップだったが、こんな日ぐらい夕食をジャンクフードで済ませることぐらい、少女には大した問題ではなかった。少年も、こうすれば家族が一人分食事を作らなくて済むと賛同していたのだった。
楽しい時間ほど短く早く過ぎてしまい、店を出た時刻は、既に十時半を回っていた。
「やだね、田舎って。終電さえも空気読まないとか、せっかく住民の平均年齢下げてやってんのに」
「間に合いますか」
「ぎり。いや、微妙」
ようやっと南口の広場、時計台の噴水まで辿り着くと、肩で呼吸をしながら彼女は彼に時間を訊ねる。あと三分で、自宅方面へ向かう最終電車が出てしまう。
「急いで、転ばないでくださいね」
「転ばないよ。子どもじゃないんだから」
「怪我、しないでください」
「しないってば。なんだと思ってんの、私のこと」
あと二分。子どもじみた心配をする彼が、なんだか情けなく眉尻を下げているのが、駅のホームから溢れる光と街灯が投げかける明かりの中でようやく見えた。
あと少し、言いたいことがあった。今日のこと。楽しかった。本当に楽しくて嬉しくて、絶対に忘れない、大切な日になった。
だがその思いを綺麗にまとめる時間も、とりとめないまま並べ立てる時間も、今となっては残されていない。あと十分だけでも早く店を出ていたらと、今更の後悔だけがぽつりと残る心で、彼女は右手を上げかける。さよならではなく、またねの印。
「あの」
静かな彼が、静かな声を大きくして真っ直ぐに顔を向けるのに、彼女は踏み出しかけた足を止めた。「なに」時間がないのは十分わかっているはずなのに、なぜそんな必死な顔をするのだろう。
時間がない苛立ちよりも、そんな不思議さを抱いて少女は彼に向き合った。
「時間が、なかったら……」緊張を含んだ真剣な顔で彼が言う。それに彼女は既視感を覚えた。
「時間なんてないよ、分かってるでしょ」
「ぼくが、送っていきます」
彼女の既視感の正体は、思いを告げる真剣さ。かつて初めて声を荒げ、彼女の不幸を嘆いて怒った時の、気の張った姿だった。幾ばくかの情けなさを勇気で包んで覆い隠したのが、今の姿だった。
少しでも、一緒にいたい。思うことは、彼も同じだった。
彼が駐輪場から引っぱり出した自転車は、二年以上毎日使い続けたおかげでフレームの青い塗装も随分と剥げ、幾度もブレーキに油をさし直した使い込まれたものだった。「専売所まで、これで行くんです」新聞配達用の自転車とは異なる音をカラ回せながら、彼は言った。その違いが判るのは、二人だけだ。
大きな通りを抜けて人通りの少ない道に入ると、少年は立ち止まり、自分のバッグと彼女のショルダーバッグを前かごに収めた。
「家、方向違うんでしょ」
「大した距離じゃないです」
彼はうっすらと笑って軽くかぶりを振った。居酒屋やゲームセンターのある通りを離れるとすれ違う人もまばらになる。街灯の下でようやく相手の表情を認識できるほどの夜闇だ。
「夜中になっちゃうよ、帰るの。そんな遅くなっていいの」
「うち、放任主義だし。冬の明け方もずっと暗いから、問題ないです。それより、あなたが暗いところを歩く方が怖い」
言うようになったな。下手をすれば夜に溶け込んでしまいそうな彼の顔を眺めて、少女は思った。夜だから、彼はこんな台詞をすらすらと並べられるのだろうか。夜の暗さに気持ちを隠せるから、相手を喜ばせる恥ずかしげな言葉を、簡単に口にできるのかもしれない。
「行きますよ。タイヤ、足挟まないようにしてください」
「わかってる。あんたこそ、こんな細いのに大丈夫なの。こけないでよ」彼が自転車に跨ってペダルに右足を乗せるのに、彼女は控えめに荷台に腰を掛けると彼のパーカーの背を握り締めた。
「新聞配ってるときより、バランスとってもらえる分、ずっと楽です」
すれ違う人がいないのを確認し、少年は軽く左足でアスファルトを蹴ると、右足で強くペダルを踏み込んだ。
初めの一足、二足こそふらついたが、僅かでもスピードがつくとすぐに自転車は安定し、真っ直ぐに走り出した。大きいとは言い難い手のひらはしっかりとハンドルを握り締め、まだ薄く頼りなく見える背中や細い手足は意外なほど力強く、二人の体重を乗せる自転車を走らせていく。
流れる景色の中、二人はとりとめもなく言葉を交わした。笑い合い、ふざけ合った。実のないといえば素っ気ない、他愛のない話。将来だとか勉強だとか、家族や学校、悩みや相談。そういった言葉を用いない、夜に埋没してしまう、かけがえのない小さな話。
帰りたくないな。今日何度抱いたか最早思い出せない想いを胸に、この時間がずっと続けばと、彼女は思った。時計が壊れ、太陽と月が動きを止め、世界が狂ってしまえば時間は止まるだろうか。なんて幸福な想像だろう。
そんな彼女の想いを感じ取ったのか、彼は短い遠回りを提案した。
バス停から少し離れたファストフード店で空腹を満たしていた間に、いつの間にか二時間が経過していた。身体に悪いハンバーガーショップだったが、こんな日ぐらい夕食をジャンクフードで済ませることぐらい、少女には大した問題ではなかった。少年も、こうすれば家族が一人分食事を作らなくて済むと賛同していたのだった。
楽しい時間ほど短く早く過ぎてしまい、店を出た時刻は、既に十時半を回っていた。
「やだね、田舎って。終電さえも空気読まないとか、せっかく住民の平均年齢下げてやってんのに」
「間に合いますか」
「ぎり。いや、微妙」
ようやっと南口の広場、時計台の噴水まで辿り着くと、肩で呼吸をしながら彼女は彼に時間を訊ねる。あと三分で、自宅方面へ向かう最終電車が出てしまう。
「急いで、転ばないでくださいね」
「転ばないよ。子どもじゃないんだから」
「怪我、しないでください」
「しないってば。なんだと思ってんの、私のこと」
あと二分。子どもじみた心配をする彼が、なんだか情けなく眉尻を下げているのが、駅のホームから溢れる光と街灯が投げかける明かりの中でようやく見えた。
あと少し、言いたいことがあった。今日のこと。楽しかった。本当に楽しくて嬉しくて、絶対に忘れない、大切な日になった。
だがその思いを綺麗にまとめる時間も、とりとめないまま並べ立てる時間も、今となっては残されていない。あと十分だけでも早く店を出ていたらと、今更の後悔だけがぽつりと残る心で、彼女は右手を上げかける。さよならではなく、またねの印。
「あの」
静かな彼が、静かな声を大きくして真っ直ぐに顔を向けるのに、彼女は踏み出しかけた足を止めた。「なに」時間がないのは十分わかっているはずなのに、なぜそんな必死な顔をするのだろう。
時間がない苛立ちよりも、そんな不思議さを抱いて少女は彼に向き合った。
「時間が、なかったら……」緊張を含んだ真剣な顔で彼が言う。それに彼女は既視感を覚えた。
「時間なんてないよ、分かってるでしょ」
「ぼくが、送っていきます」
彼女の既視感の正体は、思いを告げる真剣さ。かつて初めて声を荒げ、彼女の不幸を嘆いて怒った時の、気の張った姿だった。幾ばくかの情けなさを勇気で包んで覆い隠したのが、今の姿だった。
少しでも、一緒にいたい。思うことは、彼も同じだった。
彼が駐輪場から引っぱり出した自転車は、二年以上毎日使い続けたおかげでフレームの青い塗装も随分と剥げ、幾度もブレーキに油をさし直した使い込まれたものだった。「専売所まで、これで行くんです」新聞配達用の自転車とは異なる音をカラ回せながら、彼は言った。その違いが判るのは、二人だけだ。
大きな通りを抜けて人通りの少ない道に入ると、少年は立ち止まり、自分のバッグと彼女のショルダーバッグを前かごに収めた。
「家、方向違うんでしょ」
「大した距離じゃないです」
彼はうっすらと笑って軽くかぶりを振った。居酒屋やゲームセンターのある通りを離れるとすれ違う人もまばらになる。街灯の下でようやく相手の表情を認識できるほどの夜闇だ。
「夜中になっちゃうよ、帰るの。そんな遅くなっていいの」
「うち、放任主義だし。冬の明け方もずっと暗いから、問題ないです。それより、あなたが暗いところを歩く方が怖い」
言うようになったな。下手をすれば夜に溶け込んでしまいそうな彼の顔を眺めて、少女は思った。夜だから、彼はこんな台詞をすらすらと並べられるのだろうか。夜の暗さに気持ちを隠せるから、相手を喜ばせる恥ずかしげな言葉を、簡単に口にできるのかもしれない。
「行きますよ。タイヤ、足挟まないようにしてください」
「わかってる。あんたこそ、こんな細いのに大丈夫なの。こけないでよ」彼が自転車に跨ってペダルに右足を乗せるのに、彼女は控えめに荷台に腰を掛けると彼のパーカーの背を握り締めた。
「新聞配ってるときより、バランスとってもらえる分、ずっと楽です」
すれ違う人がいないのを確認し、少年は軽く左足でアスファルトを蹴ると、右足で強くペダルを踏み込んだ。
初めの一足、二足こそふらついたが、僅かでもスピードがつくとすぐに自転車は安定し、真っ直ぐに走り出した。大きいとは言い難い手のひらはしっかりとハンドルを握り締め、まだ薄く頼りなく見える背中や細い手足は意外なほど力強く、二人の体重を乗せる自転車を走らせていく。
流れる景色の中、二人はとりとめもなく言葉を交わした。笑い合い、ふざけ合った。実のないといえば素っ気ない、他愛のない話。将来だとか勉強だとか、家族や学校、悩みや相談。そういった言葉を用いない、夜に埋没してしまう、かけがえのない小さな話。
帰りたくないな。今日何度抱いたか最早思い出せない想いを胸に、この時間がずっと続けばと、彼女は思った。時計が壊れ、太陽と月が動きを止め、世界が狂ってしまえば時間は止まるだろうか。なんて幸福な想像だろう。
そんな彼女の想いを感じ取ったのか、彼は短い遠回りを提案した。
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