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3章 ノンフィクション
幸せと引換えに3
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ここに来て、少年の想像に沿った事柄は一つも起こらなかったが、彼女の台詞はこれまでとは一線を画して常軌を逸していた。
目を見張り、呼吸さえ止めてしまった少年に、少女は酷薄に続ける。
「そんだけ好きだって言うんならさ。その私が死ねって言ったら、あんた、死ねる?」
そこまで嫌われていたのか。予想だにしなかった言葉に彼は頬をひきつらせた。閉ざした唇を微かに離した口で、乾いた呼吸をやっとの思いで繰り返す。呆然と彼女を眺め、あまりに非道な台詞を、頭の中で幾度も反芻する。ひく、と一度だけ喉が鳴ったが、それは落涙による嗚咽などでは決してなく、酸欠に陥りそうなショックに由来する喉の動きだった。
死を望まれるだなんて、よっぽどだ。だがそのよっぽどを、勝ち誇った顔をする彼女は抱いているらしい。彼はただ何も言えず、身体の横で両手を垂らした棒立ちのまま、何一つ言葉を返せない。
それでも、なんとか動く手でズボンのすそを握り、手にかいた冷たい汗を拭う。悔しげに歪める顔。苦しげに歯を食いしばる。時間をかけ、悲しみに浸りこみ、沈黙の静寂にさえかき消えそうな声を必死に喉の奥から絞りだした。
「……はい」
短い、ただ一言だった。
それに対する少女は「嘘ばっか」と吐き捨てる。
「調子良いこと言うなよ。この馬鹿野郎。クソガキめ」
だが彼にはもう、そんな無意味で幼稚な悪口など、聞こえてはいなかった。
「……そうしたら、あなたは、幸せ、なんですか」
切れ切れの言葉を結び付ける声は、震えていた。
「そうしたらって」
「ぼくが……。ぼくが死ねば、あなたは、幸せでいられますか」
「そうだって言ってんじゃない。清々するよ。鬱陶しいやつがいなくなってさ。でも無理でしょ、さすがに。死ぬのって相当だから。あんたなんかじゃ想像できないだろね」
かつて死を目前とした彼女だからこそ、その台詞は確かな意味を持つ。
投げやりな様子の彼女に対し、少年は情けなく眉尻を下げ、言葉も力もなく首を横に振った。この部屋にやって来て何度目かわからない彼の仕草だったが、それは既に、否定のものではなかった。
「本当ですか……」掠れる声で呻く。「ぼくが死ぬことが、あなたの幸せに繋がるんですか」
「しつこいな。そうだって言ってんじゃん」
「ぼくが、死ねば……あなたは……」
「ああもう、うるっさい!」彼女は怒鳴り、彼を睨みつける。「そんな鬱陶しいやつだと思わなかった!」
苛立ちに足を踏み鳴らしそうになる彼女を、彼は縋るように見つめる。どうかどうかと、まるで祈るような彼の思い詰めた表情は、彼女の煮え立った勢いを次第に静かに削いでいく。
「約束してください」彼はあくまで落ち着いていた。「絶対だって、言ってください。ぼくが……ぼくが、この世から消えたら、必ず、絶対に今よりも幸せになるって」
少女の前で泣いたことのない少年は、今にも泣き出しそうに顔を歪める。そうして必死に、精いっぱいに彼女に向き合う姿は、いつもと寸分違わない。
「……なるよ」少女の声から、力が抜けていく。
「絶対ですよ」
「わかってる……」
「今だけは、嘘なんて、吐かないでください。ほんとは嘘だったなんて、後出しで言わないでくださいね」
声を震わせる彼は、気丈にも、引きつる頬を無理に上げて微笑んで見せた。泣きそうな顔で、彼女の愛する、愛した優しさで笑う。
変わらない少年は、全てが本気だった。嘘を吐けない真面目で素直すぎる彼の性質は、今となっても少しも変わらない。どれだけ彼女に突き放され、酷い台詞を叩きつけられようとも、彼の想いには少しの変化もない。
「ぼくが死んだら……」彼は決して彼女を責めない。「ぼくが死んだら、また、前みたいに、笑っていてください」
「前みたいって……」
「いつも、ぼくをからかう時みたいに。一緒に星空を見上げた時みたいに。毎朝見せてくれたように」
深海の瞳は濡れている。それが流れないよう懸命に堪え、彼は少年らしい穏やかさで、優しく笑った。
「あなたが、少しでも幸せに笑っていてくれるなら。ぼくはもう、何もいらないんです」
これが、彼の願いのすべてだった。
愛する少女が幸せに笑っている世界があるのなら、そこに自分がいないという条件が付いていても、迷わずにそれを選び取ることが出来る。それが桜庭菜々の愛した、一ノ瀬広樹という人間。友情や恋愛や青春だの、そんなものと遠く離れて生きてきた彼が持つのは、純粋で真っ直ぐな愛情だけだった。
すっと、彼は右足を引いた。
その一足は、長い長い道のりだった。これまで、半年という時の中で縮めた全ての距離。不器用な少年とひねくれた少女が、互いに探り合い、それでも相手を求め、ようやく手を繋いで笑い合うようになれた、決して短くない道程だ。苦しい呼吸の中で懸命に駆け続けた、胸が張り裂けそうに愛おしいその距離は、彼のたった一歩で、いとも容易く彼女から遠ざかる。
大好きな彼女に永訣を告げる少年は、全てを受け止める優しさのまま、どこかあどけなさの残る笑顔を彼女に向けた。
「嬉しかったです。好きだって、言ってくれて。この半年間、いつもすぐ傍にいてくれて。ぼくなんかに、これまで付き合ってくれていて」
そして彼は言った。
ありがとう、と。さようなら。
その二つを、最後の言葉として。
それから彼が考えるのは、途方もない悲しみ。沈み込み、呼吸さえ許されなくなる、人生最期で最大の圧倒的な悲痛。それはこれからどうやって、人生を終わらせるのかということ。たった十五の若さで、愛しい全てと、世界そのものと決別する方法を考えて、実行する。彼女の知らない場所で、知らない間に。
いつもの朝のように小さく頭を下げると、彼は屈んで通学鞄を拾い上げる。少し汚れたエナメルのバッグは重たげで、少年の細い身体は肩にかかる重みにも潰されてしまいそうだった。だが、彼は決してそれほどまでに弱くない。しっかりと伸ばした背を彼女に向けた。
一歩、また一歩と遠ざかっていく。いつもの朝のように。だがいつもと違うのは、向かう先に、朝など決して存在しないこと。彼が一人で見つめ続けた美しく静謐な世界は、その瞳には二度と映らない。向かう先は、今度こそ誰にも触れられない、生き物の鼓動のない闇の深海。ひとりきりの、絶海の孤独。
背を向けた瞬間、伸びた前髪に隠れる彼の瞳から、あれほど愛した少女の姿はかき消えた。
泣きたくなるほど、命を懸けても幸せを願う人の影は、跡形もなく霧散し、彼の中から消えてしまった。
とん。とん。と、履き潰したスニーカーで冷たい床を踏みしめる。もう、彼は決して振り返らなかった。不思議なことにその姿には、彼女に拒絶された落胆も絶望も存在しない。ただただ、孤独な少年がそこにいるだけ。
躊躇なく深海に消えていく彼の指が、簡素な鍵に触れた。
目を見張り、呼吸さえ止めてしまった少年に、少女は酷薄に続ける。
「そんだけ好きだって言うんならさ。その私が死ねって言ったら、あんた、死ねる?」
そこまで嫌われていたのか。予想だにしなかった言葉に彼は頬をひきつらせた。閉ざした唇を微かに離した口で、乾いた呼吸をやっとの思いで繰り返す。呆然と彼女を眺め、あまりに非道な台詞を、頭の中で幾度も反芻する。ひく、と一度だけ喉が鳴ったが、それは落涙による嗚咽などでは決してなく、酸欠に陥りそうなショックに由来する喉の動きだった。
死を望まれるだなんて、よっぽどだ。だがそのよっぽどを、勝ち誇った顔をする彼女は抱いているらしい。彼はただ何も言えず、身体の横で両手を垂らした棒立ちのまま、何一つ言葉を返せない。
それでも、なんとか動く手でズボンのすそを握り、手にかいた冷たい汗を拭う。悔しげに歪める顔。苦しげに歯を食いしばる。時間をかけ、悲しみに浸りこみ、沈黙の静寂にさえかき消えそうな声を必死に喉の奥から絞りだした。
「……はい」
短い、ただ一言だった。
それに対する少女は「嘘ばっか」と吐き捨てる。
「調子良いこと言うなよ。この馬鹿野郎。クソガキめ」
だが彼にはもう、そんな無意味で幼稚な悪口など、聞こえてはいなかった。
「……そうしたら、あなたは、幸せ、なんですか」
切れ切れの言葉を結び付ける声は、震えていた。
「そうしたらって」
「ぼくが……。ぼくが死ねば、あなたは、幸せでいられますか」
「そうだって言ってんじゃない。清々するよ。鬱陶しいやつがいなくなってさ。でも無理でしょ、さすがに。死ぬのって相当だから。あんたなんかじゃ想像できないだろね」
かつて死を目前とした彼女だからこそ、その台詞は確かな意味を持つ。
投げやりな様子の彼女に対し、少年は情けなく眉尻を下げ、言葉も力もなく首を横に振った。この部屋にやって来て何度目かわからない彼の仕草だったが、それは既に、否定のものではなかった。
「本当ですか……」掠れる声で呻く。「ぼくが死ぬことが、あなたの幸せに繋がるんですか」
「しつこいな。そうだって言ってんじゃん」
「ぼくが、死ねば……あなたは……」
「ああもう、うるっさい!」彼女は怒鳴り、彼を睨みつける。「そんな鬱陶しいやつだと思わなかった!」
苛立ちに足を踏み鳴らしそうになる彼女を、彼は縋るように見つめる。どうかどうかと、まるで祈るような彼の思い詰めた表情は、彼女の煮え立った勢いを次第に静かに削いでいく。
「約束してください」彼はあくまで落ち着いていた。「絶対だって、言ってください。ぼくが……ぼくが、この世から消えたら、必ず、絶対に今よりも幸せになるって」
少女の前で泣いたことのない少年は、今にも泣き出しそうに顔を歪める。そうして必死に、精いっぱいに彼女に向き合う姿は、いつもと寸分違わない。
「……なるよ」少女の声から、力が抜けていく。
「絶対ですよ」
「わかってる……」
「今だけは、嘘なんて、吐かないでください。ほんとは嘘だったなんて、後出しで言わないでくださいね」
声を震わせる彼は、気丈にも、引きつる頬を無理に上げて微笑んで見せた。泣きそうな顔で、彼女の愛する、愛した優しさで笑う。
変わらない少年は、全てが本気だった。嘘を吐けない真面目で素直すぎる彼の性質は、今となっても少しも変わらない。どれだけ彼女に突き放され、酷い台詞を叩きつけられようとも、彼の想いには少しの変化もない。
「ぼくが死んだら……」彼は決して彼女を責めない。「ぼくが死んだら、また、前みたいに、笑っていてください」
「前みたいって……」
「いつも、ぼくをからかう時みたいに。一緒に星空を見上げた時みたいに。毎朝見せてくれたように」
深海の瞳は濡れている。それが流れないよう懸命に堪え、彼は少年らしい穏やかさで、優しく笑った。
「あなたが、少しでも幸せに笑っていてくれるなら。ぼくはもう、何もいらないんです」
これが、彼の願いのすべてだった。
愛する少女が幸せに笑っている世界があるのなら、そこに自分がいないという条件が付いていても、迷わずにそれを選び取ることが出来る。それが桜庭菜々の愛した、一ノ瀬広樹という人間。友情や恋愛や青春だの、そんなものと遠く離れて生きてきた彼が持つのは、純粋で真っ直ぐな愛情だけだった。
すっと、彼は右足を引いた。
その一足は、長い長い道のりだった。これまで、半年という時の中で縮めた全ての距離。不器用な少年とひねくれた少女が、互いに探り合い、それでも相手を求め、ようやく手を繋いで笑い合うようになれた、決して短くない道程だ。苦しい呼吸の中で懸命に駆け続けた、胸が張り裂けそうに愛おしいその距離は、彼のたった一歩で、いとも容易く彼女から遠ざかる。
大好きな彼女に永訣を告げる少年は、全てを受け止める優しさのまま、どこかあどけなさの残る笑顔を彼女に向けた。
「嬉しかったです。好きだって、言ってくれて。この半年間、いつもすぐ傍にいてくれて。ぼくなんかに、これまで付き合ってくれていて」
そして彼は言った。
ありがとう、と。さようなら。
その二つを、最後の言葉として。
それから彼が考えるのは、途方もない悲しみ。沈み込み、呼吸さえ許されなくなる、人生最期で最大の圧倒的な悲痛。それはこれからどうやって、人生を終わらせるのかということ。たった十五の若さで、愛しい全てと、世界そのものと決別する方法を考えて、実行する。彼女の知らない場所で、知らない間に。
いつもの朝のように小さく頭を下げると、彼は屈んで通学鞄を拾い上げる。少し汚れたエナメルのバッグは重たげで、少年の細い身体は肩にかかる重みにも潰されてしまいそうだった。だが、彼は決してそれほどまでに弱くない。しっかりと伸ばした背を彼女に向けた。
一歩、また一歩と遠ざかっていく。いつもの朝のように。だがいつもと違うのは、向かう先に、朝など決して存在しないこと。彼が一人で見つめ続けた美しく静謐な世界は、その瞳には二度と映らない。向かう先は、今度こそ誰にも触れられない、生き物の鼓動のない闇の深海。ひとりきりの、絶海の孤独。
背を向けた瞬間、伸びた前髪に隠れる彼の瞳から、あれほど愛した少女の姿はかき消えた。
泣きたくなるほど、命を懸けても幸せを願う人の影は、跡形もなく霧散し、彼の中から消えてしまった。
とん。とん。と、履き潰したスニーカーで冷たい床を踏みしめる。もう、彼は決して振り返らなかった。不思議なことにその姿には、彼女に拒絶された落胆も絶望も存在しない。ただただ、孤独な少年がそこにいるだけ。
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