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25話 再会
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今も生活は裕福ではないのだろう、一角にある古びた家から出てきたのは、幾年も前に別れた母だった。サーカスで出会ったのは姉だったが、彼女は仕事に出ている時間らしい。夕刻の家には、帰って内職にふける母しかいなかった。
扉の前に佇むナツを、母は抱きしめた。
「本当に、ナツなのね」
母は、涙を流していた。ごめんなさい、ごめんなさいと幾度も謝罪を述べている。
「私たちが間違っていたわ。あなたは家族なのに、何があっても手放すべきではなかったのに……ごめんなさい、ナツ」
ただいまとは、ナツは言わなかった。涙を流すこともなく、ただ黙って、彼女は抱きしめられていた。だが、そんな様子に構う風もなく、母は苦しいほど強く強く娘を抱きしめる。
「母さん……もう、いいよ。謝んなくても」
目を潤ませる母からようやく逃れ、ナツは呻くように言った。母は、売られたナツがどのような目にあったのかは知らない。どれほど残酷な主人の下で、虐げられ暴力を受けてきたのか、知る由もない。
ナツは母の肩ごしに家の中を覗いたが、誰かがいる気配はない。父と一番上の姉は、遠く出稼ぎに出ていて家にはいないという話だった。
「……その子は、どうしたの」
落ち着きを取り戻すと、ナツの少し後ろで立ち尽くしていたシノに、母は目を向けた。
「……あたしの、弟」
意味がわからないという顔をする母に、ナツは説明する。主人の家で出会った子どもで、そこで姉弟になり、これまでの旅路を共にしてきたのだと語った。シノが一切説明をしないのは、彼は喋ることが出来ないのだと。サーカスで唄っていたが、ある事情で唄えなくなったのだと手短に伝える。
「でも、ナツ」
「分かってる」
母の言葉を制し、ナツは頷いた。みなまで言われなくとも知っている。我が家は決して裕福ではなく、だからこそ、ナツは奴隷として売られたのだ。いくら父と姉の二人が出稼ぎに出ていたとしても、大きな変化は得られないだろう。
「……だけど、今夜だけ」
許して欲しいという言葉に、母は仕方なく、という表情でようやく頷いた。薄汚れた痩せっぽちの見知らぬ子どもが、歓迎されるわけがないのだ。
その晩、二人は久方ぶりに、一つの寝具に潜り込んだ。ランタンが薄く光を伸ばす部屋の中、おずおずと手を伸ばすシノを、ナツは抱きしめた。少しすると安心したのか、シノも抱きつき、身体の力を抜いている。その額に額を合わせ、ナツは大きく息をついた。
「ごめんな」
身じろぎをするシノに、ナツは言えなかった言葉を繋いだ。
「もう、お別れだ」
腕の中で、シノがみるみる目を見開く。その頭を撫で、ナツは落ち着いた声で語りかける。
「団長に教えてもらったんだ。この隣の街に、評判のいい孤児院があるんだって。そこでなら、愛嬌のあるあんたを、快く迎えてくれるだろうって。もう、話もつけてくれてる」
突然の話を理解できず、シノは頷くことができない。
「この家は、貧乏だ。母さんの顔見て分かっただろ。あんたを食わせていくことはできない。上の姉さんが働きに出て、やっと子どもを売らなくて済むっていう程度なんだ」
シノの指に力がこもる。シノがナツにしがみつく。
「ひどい家だよ。貧乏だからって、子どもを売るんだからさ。……だけどやっぱり、あの人たちは、あたしを産んだ母さんと、姉さんなんだ。こんな家だけど、海を越えてまで戻ってきたのは、やっぱりあたしの帰る場所だからだろうな。……あたしは、母さん達を助けるよ」
いやいやをするように首を振るシノを、ナツは優しい手つきで撫でる。
「あんたは、幸せになってくれ。また唄えるようになれたら、サーカスに誘ってくれるってさ。シノは唄うのが大好きだろ、それで食っていけるのが一番なんだ。でも、この街にいても、あんたの居場所はない。大事にしてもらえる場所にいて、また唄えるようになるのが、一番なんだ」
シノの表情がゆがむ。涙を覚えていれば、彼は今きっと、泣いて嫌がっているだろう。泣けないシノは、せめてナツに強く抱き付き、首を振る。
「そんな顔すんなよ。せっかく可愛い顔で生まれてきたのに、台無しだぞ。もったいないじゃねえか。な、シノ、あんたはこれから、自分のために生きろよ。あたしみたいな奴のために、唄えなくなったりなんかすんな。旦那様みたいな人間のために、痛い目にあったりすんなよ。あんただって、あたしの幸せを願ってくれただろ」
ナツの腕の中にいるのは、いつものシノだった。弱く、頼りなく、愛らしく、優しい、大切で堪らないかけがえのない存在だった。
「首輪がないと、こんなに身体が軽くなるんだな」
笑ってみせるナツを見つめたまま、シノは首を横に振る。
そんなつもりじゃないんだと、彼が言っているのがナツには聞こえた。そんなつもりで唄っていたのではない。心を削って声を出していたのは、こんな結末の為ではない。そう、シノが懸命に叫んでいる。それを聞きながら、ナツは彼の頭に手をやり、髪をくしゃりと撫でる。すっかり手に馴染んだ手触りに、ナツの胸は熱くなる。
「これから、良い人に巡り合えよ。あんたは良い子なんだから、みんなに大事にされて、幸せになるんだぞ。あたしに幸せになって欲しいなら、嫌だなんて言うんじゃねえよ。なあ、シノ」
小刻みに震えるシノの身体を、何よりも愛しいその温もりを、ナツは精いっぱいの優しさで抱きしめる。ふたりでかぶっている一枚の毛布の中は、堪らなく温かく、居心地が良い。その幸福を全身に刻み付け、決して忘れぬことを誓って、ナツは瞼を閉じた。
扉の前に佇むナツを、母は抱きしめた。
「本当に、ナツなのね」
母は、涙を流していた。ごめんなさい、ごめんなさいと幾度も謝罪を述べている。
「私たちが間違っていたわ。あなたは家族なのに、何があっても手放すべきではなかったのに……ごめんなさい、ナツ」
ただいまとは、ナツは言わなかった。涙を流すこともなく、ただ黙って、彼女は抱きしめられていた。だが、そんな様子に構う風もなく、母は苦しいほど強く強く娘を抱きしめる。
「母さん……もう、いいよ。謝んなくても」
目を潤ませる母からようやく逃れ、ナツは呻くように言った。母は、売られたナツがどのような目にあったのかは知らない。どれほど残酷な主人の下で、虐げられ暴力を受けてきたのか、知る由もない。
ナツは母の肩ごしに家の中を覗いたが、誰かがいる気配はない。父と一番上の姉は、遠く出稼ぎに出ていて家にはいないという話だった。
「……その子は、どうしたの」
落ち着きを取り戻すと、ナツの少し後ろで立ち尽くしていたシノに、母は目を向けた。
「……あたしの、弟」
意味がわからないという顔をする母に、ナツは説明する。主人の家で出会った子どもで、そこで姉弟になり、これまでの旅路を共にしてきたのだと語った。シノが一切説明をしないのは、彼は喋ることが出来ないのだと。サーカスで唄っていたが、ある事情で唄えなくなったのだと手短に伝える。
「でも、ナツ」
「分かってる」
母の言葉を制し、ナツは頷いた。みなまで言われなくとも知っている。我が家は決して裕福ではなく、だからこそ、ナツは奴隷として売られたのだ。いくら父と姉の二人が出稼ぎに出ていたとしても、大きな変化は得られないだろう。
「……だけど、今夜だけ」
許して欲しいという言葉に、母は仕方なく、という表情でようやく頷いた。薄汚れた痩せっぽちの見知らぬ子どもが、歓迎されるわけがないのだ。
その晩、二人は久方ぶりに、一つの寝具に潜り込んだ。ランタンが薄く光を伸ばす部屋の中、おずおずと手を伸ばすシノを、ナツは抱きしめた。少しすると安心したのか、シノも抱きつき、身体の力を抜いている。その額に額を合わせ、ナツは大きく息をついた。
「ごめんな」
身じろぎをするシノに、ナツは言えなかった言葉を繋いだ。
「もう、お別れだ」
腕の中で、シノがみるみる目を見開く。その頭を撫で、ナツは落ち着いた声で語りかける。
「団長に教えてもらったんだ。この隣の街に、評判のいい孤児院があるんだって。そこでなら、愛嬌のあるあんたを、快く迎えてくれるだろうって。もう、話もつけてくれてる」
突然の話を理解できず、シノは頷くことができない。
「この家は、貧乏だ。母さんの顔見て分かっただろ。あんたを食わせていくことはできない。上の姉さんが働きに出て、やっと子どもを売らなくて済むっていう程度なんだ」
シノの指に力がこもる。シノがナツにしがみつく。
「ひどい家だよ。貧乏だからって、子どもを売るんだからさ。……だけどやっぱり、あの人たちは、あたしを産んだ母さんと、姉さんなんだ。こんな家だけど、海を越えてまで戻ってきたのは、やっぱりあたしの帰る場所だからだろうな。……あたしは、母さん達を助けるよ」
いやいやをするように首を振るシノを、ナツは優しい手つきで撫でる。
「あんたは、幸せになってくれ。また唄えるようになれたら、サーカスに誘ってくれるってさ。シノは唄うのが大好きだろ、それで食っていけるのが一番なんだ。でも、この街にいても、あんたの居場所はない。大事にしてもらえる場所にいて、また唄えるようになるのが、一番なんだ」
シノの表情がゆがむ。涙を覚えていれば、彼は今きっと、泣いて嫌がっているだろう。泣けないシノは、せめてナツに強く抱き付き、首を振る。
「そんな顔すんなよ。せっかく可愛い顔で生まれてきたのに、台無しだぞ。もったいないじゃねえか。な、シノ、あんたはこれから、自分のために生きろよ。あたしみたいな奴のために、唄えなくなったりなんかすんな。旦那様みたいな人間のために、痛い目にあったりすんなよ。あんただって、あたしの幸せを願ってくれただろ」
ナツの腕の中にいるのは、いつものシノだった。弱く、頼りなく、愛らしく、優しい、大切で堪らないかけがえのない存在だった。
「首輪がないと、こんなに身体が軽くなるんだな」
笑ってみせるナツを見つめたまま、シノは首を横に振る。
そんなつもりじゃないんだと、彼が言っているのがナツには聞こえた。そんなつもりで唄っていたのではない。心を削って声を出していたのは、こんな結末の為ではない。そう、シノが懸命に叫んでいる。それを聞きながら、ナツは彼の頭に手をやり、髪をくしゃりと撫でる。すっかり手に馴染んだ手触りに、ナツの胸は熱くなる。
「これから、良い人に巡り合えよ。あんたは良い子なんだから、みんなに大事にされて、幸せになるんだぞ。あたしに幸せになって欲しいなら、嫌だなんて言うんじゃねえよ。なあ、シノ」
小刻みに震えるシノの身体を、何よりも愛しいその温もりを、ナツは精いっぱいの優しさで抱きしめる。ふたりでかぶっている一枚の毛布の中は、堪らなく温かく、居心地が良い。その幸福を全身に刻み付け、決して忘れぬことを誓って、ナツは瞼を閉じた。
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