ナツとシノ

柴野日向

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26話 さよなら

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 翌日、孤児院に向かう道のりを、ナツはシノの手を引いて歩いた。辿りついた隣街にある孤児院では、居場所のないシノの受け入れは、驚くほどトントン拍子に進んでいった。
 最後に、これからシノの家となる場所の周りを、ふたりは散歩した。近くには、深くはないが木の実のなる森があり、街の中を行き交う人々の喧騒を忘れさせるような場所だった。
「いいとこじゃんか」
 小高い丘の上に立ち、帰り道を歩きながら、隣を歩くシノにナツは言った。だがシノは頷かず、ナツの服の裾を掴んだまま離さない。別れとなる門の前まで戻っても、彼は依然としてナツの傍にくっついたままだ。
「シノ」
 ナツが呼びかけるが、シノは離れない。
「我がまま言うな」
 嫌だ嫌だと彼は叫んでいる。
「諦めろ」
 ナツと声を上げて、シノはナツに抱き付く。その勢いによろけ、二人はもんどりうって地面に転がった。ぺたりと座り込んだシノが、大丈夫かと手を伸ばすのに、ナツは思わず手を伸ばしていた。
 ナツがその手をひっこめた時には、シノは気が付き目を見開いて彼女の腕を凝視していた。
 袖で隠れていたナツの細い腕には、青黒い斑点があちこちに浮かび上がっていた。
「隠してたのによ……」
 ぽつぽつと広がるそれの一つを撫で、ナツは苦笑してかぶりを振る。
「安心しろよ。うつるもんじゃない。あたしはよく知ってるんだ」
 どういうことかとシノが訴える。それを見ながら立ち上がり、ナツはシノに手を伸ばす。
「弟が、死んだ病気なんだ。ずっと前に言っただろ。あたしには弟がいて、病気で死んじまったって。あの子の身体にも、同じものがあった」
 おずおずと手を握り、シノが立ちあがった。心配そうに見上げるその頭に手をやる。
「あたしは、助けられなかったんだ。あの子が病気になって、段々弱って死んでいくのを、見てるだけだったんだ……。何もできなかった。大好きで、本当に大切で、たった一人の弟だったのに、少しも幸せにできなかったんだ。だからさ、神様のばちが当たったのかもな」
 その言葉に、シノは大きく首を横に振る。ばちなどではないとシノの優しさが言っている。
「そうだよ、あの子は、あんたみたいに優しい子だった。きっとあたしを恨んだり、憎んだりもしてない。だけど、あたしは、あたしが許せないんだ。この病気で死ねるなら本望だよ。それに、あんたもあたしの弟だ。だからあんただけには、幸せになって欲しいんだよ」
 ナツが体調の異変に気が付いたのは、サーカスにいる最中のことだった。シノが倒れた頃には身体に薄く痣が浮いていて、シノと手を繋ぐことは出来なくなってしまっていた。腕を見せればシノはナツの身体の異常に気が付いてしまい、別れの気配を悟れば、彼は大人しくここまでついてはこなかっただろう。
「治らないよ」
 シノの細い指が、ナツの腕を撫でる。それを見て、ナツはかぶりを振った。
「薬もないのに、治るはずがない。それに、もうだいぶ進んじまってんだ。見えるようになりゃあ、もうおしまいだ。もし薬があったって、治るかもわかんねえ。それに、何よりうちは貧乏だ。あの頃と同じで、薬が買えるわけがない。ただでさえ高いんだからな。だから、もういいんだ。ここまで来られて、あたしは満足だよ」
 大きく目を見開き、ナツの腕に触れるシノの手は、小さく震えている。そうして見えない涙を流す彼の肩に、ナツは持っていた鞄をかけてやった。サーカスでもらったそれは、ナツにとっても少し大きなもので、ナツより小さなシノに合うはずもない。だがそれが落ちないように持たせてやる。
「もう、あたしには必要ないからな。旅に出ることなんてない。全部あんたにあげるよ」
 シノは零せない涙をぼろぼろと零し、諦めきった彼女が言わんとすることに震えている。ナツはもう、旅に出ない。いや、出られない。シノと共に草原を歩くことはないのだ。
「じゃあな」
 ナツはシノの頬を両手で包み、顔を近づけて、最後の別れを告げる。
「ありがとな、シノ。幸せになれよ」
 ナツが手を離すと、シノは膝を折って崩れた。それは、泣けない彼の、最大の悲しみを体現していた。ナツが抱える絶望に、彼は言葉を発するどころか、立つことさえできなかった。力なく地面に膝をつき、呆然とした瞳を見開いて、ナツを見上げるだけだ。
 そんな彼から目を引き剥がし、ナツは踵を返し、足早にその場を去った。すぐそこの角を曲がり、しばらく歩いて、振り返る。向こうに誰もいないことを確かめると、彼女もぺたりとその場に座り込んだ。
 ナツ自身も、限界が近づいているのに気がついていた。シノの前でさえ、何とか気を張り、平気な顔をして歩いていたが、本当は立っているのでさえ辛く目眩がした。あと一日でも遅ければ、こうしてシノを送ることはできなかっただろう。切れる息を整えながら、ナツは自分の腕を見つめた。
「本当に、もう駄目だな……」
 熱が上がってきたのだろう。視界にある、斑点だらけの腕が歪む。身体が重く、ひどく怠い。原因のわからないこの病気にかかってしまったのは、弟の存在も関係があるのかもしれない。そう思うと頬が緩みそうになるが、頼りなく、寂しげに自分を見上げるシノの顔を思い出してしまうと、ナツの表情は歪む。もう会えないのだ、会わないのが一番なのだと自分に言い聞かせるが、喉元に抱く熱さは抜けない。
 せめて振り返らずに、ナツはゆっくりと立ち上がった。振り返ってしまえば、戻れないあの日に自分が走り出してしまう気がしたのだ。それを堪えて進める足取りは、ひどく重たかった。
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