ナツとシノ

柴野日向

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30話 涙

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 そうして薬を五度口にし、更に十日が経った時分には、ナツの体は以前と変わらない調子を取り戻していた。
 一番に、シノに会いに行こう。
 寝床ですっかり痣の引いた腕を眺めながら、ナツは思った。もう明日には、外に出ても体調は崩れないだろう。そうしたら、シノの元へ走っていこう。孤児院の門が開く時間は正確には知らないが、閉まっていれば、開くまで待っていよう。そして、名前を呼ぶのだ。きっとシノは驚く。もう二度と会えない、死んでしまったはずのナツがそこに居るのを目にして、彼は一体どうするだろうか。
 さよならを言ったのが自分であることに、シノに喜んで欲しいと願う自分勝手さに、ナツの心は曇りを覚えてしまう。しかしそれでも、シノに会いたいと思う気持ちは少しも揺るがなかった。例え彼が顔を背けたとしても、捨てたのはナツだろうと拒絶を示したとしても、床に臥せっていた間、一日たりとも忘れることなどなかった彼の顔を、一目見たいとナツは願った。すぐにでも母や姉を手伝い、眠っていた間の恩を返したいとも思うが、それより先に目にしたいのが、シノの姿だった。
 優しい笑顔と、涼やかな歌声と、小さな手のひらと、さらさらの髪と、穏やかなぬくもりと。記憶を辿らずとも、いつだってそれらは傍にある。そして、もうじき手で触れることができる。諦めていた愛おしい全てを待ち望みながら、ナツは久方ぶりに夜明けに胸を躍らせ、目を閉じた。
 しんと静まり返った家の戸が、小さく叩かれる音がした。


 とんとんと、薄い木の板が鳴る。既に日は暮れ、もうじき母や姉が帰ってくる時間だった。布団の中でナツが耳を澄ませていると、再び、遠慮がちな音がした。
 訪ねてくる他人など、ナツには一人も思いつかない。居留守を使おうかとも思ったが、もしかしたら自分の知らない重要な人間かも知れない。そうであれば、帰ってくる母たちに迷惑がかかるだろう。ナツは少しの間思案していたが、心細い音が消えることなく玄関で響くのに、ようやく立ち上がった。しばらく横になっていたおかげでふらつく頭を振り、冷たい床を踏みしめ、簡素な鍵に手をかける。少しの緊張を覚えながら、ナツはゆっくりと扉を開けた。
 部屋の薄明かりが家の外に立ち込める暗闇に線を引く。ぼんやりと照らされる闇の中に、想像したような誰かはいない。ナツは扉を大きく開け放ち、部屋の明かりで外を照らした。
 いたずらかと一瞬考えたが、ほんの少し先の闇が、微かに動いたのが目に入った。よく見ると、地面には汚れた布切れが放られ、その傍に小さな紙袋が置かれている。それを訝しみよくよく目を凝らし、布切れが霞むような呼吸をしているのに、ナツは目を見開いた。おずおずと顔を上げた布の中の彼も、ナツの姿を目にすると、表情いっぱいに驚愕を浮かべた。
「シノ……」
 地面に這いつくばり、両手をついて頭を下げているのは、間違いなくひと月前に別れたはずのシノだった。ぼろぼろの着物を体に巻きつけ、顔を土や垢で汚しているが、共に長い時間を旅してきたナツには、それが彼であることを直ぐ様確信した。
「どうして……。あんた、孤児院にいるんじゃ、なかったのか……」
 驚きのあまり、声が掠れてしまう。それを振り絞りながら、ナツは一歩足を踏み出した。薄闇の中でシノもナツを見上げながら、よろよろと膝を立てた。
 ナツ、と呼ぶのが聞こえる。声を出せない彼が、痩せっぽちの体から、懸命に、祈るように叫んでいる。
「逃げ出したのか……?」
 ナツの言葉に、シノがこくりと頷いた。
「どうして、そんなこと」
 台詞を言い切る前に、シノが飛びついた。枯れ枝のような腕を精一杯伸ばし、勢いよく駆けてきた彼を、ナツは抱きとめた。シノは、強く、強く腕に力を入れ、抱きついてくる。
 懐かしい温もり。死を覚悟するとともに、諦めていた体温。傍にいるべきではないと、彼の幸福には決して繋がらないのだと、わざと突き放したはずの愛しい存在。それは今、ここにいる。
 シノは、諦めたくなかった。諦めなかった。弱い彼は、幼い力を振り絞って、ぼろ布のように汚れてしまいながらも、こうして会いに来たのだ。
 熱いものがこみ上げてくるのを何とか堪えながら、顔を上げたナツは、それに気がついた。地面に額を擦りつけていた彼の傍ら。置かれた小さな紙袋には、見覚えがある。
 手繰り寄せた記憶の中身に気がつくと、ナツの声は震えてしまう。
「あんただったのか……」
 看病をする母や姉が手にしていたのは、確かにそれだったのだ。
「薬をくれてたのは、シノだったのか……!」
 熱が喉からこぼれ落ちた。彼らは、そこにあるのと同じ袋から薬を出して、自分に飲ませてくれた。だが、今それを手にして家にやってきたのは、まさに腕の中にいるシノだった。
 彼は、決して諦めなかった。ナツに生きていて欲しかった。どれほど突き放されようとも、辛い別れを告げられようとも、背を向けて振り返ってもらえなくとも、ナツが大好きだった。別れたくない、大事な、かけがえのない家族だったのだ。
 その想いが痛いほど胸に流れ込むと、ナツの頬を涙が伝った。こみ上げる熱が、抑えきれずに溢れ出した。これほどまでに自分を愛してくれる存在があることに、それが自分を生かしてくれていることに、計り知れない幸福を感じた。
「ありがとうな……。本当に、ありがとう……。あたしは、もう大丈夫だ。あんたのおかげで、良くなったよ。死ななくて済んだんだ。シノのおかげで、あたしは助かったんだ」
 頬に頬を寄せる。幾度も抱きしめた命を、ナツは再び抱きしめる。そうして、気が付いた。
 頬を雫が零れ落ちる。自分のものではない、熱い想いが流れていく。その顔を見て、ナツは泣きながら笑った。
「なんだ、シノ。あんた、泣けるんじゃねえか」
 涙を忘れていたはずの彼は、泣いていた。親も兄姉も皆殺しにされた絶望の夜から、声とともに失っていたはずの涙を、彼は濡れた瞳から零していた。それが、シノの心がこれまでになく声を上げている何よりの証拠だった。
 ナツがシノの逃亡を知らなかったように、シノもナツの様子を知ることはなかった。だから今夜も、すっかりナツがよくなったことを知らずに、薬を運んできたのだろう。顔を見ることすら出来ないまま、ひたすら薬を届け続けた彼がどれだけ安堵しているかを思うと、その涙を無理に止める気など、ナツには起こらなかった。
 だが、シノから薬を受け取っていたはずの母や姉は、何故黙っていたのか。これほどまでに彼が心配しているナツの様子を、伝えなかったのか。もう薬など必要ないことを、彼らはシノに伝えるべきではなかったのか。それ以前に、どうしてシノは、決して安くない薬を手に入れ、運ぶことができたのか。
 ナツは、シノを優しく抱きしめたまま、ゆっくりと顔を上げた。家の前に立ち尽くし、何も言えずにいる母親を見上げた。
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