ナツとシノ

柴野日向

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33話 響く、声

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 今度は自分が働く番だとナツはシノに言い聞かせたが、彼は頑として譲らずに着いてきた。自分を歓迎しない家に一人でいる方がずっと心細いだろうと、ナツもそれ以上は拒まなかった。遠い場所で嘗て教わった裁縫で、家に残っていた弟の服を継ぎ剥ぎして一対の服を与えると、シノはようやく、泥にまみれた服を脱ぐことができた。
 何でもすると、ナツはあちこちの家を渡り歩き、シノと共に働いた。荷物を運び、雑草を抜いた。水を汲んでは犬を散歩させ、僅かな手間賃を得ては、全てを母と姉に渡した。シノが助けた彼女の体はその労働に耐え得るだけの力を取り戻しており、ひと月の恩だけでも返そうと懸命になるナツに、シノも常に寄り添い同じように働いた。
 そうして短い休憩の時間、道端で乏しい昼食を終えると、シノはナツの傍らに立ち、喉から不器用な音を零した。それは、サーカスにいたときの旋律がまるで嘘のような、夢だったのかと思わせるような途切れ途切れの声だったが、ナツは止めなかった。あの頃のように、唄い終えると再び声を出さなくなるシノの頭を撫で、いつもの通り労いの言葉をかけ、頑張り過ぎるなよと笑いかけた。行き交う誰彼には、その耳障りな声を出させるなと、心無い言葉を投げつける者もいたが、そうすれば時を変え場所を変え、シノは唄い続けた。
 ナツの横で、シノの声は、次第に繋がり始めた。美しい宝石に層をつくりこびりついた泥が、日毎に剥がれていくように、彼の音はやがて唄となった。水の流れるような滑らかさを取り戻し、幼い少年の声は、風に溶け始めた。
 二人きりの場所で、彼は唄った。流水のような歌声に、段々と子どもたちが集まり始めた。するとそれを見ていた大人たちも聞き入り、道を歩く者は足を止めた。
 シノは、唄うことが好きだった。耳にした誰かが、笑ってくれるのが好きだった。
 いつしか、彼の好きな笑顔が咲き始めた。大好きなナツの隣で、シノは嘗て村々を巡り、多くの人に聴かせ続けた唄を語り、老若男女様々な人々の笑顔を作るようになった。自然と湧き出す拍手を受け、幸せそうに笑う彼に、もう文句を言う人間など誰ひとりとして存在しなかった。
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