ナツとシノ

柴野日向

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34話 思い出の炎

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 人々の寝静まった穏やかな夜。街の外れ、木々に囲まれた夜の真下で、小さな焚き火が闇を和らげる。どこからか響く犬の遠吠えが、火の爆ぜる音に溶けていく。
 瞳に赤い炎を映しながら、ナツとシノは並んで寄り添い、座っていた。
「きっともう、戻らないよな」
 悲しみのない声で呟くナツを、シノが見上げる。
「帰る場所なんて、どこにもないんだよな」
 彼の瞳を見下ろし、ナツは小さく笑う。
「だけど、なんでだろな、寂しくなんてないんだ。あたしの居場所はどこか、分かっちまったからさ」
 シノの細い指が、ナツの腕をぎゅっと握り締める。分かっている。互いの隣が、自分の居場所なのだ。
「母さんたちのことは、何があっても嫌いになんてなれない。多分、一生ならないだろうな、家族なんだしさ。だけどあたしは、もう決めたよ。何が大事なのか、何を一番守るべきなのか、やっと気づけたんだ」
 腕を回して抱き寄せたシノの髪を、ナツはさらさらと指で梳く。一番傍に居たい温もりを感じる。
「あたし、自分がこんなに弱い人間だなんて、知らなかったよ。あたしの喋り方、変だろ、男みたいだろ。うちはさ、貧乏なのに、あたしも弟も生まれてさ。だからあたしだけでも強くなれって、こうやって教えられたんだ。可笑しいだろ、弟もいたのにさ、あたしだけなんて」
 微かにナツは笑い、指先にシノの髪を流す。
「あの子はあんたみたいに、気弱で優しかったからな。あたしの性格は、元々こんなだったし、当然なんだろうけどさ。……強くなれって、ナツだけは強く生きろって言われて、それであたしも、強くなったつもりだった。そこらで家族仲良く飯食って、温かい風呂に入って、柔らかい布団で寝てるような奴らより、ずっと強いって思ってた。だけどさ、あんたは教えてくれたよ。あたしがほんとは、ただの弱い子どもだってことをさ。それまで、怖いことなんてなかったはずなのに、今はもう、もしもシノがいなくなったらとか、傷ついて辛い目に遭ってるんじゃないかって少しでも考えると、苦しくってたまんないんだ」
 自分より大切な誰かがいる。その誰かのために弱くなってしまう。そして、それは何より自分を強くしてくれる。
「あたし、あんたに酷いこと言ったよな。首輪が外れたとき、黙って倒れるあんたなんて、大嫌いだって。好きにしちまえって……。あたしのためにしてくれたってことは、分かってた。だけど、あんたが傷つくのが、何より嫌だったんだ。……教えて欲しかった、一人で全部抱えて欲しくなかった。それに気づけなかった自分が、悔しくて、情けなくってたまらなかった。その上、あたしはもう、あんたとは長くいられない。それで離れて欲しくって、あんなこと言ったんだ。ごめんな」
 ナツとシノは、互いを大事に想いすぎるぐらいに想っている。相手が傷つくことに過剰に怯え、不器用に突き放してしまう。
 謝るナツの腕の中で、シノは首を横に振る。彼は情けなく顔を歪め、ナツと同じように、ごめんねと言っている。その優しさは、どんな言葉にも代えられない。
「ありがとな……。悲しいこととか、辛いこととか、絶対これからもあるよな。ないわけがないよな。あたしはきっと、一人じゃ耐えられない。……だからさ、シノ、一緒にいてくれ。あんたと一緒なら、あたしはずっと強くいられるんだ。諦めないで、もう一回、立って歩けるんだ」
 赤々と燃える焚き火の炎に照らされるシノの瞳は、いつものように澄み切り、ナツを真っ直ぐに映す黒い水面のように濡れている。涙は流れていないのに、泣いているように潤む瞳で、シノは大きく頷く。ナツは笑う。それを見て、シノも嬉しそうに笑う。温かい、失ったはずの温もり。
 ナツは家族に売られた時から、シノは家族を殺された時から、永遠に奪われていたはずのもの。
 さよならなど言わない。もう一度手にすることの出来た誰かの体温は、二度と手放さない。諦めない。奪われない。失くさない。離さない。
「……色々あったよな」
 シノの体から腕を解き、ナツは立ち上がった。
「あたしは、誰のことも忘れないよ。優しかった人も、残酷な人も、生きてる限り覚えてる。思い出なんて、綺麗な言葉に収まらないことの方が多いけどさ……。全部の思い出を、あたしは忘れないよ」
 うんと頷き、シノも立ち上がった。
 失うのではない、消えてしまうこともない。それらは全てそこにある。自分の中で、光を持って燃えている。ある一つが見とれるような美しい炎であれば、他の一つは、今にも消えてしまいそうに澱んだ光をかろうじて放つ。涙が出そうに愛おしい記憶もあれば、欠片に触れるだけで動けなくなる恐怖さえもある。
 その全てを、忘れないでいられる。二人でならば、この強さがあれば、全てを抱いて生きていける。
 ナツは、地面に置いていた布を拾って抱えた。穴だらけの汚れたそれは、遠い地で老人たちにもらった服であり、その裾に縫い付けている赤い布は、彼らの優しさの塊だった。自分たちが少しでも普通の子どもに近づけるように施してくれた、胸の詰まるような温もりだ。
 シノも、腕に巻いていた布をゆっくりと解いた。元の色が殆ど見えなくなってしまった青色のスカーフは、あちこち綻び、今ではかろうじて形を保っている存在だ。だが彼は、これまでかた時もそれを手放したことはなかった。サーカスで新しい衣装を着せられても、彼は見えない場所にそれをくくりつけ、肌身離さず持ち歩いていた。
「燃やそう。全部。忘れないから、大丈夫だ」
 思い出で、夜空を焦がそう。嘗て触れた優しさも、苦しみも、一緒に炎にくべよう。大丈夫、それらが消えてしまっても、それらがあったという記憶は、決して消えることはないから。
 そうして二人は、手を離した。
 パチパチと音を立てて、焚き火が一層強く背を伸ばす。それを並んで二人は見つめる。
 輝く炎に包まれる記憶は、記憶が燃やす炎は、息を呑むほど、呼吸を忘れそうになるほど、煌めいている。

 思い出は、美しい。その中身がどのようなものであろうとも、命を燃やして歩んできた道程は、笑い泣きながらも、日が昇り沈む毎日を焦がして進んできた命の記憶は、この世の何よりも力強く、そして儚く、夜の中に燃えていく。

 たくさんの記憶が蘇る。静かに燃える炎の中に映るそれを見つめていると、胸が詰まり、あまりの輝きに目がくらむ。そうして腕を当て、目をこすり、自分が涙をこぼしていることに、ナツは気がついた。胸が苦しい、しかしそこに悲しみはない。思い出が与えてくれる切なさに、その美しさに、熱いものがこみ上げる。
 目をやると、隣にいるシノも、瞳を潤ませこちらを見上げていた。炎を映して溢れる彼の涙を、ナツは笑って拭ってやった。
「もう一度、歩こうぜ。今度はもっと遠くに行こう。誰もあたしたちを知らないところに、一緒に行こう」
 話せない彼は、愛くるしい表情で、にっこりと笑う。そうして、話せないシノの声が聞こえる。一緒にいたいと言う。ナツが大好きなのだと、決して離れはしないのだと、ナツの想いに応えている。
 赤々と燃える思い出を、固く手を繋いで、ナツとシノは見つめ続けた。消えることのない記憶の傍らで、何よりも愛しい温もりを、握り締めていた。
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