青白の覚醒 〜影を超えし者〜

相野リキ

文字の大きさ
1 / 15

第一話 首の長い女

しおりを挟む
俺の名前は佐伯涼介。三十五歳。
会社員、独身、趣味は特にない。
この三つを並べるだけで、俺という人間の輪郭はほぼ出来上がってしまう。
大学を出て、何となく就職して、十数年。
順調といえば順調、退屈といえば退屈。
結婚もせず、子供もいない。友人関係も希薄だ。
「普通」の中に埋もれ、波風立てずに生きてきた。
──本当は、俺自身も知っている。
俺はただ「空っぽ」なだけだ。

その日も、残業帰りだった。
夜の十一時をとうに過ぎ、オフィスから吐き出された人間はまばらになっている。
同僚たちの半数は飲みに行ったらしいが、俺は誘われもしなかったし、こちらから顔を出す気にもならなかった。
駅の自動改札を抜けると、湿った夜風が顔を撫でた。
梅雨の気配を孕んだ空気は重く、街灯の光を鈍く滲ませている。
スーツのシャツは汗で少し肌に貼り付き、不快感が増していた。
家までの道のりは徒歩十五分。
大通りを避け、近道の細い路地を歩くのがいつもの習慣だ。
人通りが少ない分だけ静かで、俺には居心地が良かった。
イヤホンからはラジオ番組の軽口が流れている。
人気タレントのくだらない話題に、俺は笑いもせず、ただ耳を通過させていた。
何を聞いても心に引っかからない。
俺の中にあるのは、日々の繰り返しに慣れすぎた虚ろさだけだ。
ふと、路地に入ったところで足が止まる。
──暗い。
一本だけあるはずの街灯が、切れていた。
昨日までは灯っていたはずなのに。
路地の奥は闇に沈み、昼間の景色を知っていなければ足を踏み入れるのをためらうほどだった。
それでも俺は歩き出す。
「暗い」だけでは、足を止める理由にならない。
ただの帰り道だ。怖がる年でもない。
……そのときだった。

先の暗がりに、誰かが立っていた。
女だ、と直感する。
街灯の手前、わずかな光の縁に浮かび上がったシルエット。
肩まで伸びた髪。浴衣のようにも見える服。
夜風に揺れて、かすかに影が踊っていた。
「……」
不審に思いながらも、俺は歩みを止めなかった。
こんな時間に、こんな場所に。
ただそれだけの違和感だった。
だが、すぐに気づいた。
──おかしい、と。
女の顔の位置が、高すぎる。
俺の視線は自然と上へ引き上げられる。
背が高いのではない。
首が、長いのだ。
二メートル、三メートル……暗がりから伸びる首は蛇のようにくねり、街灯の明かりを切り裂いていた。
その先に、白い顔があった。
笑っていた。
「……は?」
自分の声が間の抜けた響きを持って耳に返る。
疲れすぎて幻覚でも見たのか、と本能的に思った。
だが、次の瞬間。
首が、動いた。
くねる。しなやかに、柔らかく、俺に向かって伸びてくる。
ぞわりと鳥肌が立った。
「見えるのか?」
女の唇が動いた。
湿った声が、路地の闇に広がる。
俺の耳元に、確かに届いた。
体が凍りついた。
息が詰まる。喉が塞がり、心臓が暴れるように脈打つ。
逃げなきゃと思うのに、足が動かない。
女の顔が俺に近づく。
首が蛇のように絡み、俺の肩を撫でる。
湿った吐息が頬をかすめた。
「……空っぽだな」
女の瞳が、俺を覗き込む。
底なしの井戸のような暗さがそこにあった。
ぞくりと背筋を走る寒気。
誰かが囁いた。
いや、違う。
俺の心そのものがそう告げたのかもしれない。
──ああ、俺は空っぽだ。
世界が凍りついたように静まり返る。
ラジオの声も、遠ざかっていた。
聞こえるのは自分の心臓の音だけ。
女は笑う。
喉の奥でかすれた音を響かせながら。
その笑みは、俺という人間の虚ろさを見抜き、嘲笑うものだった。
気づけば、俺はただ立ち尽くしていた。
声も出せず、逃げることもできず。
人でもなく、幽霊でもなく──妖怪としか呼べない存在に、絡め取られていた。
そして確信した。
俺は、視えてしまった。
人が本来、決して見るはずのないものを。

その夜、俺の「空っぽな人生」は終わったのだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

悪役令息、前世の記憶により悪評が嵩んで死ぬことを悟り教会に出家しに行った結果、最強の聖騎士になり伝説になる

竜頭蛇
ファンタジー
ある日、前世の記憶を思い出したシド・カマッセイはこの世界がギャルゲー「ヒロイックキングダム」の世界であり、自分がギャルゲの悪役令息であると理解する。 評判が悪すぎて破滅する運命にあるが父親が毒親でシドの悪評を広げたり、関係を作ったものには危害を加えるので現状では何をやっても悪評に繋がるを悟り、家との関係を断って出家をすることを決意する。 身を寄せた教会で働くうちに評判が上がりすぎて、聖女や信者から崇められたり、女神から一目置かれ、やがて最強の聖騎士となり、伝説となる物語。

どうやらお前、死んだらしいぞ? ~変わり者令嬢は父親に報復する~

野菜ばたけ@既刊5冊📚好評発売中!
ファンタジー
「ビクティー・シークランドは、どうやら死んでしまったらしいぞ?」 「はぁ? 殿下、アンタついに頭沸いた?」  私は思わずそう言った。  だって仕方がないじゃない、普通にビックリしたんだから。  ***  私、ビクティー・シークランドは少し変わった令嬢だ。  お世辞にも淑女然としているとは言えず、男が好む政治事に興味を持ってる。  だから父からも煙たがられているのは自覚があった。  しかしある日、殺されそうになった事で彼女は決める。  「必ず仕返ししてやろう」って。  そんな令嬢の人望と理性に支えられた大勝負をご覧あれ。

完結 潔癖のリコリス

音爽(ネソウ)
ファンタジー
その出会いは奇跡だった 幼い盲目の少女は得体の知れない生命体と出会う。そして……

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

聖女を追放した国は、私が祈らなくなった理由を最後まで知りませんでした

藤原遊
ファンタジー
この国では、人の悪意や欲望、嘘が積み重なると 土地を蝕む邪気となって現れる。 それを祈りによって浄化してきたのが、聖女である私だった。 派手な奇跡は起こらない。 けれど、私が祈るたびに国は荒廃を免れてきた。 ――その役目を、誰一人として理解しないまま。 奇跡が少なくなった。 役に立たない聖女はいらない。 そう言われ、私は静かに国を追放された。 もう、祈る理由はない。 邪気を生み出す原因に目を向けず、 後始末だけを押し付ける国を守る理由も。 聖女がいなくなった国で、 少しずつ異変が起こり始める。 けれど彼らは、最後まで気づかなかった。 私がなぜ祈らなくなったのかを。

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

処刑台の皇妃、回帰して復讐を誓う ~冷酷公爵と偽りの婚約者~ おまえたちは許さない!

秦江湖
ファンタジー
皇妃エリアーナは、夫である皇帝アランと、たった一人の親友イザベラの策略により、無実の罪で処刑される。 民衆に罵られ、アランの冷酷な目とイザベラの嘲笑を「始まりの景色」として目に焼き付けながら絶命した彼女は、しかし、処刑の記憶を持ったまま三年前の過去に回帰する。 「おまえたちは許さない」 二度目の人生。 エリアーナの目的はただ一つ、自分を陥れた二人への完璧な復讐。 彼女はまず、アラン(皇太子)からの婚約内示を拒絶。そして、アラン最大の政敵である「北の冷血公爵」ルシアン・ヴァレリウスに接触する。 1周目で得た「未来の知識」を対価に、エリアーナはルシアンに持ちかける。 「貴方様には帝国の覇権を。わたくしには復讐の舞台を。そのための『契約婚約』を――」 憎悪を糧に生きる皇妃と、氷の瞳を持つ公爵。 二人の偽りの婚約の行く末は……

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

処理中です...