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第一話 首の長い女
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俺の名前は佐伯涼介。三十五歳。
会社員、独身、趣味は特にない。
この三つを並べるだけで、俺という人間の輪郭はほぼ出来上がってしまう。
大学を出て、何となく就職して、十数年。 順調といえば順調、退屈といえば退屈。 結婚もせず、子供もいない。友人関係も希薄だ。 「普通」の中に埋もれ、波風立てずに生きてきた。
──本当は、俺自身も知っている。 俺はただ「空っぽ」なだけだ。
その日も、残業帰りだった。 夜の十一時をとうに過ぎ、オフィスから吐き出された人間はまばらになっている。 同僚たちの半数は飲みに行ったらしいが、俺は誘われもしなかったし、こちらから顔を出す気にもならなかった。
駅の自動改札を抜けると、湿った夜風が顔を撫でた。 梅雨の気配を孕んだ空気は重く、街灯の光を鈍く滲ませている。 スーツのシャツは汗で少し肌に貼り付き、不快感が増していた。
家までの道のりは徒歩十五分。 大通りを避け、近道の細い路地を歩くのがいつもの習慣だ。 人通りが少ない分だけ静かで、俺には居心地が良かった。
イヤホンからはラジオ番組の軽口が流れている。 人気タレントのくだらない話題に、俺は笑いもせず、ただ耳を通過させていた。 何を聞いても心に引っかからない。 俺の中にあるのは、日々の繰り返しに慣れすぎた虚ろさだけだ。
ふと、路地に入ったところで足が止まる。
──暗い。
一本だけあるはずの街灯が、切れていた。 昨日までは灯っていたはずなのに。 路地の奥は闇に沈み、昼間の景色を知っていなければ足を踏み入れるのをためらうほどだった。
それでも俺は歩き出す。 「暗い」だけでは、足を止める理由にならない。 ただの帰り道だ。怖がる年でもない。
……そのときだった。
先の暗がりに、誰かが立っていた。
女だ、と直感する。 街灯の手前、わずかな光の縁に浮かび上がったシルエット。 肩まで伸びた髪。浴衣のようにも見える服。 夜風に揺れて、かすかに影が踊っていた。
「……」
不審に思いながらも、俺は歩みを止めなかった。 こんな時間に、こんな場所に。 ただそれだけの違和感だった。
だが、すぐに気づいた。 ──おかしい、と。
女の顔の位置が、高すぎる。
俺の視線は自然と上へ引き上げられる。 背が高いのではない。 首が、長いのだ。
二メートル、三メートル……暗がりから伸びる首は蛇のようにくねり、街灯の明かりを切り裂いていた。 その先に、白い顔があった。 笑っていた。
「……は?」
自分の声が間の抜けた響きを持って耳に返る。 疲れすぎて幻覚でも見たのか、と本能的に思った。 だが、次の瞬間。
首が、動いた。 くねる。しなやかに、柔らかく、俺に向かって伸びてくる。 ぞわりと鳥肌が立った。
「見えるのか?」
女の唇が動いた。 湿った声が、路地の闇に広がる。 俺の耳元に、確かに届いた。
体が凍りついた。 息が詰まる。喉が塞がり、心臓が暴れるように脈打つ。 逃げなきゃと思うのに、足が動かない。
女の顔が俺に近づく。 首が蛇のように絡み、俺の肩を撫でる。 湿った吐息が頬をかすめた。
「……空っぽだな」
女の瞳が、俺を覗き込む。 底なしの井戸のような暗さがそこにあった。 ぞくりと背筋を走る寒気。
誰かが囁いた。 いや、違う。 俺の心そのものがそう告げたのかもしれない。
──ああ、俺は空っぽだ。
世界が凍りついたように静まり返る。 ラジオの声も、遠ざかっていた。 聞こえるのは自分の心臓の音だけ。
女は笑う。 喉の奥でかすれた音を響かせながら。 その笑みは、俺という人間の虚ろさを見抜き、嘲笑うものだった。
気づけば、俺はただ立ち尽くしていた。 声も出せず、逃げることもできず。 人でもなく、幽霊でもなく──妖怪としか呼べない存在に、絡め取られていた。
そして確信した。
俺は、視えてしまった。 人が本来、決して見るはずのないものを。
その夜、俺の「空っぽな人生」は終わったのだ。
大学を出て、何となく就職して、十数年。 順調といえば順調、退屈といえば退屈。 結婚もせず、子供もいない。友人関係も希薄だ。 「普通」の中に埋もれ、波風立てずに生きてきた。
──本当は、俺自身も知っている。 俺はただ「空っぽ」なだけだ。
その日も、残業帰りだった。 夜の十一時をとうに過ぎ、オフィスから吐き出された人間はまばらになっている。 同僚たちの半数は飲みに行ったらしいが、俺は誘われもしなかったし、こちらから顔を出す気にもならなかった。
駅の自動改札を抜けると、湿った夜風が顔を撫でた。 梅雨の気配を孕んだ空気は重く、街灯の光を鈍く滲ませている。 スーツのシャツは汗で少し肌に貼り付き、不快感が増していた。
家までの道のりは徒歩十五分。 大通りを避け、近道の細い路地を歩くのがいつもの習慣だ。 人通りが少ない分だけ静かで、俺には居心地が良かった。
イヤホンからはラジオ番組の軽口が流れている。 人気タレントのくだらない話題に、俺は笑いもせず、ただ耳を通過させていた。 何を聞いても心に引っかからない。 俺の中にあるのは、日々の繰り返しに慣れすぎた虚ろさだけだ。
ふと、路地に入ったところで足が止まる。
──暗い。
一本だけあるはずの街灯が、切れていた。 昨日までは灯っていたはずなのに。 路地の奥は闇に沈み、昼間の景色を知っていなければ足を踏み入れるのをためらうほどだった。
それでも俺は歩き出す。 「暗い」だけでは、足を止める理由にならない。 ただの帰り道だ。怖がる年でもない。
……そのときだった。
先の暗がりに、誰かが立っていた。
女だ、と直感する。 街灯の手前、わずかな光の縁に浮かび上がったシルエット。 肩まで伸びた髪。浴衣のようにも見える服。 夜風に揺れて、かすかに影が踊っていた。
「……」
不審に思いながらも、俺は歩みを止めなかった。 こんな時間に、こんな場所に。 ただそれだけの違和感だった。
だが、すぐに気づいた。 ──おかしい、と。
女の顔の位置が、高すぎる。
俺の視線は自然と上へ引き上げられる。 背が高いのではない。 首が、長いのだ。
二メートル、三メートル……暗がりから伸びる首は蛇のようにくねり、街灯の明かりを切り裂いていた。 その先に、白い顔があった。 笑っていた。
「……は?」
自分の声が間の抜けた響きを持って耳に返る。 疲れすぎて幻覚でも見たのか、と本能的に思った。 だが、次の瞬間。
首が、動いた。 くねる。しなやかに、柔らかく、俺に向かって伸びてくる。 ぞわりと鳥肌が立った。
「見えるのか?」
女の唇が動いた。 湿った声が、路地の闇に広がる。 俺の耳元に、確かに届いた。
体が凍りついた。 息が詰まる。喉が塞がり、心臓が暴れるように脈打つ。 逃げなきゃと思うのに、足が動かない。
女の顔が俺に近づく。 首が蛇のように絡み、俺の肩を撫でる。 湿った吐息が頬をかすめた。
「……空っぽだな」
女の瞳が、俺を覗き込む。 底なしの井戸のような暗さがそこにあった。 ぞくりと背筋を走る寒気。
誰かが囁いた。 いや、違う。 俺の心そのものがそう告げたのかもしれない。
──ああ、俺は空っぽだ。
世界が凍りついたように静まり返る。 ラジオの声も、遠ざかっていた。 聞こえるのは自分の心臓の音だけ。
女は笑う。 喉の奥でかすれた音を響かせながら。 その笑みは、俺という人間の虚ろさを見抜き、嘲笑うものだった。
気づけば、俺はただ立ち尽くしていた。 声も出せず、逃げることもできず。 人でもなく、幽霊でもなく──妖怪としか呼べない存在に、絡め取られていた。
そして確信した。
俺は、視えてしまった。 人が本来、決して見るはずのないものを。
その夜、俺の「空っぽな人生」は終わったのだ。
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