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第2章 重なる不運は訝しく

08話

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「ふぁ……」

 翌朝、岬は大きな欠伸を手で覆った。
 月に一度訪れる、とてつもない眠気と記憶の喪失。例によって朝日が疎ましく、昨晩の記憶はすっぽり抜けていた。

「なんだ、眠いのか」

 珍しく羽織を纏っていない厘に、岬はコクリと頷く。彼は、思っていたよりも線が細かった。この体で自分を軽々抱えられるのか、と一瞬見紛った。

「すごく眠くて……あと昨日の夜のこと、また・・思い出せないの」

 せっかくの朝ご飯。しかし、食べる体力が空腹に追いつかない。月経はまだ先のはずだけど……、と視線を落としながら、岬は出汁巻き玉子を頬張った。

「昨日か。お前は帰ってすぐに眠っていたぞ。夕飯も食べずにな」

 厘は涼しげに言った。

「そっか……」

「それより、頬に違和感はないか?」

「え……頬?」

「……いや、なんでもない」

 どうしたのだろう。不自然に視線を逸らす厘に首を傾げる。そんな彼の横顔を見るのさえ、懐かしく感じられた。

「それと、ものは相談なんだが」

 しかし、瞬時に距離を詰めてくる様子は、最近も味わったような気がしてくる。言葉では説明がつかない感覚だった。

「相談?」

 岬はもう一度出そうになった欠伸を堪え、復唱した。

「お前が摂り込む精気のことだ」

「あ……え、うん」

 それって、確か厘と……。岬は、脳裏に浮かんだ情景を振り払った。

「恐らくまた、時を見て口づけをする必要がある。それで……お前は目が覚めている時と覚めていない時、どちらがいい」

「え……」

「あれだ……年頃の娘というのは、行為に敏感なのだろう。だから、一応聞いておこうと思っただけだ」

 視線だけでなく顔を背けた厘。“行為” に重きを置かれた台詞に、岬はいよいよ紅潮した。せっかく振り払ったばかりなのに、また蘇ってしまう。無自覚だろうが、厘はとてつもなく意地悪だ。

「どちらがいい」

 早く言え、と言わんばかり。流し目で捉えられる視線に、心臓がドキリと跳ねる。岬はしばらく逡巡し、ようやく唇を割った。

「覚めているとき……の方が、いいかな」

「そうか」

 記憶があやふやなうちにキスを済まされるよりも、自覚があった方がいい。

 ———『行為に敏感なのだろう』

 その言葉に煽られ、働かせてしまった思考に(本当にこれで良かったのかな……)と今更過る。タイミングを意識せざるを得なくなり、彼の唇に視線がいくのを抑えられなかった。
 どうせなら「この日にする」と宣言してくれた方が、心の準備もできて幾分か楽なのに。……でも、日が近づくにつれて緊張感が増してしまうのも確か。それに、精気を送り込むべきタイミングを、厘は図っていたりするのだろうか。


 それから数日間、岬は心の内で出口の見えない思考を巡らせていた。薄く艶やかな彼の唇を垣間見ながら、巡らせた。

『気を付けなさい、岬。あいつ絶対にむっつりよ』

「むっ……!?」

 心の内で留めていたはずなのに、みさ緒からの警告も増えていた。

「どうした岬」

「う、ううん!なんでもない……」

『ほら、すぐあなたを気に掛けるでしょう?ここぞ、ってときを狙ってるのよ、絶対』

 眉を顰めて怪しむ厘に、揶揄を含んで笑うみさ緒。慌てふためく岬———三者三様の日常がしばらく続いていた。同じくして、ここ最近続いているアンラッキーも収まる兆しは無かったけれど、

「本当、お前は危なっかしい」

「ごめん……ありがとう、厘」

『わざわざ抱えなくてもいいでしょう?やっぱりあなた、むっつりね』

「ああ?」

 どこに居ても、厘が助けてくれた。細身ながらも骨ばった腕と大きな手のぬくもりに、胸が強く締まるのを自覚していた。原因不明の熱に絆されながら、みさ緒と厘の掛け合いを聞いていると、笑みが溢れた。

 みさ緒が憑いている体にすっかり馴染んで、すっかり、忘れていた。

「岬、今夜は満月だ」

「満月……」

 みさ緒との別れが、近づいているということ———そして、自分の精気がすり減っていることに気づかない位、過ごす日々は幸せに満ちていた。
 十月半ば、月齢は十五。その夜、岬はふらつく身体を居間に横たえ、傍に厘の気配を感じていた。

「みさ緒。何か最後に思い残すことはないか」

 低く、それでいて艶のある声。少しぼやけた視界の中で、厘は岬の額に五指を添えた。触れることのできないみさ緒に当てられた体温だと、すぐに分かった。……やっぱり、厘は優しい。

『ないわ。結局最後まで居座っちゃったしね』

「ああ……本当に厄介だった、お前らは」

『岬は悪くないでしょう?まぁ、鈍くさいところはあるけれど』

 あれ、私……何か言われてる?鈍くさいって、私の事かな。岬は普段より重たい身体を起こしながら、首をかしげる。

「おい、無理に起こすな」

「大丈夫だよ。最後くらい、私もしっかり見送りたいし」

 厘は盛大にため息をついた。

『あ。でも私、黄泉へ行く予定はないからね。呼ばれているけど、まだまだこの世には未練があるし』

「迷惑なことだ」

『なによ、いいでしょ別に。生きてる間ずぅっと孤独だったんだから』

 孤独———聞いた岬は、厘を模して自分の額に触れる。姿形は見えないけれど、不思議と彼女なかの体温と通じ合っているように感じた。

『岬……?』

 証拠に、みさ緒の声が少し震えている。ちゃんと伝わっている、と信じたい。岬は笑みを零した。

「私もね。ある日突然居場所を失って、孤独になって……ぽっかり穴が開いたみたいで、ずっと虚しかった」

『それは、母親のこと?』

「え……知ってたんだ」

 ンッンンッ。正面から聞こえる咳払い。厘がこちらを睨み見ていた。みさ緒を見ていた。

『……うん、まぁ……同じ霊魂だしね』

「そっか」

『それで?虚しかった、ってことは、今は違うの?』

 まだ睨みを利かせている厘を見据えながら、岬は小さく頷いた。

「お母さんは、もうひとつ残してくれていたの。私の居場所を」

 まさか、二人で育てていた鈴蘭の花———妖花がその居場所になるなんて、最初は思いもしなかったけれど。

「それに……」

『なァに?』

「みさ緒や他の霊魂たちの居場所に、私自身がなれるんだって、気づいたの」

 額に当てていた手が無意識に、力なく下りる。そろそろ体力が尽きてきた。一か月前に感じた死期にはまだ遠いけれど、たぶんもうすぐ———

「ねぇ……みさ緒」

 振り絞った声はすり減った体力のせいか、それとも涙のせいか、少し震えていた。

「私、少しは……少しでもみさ緒の心の穴、埋められたかな」

 力の緩んだ身体。後ろへ倒れそうになった上半身を、厘の腕が抱きとめる。下から見上げた彼は、鮮やかな唇を結んでいた。

『何言ってるの……当たり前でしょ』

 また、震えている。彼女の言葉に、岬は安堵した。

『あんなに迷惑かけたのに。私、自分の快楽しか考えてなかったのに……本当、どれだけお人好しよ』

 続く言葉の意味は、いくら考えても分からない。しかしそれを問う体力も、時間も残されていないことは分かっていた。

「声だけじゃなくて……顔も、ワンピースも、見てみたかったなぁ」

 生暖かい水滴が頬を伝う。瞬間、岬の身体は微量の重さと気配を失った。

「岬。もうあいつは行ったぞ」

「……———」


 さようなら、またね。どちらの言葉も告げずに去った彼女の体温が、愛おしかった。

 ———ねぇ、みさ緒。もう声は聴けなくなってしまうけど、きっと、また会えるよね。そう……たとえば、私がこの世を去る時には。

「また、変なことを考えていないだろうな」

「……うん。何も」

 でも、御免なさい。それはもう少し先の事になりそうだ。

「息、止めるなよ」

 約束通り・・・・。岬は意識を保ったまま、ゆっくりと目を閉じる。徐々に近づく清廉な気配と香りに(あぁ、やっぱり……目が覚めていない時のほうが、よかったかも)と、心臓が喚いていた。

「ん……」

 上から被さる柔い唇。隙間から注ぎ込まれる、温かい気流。

「あと少し、我慢しろ」

 身体を支えてくれている腕も、唇の体温も、緊張の糸を解すように巡る精気が、心地良さに変えていく。

「……はい」

 満月の夜。濡れた頬を拭う掌に安堵しながら、岬は身体を委ねた。
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