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第2章 重なる不運は訝しく
07話
しおりを挟む新月の夜。日が沈んでから、すでに二時間以上が経過している最中、厘は腕組みながら無言で岬の身体と向かい合う。昼白色の電灯が照らす表情は、岬であって岬ではない———やはり、と眉根を押さえ、正面を見据えた。
「何よ、黙りこくって……言いたいことがあるなら言えばいいじゃない」
岬は眉間に皺を刻まないし、口調もこれほど刺々しくはない。人が変わったよう、と言えば易し。しかし易くない要因は岬の体質にあり、現にいま、目の前の体はみさ緒に乗っ取られている状態だった。
半分憑依。岬に刷り込んだ単語を思い返しながら、厘はもう一つの憑依形態を浮かべる。岬が自我を保つことのできる “半分” に対し、自我が保てず、体そのものを乗っ取られてしまう形態———
“完全憑依” と厘は呼んでいた。
「ああ……見た目は同じでも、随分違うものだと感心していたんだよ」
「どういう意味よ」
「岬は俺を睨んだりしない」
「……ああ、そう」
ハァ、と視線を逸らすみさ緒。正確に言えば、岬の姿を纏ったみさ緒。
新鮮、と言うには楽観的。どうにも調子が狂う。(表情と口調、声色というものは、中身でこうも変わるものなのか……)建前ではなく、厘は放った通り感心していた。
「それで、どうだ?」
「なにがよ」
「久しぶりに生身の体を操れる今の状態……現に触れた感想は」
みさ緒は怪しげな笑みを零し「そうね」と切り出した。
「思っていたよりも懐かしい感じはなかったわ。ただ、飲食ね……喉に伝う感覚には正直、戸惑ってる」
「白々しい。俺の手料理も難なく食っていただろう」
「ええ。それでも、岬の身体でっていうのは違うものよ。自分の本体が在った頃とは」
「味覚も変わるものか」
「そうね。あと咀嚼の回数も。岬は犬歯が小さくて、噛み切りにくかったわ」
ほら、と開けて見せつけられた口内に、厘は目を凝らした。
確かに、顎も歯も小さい。……今度は少し、柔らかい肉で調理してやろう。
「まぁ、この感触が一夜限りっていうのは切ないわよね。岬には悪いけど、夜が明けるまで存分に使わせてもらうわ」
背伸びをしながら、みさ緒は語尾を弾ませる。
一夜限り———それは、岬に憑いた霊魂が新月の夜に限って完全憑依できる、という制約のことを指していた。
黄泉へ繋がる、月灯りの導線。それが完全に絶えた夜には、“入りやすく” なるらしい。裏を返せば、満月の夜には岬の身体を離れざるを得なくなる。導線が濃くなるからだ。
岬はおそらく、そこまで理解していない。完全憑依時の記憶は引き継がれないようだし、おそらく、宇美も黙っていたのだろう。
「ハァ……」
厘は深くため息をついた。この完全憑依で、どれほど岬の精気が奪われるか。……半分憑依なんて比ではない。それに今回はみさ緒であるというだけで、十二分に厄介だ。
「お前、岬のことを気に入っているな」
「ええ……それがどうしたの?」
座椅子の背に身体をもたれたまま、彼女は事もなげに首を傾げた。
「それならば、」
グイ———。
厘は頬を掴み顔を持ち上げ、半ば強制的に視線を捉える。やはり、瞳の色もあいつとは違う。厘はほくそ笑み、みさ緒は目を見張った。
「この夜が明けたら、すぐに岬から出ろ」
厘は凄み、そして今宵までの一週間の記憶を辿る。
端的に言うならば、散々だ。岬が指にケガを負い、事故を危機一髪で免れたあの日から続けて、同じような状況が積み重なった。
翌日には予報にない局地的豪雨に見舞われ、翌々日には図書室の棚が岬に倒れかかった。事象を並べれば、まったく片手には収まらない惨状。間接的、あるいは直接的に厘が手を施さなければ、命に係わることも少なくなかった。
単に運が悪いのではない。まして、人為的なものでもない———すべては、みさ緒が原因だった。
「なっ、ぅ、なんでよ……私にはまだ、出るまでの猶予があるはずよ」
「岬を危険にさらしてまで、中に居たいってことか」
ギュゥ。厘はより強く頬を掴んだ。尖った爪を食い込ませない配慮は、奥深くで眠っている岬へのもの。みさ緒本体に対してであれば、拷問に近しい所業はいくらでも思い付いた。
「……だって、こんなの二度とない機会かもしれないじゃない」
「つまり、自分の快楽が優先だと」
みさ緒は刻まれなれていない眉間を再び寄せ、「そうよ」と開き直った。
「何が悪いの?……別にね、岬のことが嫌いなワケじゃない。むしろ好きよ。それでも、この身体には相応の価値があるの」
頬を摘まんでいても、口は変わらず達者だった。視線を泳がす気もないらしい。
「お前、自分が何者か分かっているのだろう?……なぁ、黒闇天」
しかし、厘の放った一言でみさ緒の瞳は曇天を浮かべた。驚きよりも、おそらく観念に近い。そんな眼差しだった。
「やっぱり、気づいていたのね」
「安心しろ。岬には聞かせていない」
「そんなことをしたら、あなたの口を引き裂いてやるわ。まぁ、正確には “黒闇天の末裔” だけど」
狭まれた口内で頬を噛んだのか、やたらと痛そうな表情を見せるので、厘は仕方なく手を緩めた。
黒闇天———それは、仏教における天部の女神。女神といえば聞こえはいいが、いわゆる人に災いを与える神とされている。末裔であるみさ緒も、その性質をある程度受け継いでいるらしい。岬に災いが降って湧いたのも、黒闇天の力によるもの。
先祖の方はともかく、末裔ごときにはその力を制御することができないのだ、と彼女は白状した。
「俺が化身として現れていなければ、お前が及ぼす災いから岬を守れずに居ただろう。……それを加味しても、まだ居続けるつもりか」
厘は再び腕を組み、頬をさする彼女を睨み見た。
「居るわ。岬を死なすことになったら、悪いとは思うけど」
「……俺に負担を掛けていることにも気づいているだろう。罪悪感のひとつも無いのか」
「当たり前でしょう。そもそも、どうしてあなた、そんなに必死で守るのよ」
言われるほど必死か、俺は。
自分の行動を顧みながら、額を抱えた。毎日毎日、健気に小娘を見守る精霊の姿は、さぞ滑稽なのだろう。
「使命だからだ。……恩人から『守れ』と託された」
「恩人?誰よそれ」
「お前、じゃない……岬の母親だ」
花籠宇美。まだ冷たい土に埋もれていた頃、瘴気に毒された本体を摘んで救ったのが、宇美だった。
「へぇー。その母親は何?どこにいるのよ」
「死んだ。もういない」
「……そう」
みさ緒は視線を落とす。しかし、哀れみや同情を表した面には見えなかった。
「随分と、良い母親だったみたいね」
むしろ、冷笑すら垣間見える。彼女の皮肉めいた口調に、厘は眉を顰めた。
「お前にも母親くらい居ただろう。黒闇天の血を引いた、同じ境遇の」
「いるわ。それが私の、人生の汚点だったワケだけど」
「汚点?」
「分かるでしょう。災いをもたらす神の末裔……傍に寄ってくる人間など一人もいなかったわ」
ましてやこの容姿、最悪でしょう?———そう加えたみさ緒は、「あぁ、今はべっぴんだったわ」と頬に手を添え訂正した。
「血を恨んでいるわけか」
「恨むってほどではないけれど。それなりに捻くれたし、それなりに孤独だったわ」
「……おい、岬の体で胡坐をかくな」
「何よ、話聞きなさいよ」
ぶつぶつと文句を垂れながら、みさ緒は外側に足を折り直す。口を尖らせる仕草も新鮮で、案外悪くない、と疲れきった脳が戯れ言を放った。皮切りに、話を戻した。散々「明日には出ろ」と促すものの、状況変わらず堂々巡り。自ら「出る」気は毛頭ないようだ。
お前に人間が寄らなかったのは境遇だけでなく、その頑固さにも要因はあるんじゃないのか? そう吐きたくなるも、厘は黙っていた。
「いいじゃない。どんな災いが訪れようと、あなたが岬を守ってあげれば」
いいように言わせておけば、他人事のように放たれる始末。労力は “守る” だけに注がれる訳ではないことを、この愚者は知り得ないのだろう。
いま憑依されている岬の身体は、確実に精気をすり減らし続けている。つまり、精気を送り込む力も蓄えておかなければならない。……しかしまぁ、それでも───
「当たり前だ。……守り抜いてやる。どんな災いからもな」
一度失い掛けた命。すべて彼女に捧げると覚悟を決めた妖花に、やり得ない事などあってたまるか。厘は口角を持ち上げ、不敵にほほ笑んだ。
「そう?じゃあ頑張って」
双方の瞳が火花を散らしたその夜は、道を照らす月もなく、静かに過ぎていく。そして暗闇のなか、厘は逡巡していた。
岬に精気を施す、頃合いについて───。
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