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第2章 重なる不運は訝しく

06話

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「おい。しっかり前を見て歩け」

「う、うん……」

 年季の入ったアパートを出て、左に進む通学路。セーラー服を纏った岬は、厘の横できょろきょろと周りの目を気にしていた。
 ……今朝ケガをしたばかりだというのに、まったく危機感が無い。厘は彼女の指を垣間見る。あの程度、妖の身体であれば血も流さず、すぐ傷口も塞がるというのに。……だから余計に、危ういんだ。

「ねぇ、厘」

「なんだ」

 声までが細くか弱い。厘は小柄で華奢な体を横目に捉えた。

「その恰好……暑くないの?」

 岬は恐る恐るこちらを見上げる。同時に、彼女の細い髪はサラリとその肩を撫でた。

「特に暑くはないが」

「そっか……もし水とか必要だったら、すぐ言ってね。私持ってきたから」

「ああ」

「それと、ね」

「ん?」

 首を捻ってみるが、しばらく返答がない。照りつける陽光と妙な間に、厘は軽く眉根を狭めた。

「岬?」

 こちらに目を与えず、再び視線を散乱させる岬。同じように周りを見やると、岬と同年代位の少年少女の姿がと増え始めていた。
 なんだ……全員同じような恰好をして。

『馬鹿ね、分からないの?』

「……あ?」

 鼓膜を突き抜ける卑しい声は、岬のものではない。彼女にべったりと張り憑く・・・・、みさ緒の声だった。黒い裾長の被服に、金色の腕輪を身に着けたその少女を、厘は睨みつけた。

『気を遣って言えないだけよ、岬は』

「み、みさ緒……っ」

「なんだ、言ってみろ」

 慌てふためく岬を横目に先を促す。よく見ると、彼女の頬は赤く染めあがっていた。暑さのせい……ではなさそうだ。

『いいわ、私が代わりに言ってあげる』

「なんでお前が」

『岬が可哀そうだもの』

「……まぁいい、聞かせろ」

 不本意ではあるものの、仕方なくみさ緒の言葉に耳を貸した。

『残暑が冷めやらないのに、羽織も脱がない、裾もめくらない。加えてその見てくれ。周りの視線が注がれていること、気が付かなかった?』

「視線?」

『岬は気にしているワケよ。仕方ないから教えてあげる。こういうのを “世間体” っていうのよ」

 阿呆、そのくらいの知識はある、と返したいのはやまやまだったが、厘はあえて突かなかった。言葉自体を知り得ていても、人の世では周りと異なる外見をしているだけで妙な(そして決して良くない意味での)注目を浴びる———つまり、世間体を害する、という理解はなかったからだ。

「分かった。それなら限界まで気配を消す」

「え……気配?」

「ああ。今ここで身なりを変えるより、幾分か自然だろう」

 厘は一歩後ろに下がり、振り返った岬を見据える。瞼を閉じる。そして、羽織の懐に潜めていた黄金色の鈴を取りだし、ひとつ鳴らした。

 チリン———。
 生ぬるい風に掠れる梢の鳴き声。傍で風が撫でる細長い髪の気配。華奢な指先から漂う鮮血の香り———研ぎ澄まされた厘の五感は、妖術の効果を上げる。

「……厘?」

 ものの数秒も掛からなかった。目を開いた時には岬と後ろに憑くみさ緒以外、目配せ一つくれなくなっていた。岬を除いて術を掛けたつもりだったが、やはり、みさ緒には効かないらしい。

「どうだ。少しはましになっただろう」

「今、厘が何かしたの?」

「簡単に言えば、まじないのようなものだ。お前には掛けていないから、安心しておけ」

『へぇ~、器用だねぇ。妖怪さん』

「妖怪ではない。妖花だ」

『同じことでしょう?全く、これだから人外は嫌なのよ』

「お前だって人外だろう」

『失礼ね。私のもとは人間、あなたとは違うから。昨日は岬と、人間同士の熱~いお話しちゃったもの。ねぇ?』

「へっ!? あ、うん……熱い、といえば熱いかも……」

 他愛のないやりとり。岬が語尾を窄めつつ、再び頬を染めていることには気付けなかったのは、古びた音色の鈴を「替えどきか……」と見つめていたからで———彼女の背後に迫る影にも同様に、気付くことが出来ないでいた。


 ブンッ。
 まだ青い銀杏の並木道、数台の車が行き来する。直線上にはそろそろ、校門が窺える頃合いだった。
 登校はこれで終い、校内での様子は“上”から見ておくとしよう。岬はともかく、みさ緒の甲高い声から解放されることは喜ばしい、と小さく息をついた。瞬間だった。

『岬!』

 鈴に気を取られ、油断していた。みさ緒が尖った声を張り上げてようやく、厘はその影の正体に気がついた。

 ブォンッ———!!
 厘を睨み見ていたはずの霊の瞳は、悔恨の色を浮かべる。女の目には、獣のごとく猛進してくる鉄の塊が映っていた。

「クソが……」

 なんでこっちに突っ込んで来やがる。

「ひゃ……!?」

 厘は即座に岬を抱える。猪突猛進、鉄の塊、いわゆる黒のセダンに触れる寸前、上に向かって飛び退いた。

 ガシャンッ———!!

「「キャァーッ!?」」

 どこからともなく響く悲鳴。気が付くのが二秒遅ければ、歩道に乗りあげた鉄の塊と樹木の間ですり潰されていたことだろう。厘は、すっぽりと腕に収まる身体を見下ろした。

「おい、生きてるか?」

「は……はい、なんとか……」

 彼女は、車の上に舞う銀杏の葉をじっと見つめていた。恐らく、何が起こっていたのか理解できずにいるのだろう。気の動転を体現したような目の泳ぎに、厘は息を吐いた。

「こんなことを言うのはなんだが、進んだ先が岬の所で良かったのかもしれない」

「え……?」

「俺が守ることができるのは、お前だけだからな」

 辺りが騒然とする中で、岬は静かに頬を赤らめる。
 人間という生き物は、この程度の外気で体温が上昇するのか。本当に手が焼ける。……それよりも。
厘は小さく息をついて、奥に潜む霊魂の、円らな瞳を鋭く捉えた。

「お前、何か訳知り顔だな。さっきから」

『……そっちこそ、何を見透かしたつもり』

「最初から妙な気を放っていると思っていたが……今朝と今回の一件で、大体の検討はついたな」

 唇で弧を描く厘に、みさ緒は顰蹙ひんしゅくする。岬を通じて伝う表情の温度が、動揺を纏い熱していた。

「あの、厘……車のなかの人は平気か、わかる……?」

 見えない攻防など知るよしもない岬は、小声でこっそり訊ねる。

「運転手のことか?」

「うん……あと、一緒に乗っていた人も」

 厘はギュッと袖を強く握る岬に、“彼女” の面影を垣間見た。先刻まで気弱に、目立つ目立たないと気に掛けていたくせに……宇美と岬、お前たちは本当に似た者親子だ。

「無事だ。直前でハンドルを切ったおかげで、運転席には危害が少ない。それに救急車とやらもこちらに向かっているそうだ。同乗者もなし。……つまり、案ずるな」

 土の絨毯にそっと身体を下ろし伝えると、彼女は肩を上下させて微笑んだ。このお人好しを極めた娘は、自分が巻き込まれていた可能性を案じるより、他人の安否の方がよほど気になっていたらしい。

「とにかく、今日は安静に過ごせ。学校ではお前を守ってやれないからな」

 本当は『休んでしまえ』『むしろ学校などという無法地帯に足を踏み入れるな』と言いたいところだが。

───『岬、今日は学校どうだった?』

 生けられていた頃の記憶。何度も繰り返されていた言葉。それは岬の母親、宇美の朗らかな笑みとともに再生される。……言えるわけがないだろう。あれを聞いていた俺が。

「厘?」

「……いいから行ってこい。事故の後処理は俺が引き受けるから」

「う、うん……行ってきます。ありがとう、厘」

 後処理ってなんだろう。そう言いたげに手を振る少女を見送った後、厘は再び鈴を鳴らし、錆びた音色を響かせた。———その場から、岬の残像を消し去るために。

「目撃者にでもされたら、少々手間だからな」

 ヒュン———ッ。
 完全に気配を殺したあと、厘は指に挟んだ楕円の葉を振り下ろす。葉は肥大化し、厘の身体を持ち上げるように宙へ舞った。

 鈴蘭の葉車はぐるま。単位でいえばおよそ二百キロまでの物体を持ち上げることが可能で、上下左右の動きが自在な車。とはいえ、厘の妖力が必須であるため、スピードは自ずとその裁量に委ねられる。
 人目につけば “世間体” に波を立てることはさすがに理解していたため、厘は透過を加えた。消費する妖力は膨大だが、岬の命がかかっているとなれば、惜しむ余地なし。

「窮屈な世だな……ここは」

 小さく呟きながら校舎を目指し、陽光に目を眩ませる。
 ……新月まで、あと六日。厘は月齢を数えながら、みさ緒の表情を思い返した。

 ———『何を見透かしたつもり』

 円らな瞳に、分厚い唇。お世辞にも器量が良いとは言えない容姿。憑かれた途端、岬にふりかかる災い。この・・推測が正しければ、今すぐにでも追い出すべきだろう。

「妙なものに憑かれたものだな……岬」

 たとえお前が、心を許していたとしても。
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