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第5章 理性の破綻は著しく

22話

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 相手は悪霊。何をしでかすか分からない。扉を開く時も、玄関へ足を踏み入れる時も、油断はしていなかった。

「おかえり」

「……っ!?」

 それでも厘は、一歩足を退けざるを得なかった。

「あれぇ……もしかして、照れてる?」

 玄関前。出て行ったときと同じく、両手足は枷でしっかりと縛られているが、着ている衣服すべてが捲れ、至るところで肌が露になっていた。

「なんだ、その恰好は」

 厘は視界を覆いたくなるのを堪えながら、横目で彼女を垣間見る。動揺を悟られないことが最善と解っていても、真正面で捉えることはさすがに憚られた。
 心もとなく狭い肩。くっきりと窪みを浮かべる鎖骨の池。ぼやけない華奢な体型の代わりに、控えめな胸元。透き通ったように白い肌、脚。下着で覆われている一部を除き、露わになっていた。

「うーん。少し暑かったから」

「何を抜かす。気温は摂氏十八だぞ」

 眉を顰める厘を見上げ、息を吐くように笑う早妃。最低限の用を足せるように、と前に枷を付けたのが悪かったのだろう。でなければ、衣服は脱げない。両手の枷に引き止められた肌着とニットがその証拠。

……くそ。妙に生々しい。

「でも、少し驚いたよ」

「……何がだ」

 横に投げ出された脚に視線を落とす。そうでもしなければ、これまでの気遣いが水の泡だ。もうすでに、生きた心地はしていないが。

「だってこの身体、見慣れているものだと思ったから」

「……は」

 ジャラ———。足首に施した枷が、部屋の中心で静かに動く。

「一つ屋根の下で暮らしているのに、随分と気を回していたのね。全くそそられない、なんて言っていたのに」

 そして、彼女は心境を見透かした。悪霊にも関わらず人の、否、あやかしの機微にも敏感らしい。

「岬が気にするからな。小娘と言えど、年頃には違いない」

 自分も、あやかしの割に建前が上手い。厘は心の内で苦笑した。

「ふーん……つまらないの」

「詰まる事があってたまるか」

 言いながら厘はしゃがみ、枷を外していく。そして、はだけた服をしゃんと着せ、露わになっていた肌を覆い隠した。肌には指一本触れないよう、気を張った。呼吸を止めて少しでも五感を塞いだことが、功を奏したらしい。そうでもしなければ———……

「ねぇ、でもさぁ厘」

 雑念を遮る甘美な声。みさ緒の時とも、本人の時とも違った波長。岬の声帯は幅が広い。自由になった足で詰め寄る早妃を横目に、厘は感心していた。

「今がチャンスだと思わない?」

「……チャンス?」

「うん」

 彼女は厘の手を自分のそれに絡めて掬い取る。枷に縛られ血行を妨げていたせいか、体温は異様に低い。やはり『暑い』と言ったのは出任せのようだ。

「だってほら。岬に懸想けそうしている。そうでしょう?」

 文脈に沿わない物言い。それに懸想している、と言ったか。……安直にもほどがある。厘は正面から体をすり寄せる彼女を退けて言った。

「生ぬるい」

「……え?」

「懸想———なんて領域では、もう到底補えないな」

 クイッ———。正面に捉えた彼女の顎を持ち上げる。「んっ、」と鼻から漏れる吐息も、今回ばかりは意図的ではない。証拠に、捉えた瞳は大きく見開いた。

「っ、それほど想っているなら尚更……今を逃さない方がいいんじゃない?」

 しかし、厄介者の口は容易には減らない。多少の動揺は見てとれるが、それ以上に彼女は今の状況を愉しんでいるようだった。

「だって、今ならどこに触れても岬の記憶には残らないんだから。……もしかして、コレってちょうど、手を出そうとしているところ?」

 夢魔が別称、淫魔と呼ばれるのも納得がいく。ゆったり弧を描く口角を、厘は鼻で笑った。

「殊勝にも、俺は正攻法が好きなんでな。それに、いくらその声で喘がれたって、中身・・がお前では意味がない」

 ———ときに悪霊、俺に出される覚悟はできているか?

 続けてほくそ笑んだ厘に、早妃は初めて顔を歪める。霊魂の力が強く、悪魔の性質まで持ち合わせた彼女は、いままで余裕に呆けていたのだろう。だからこそ、付け入る隙ができた。

 ———『お前、鈴蘭だよな』
 庵が放った言葉を思い返し、厘は大きく息を吸う。ソレ・・を放出するのは何時いつぶりだろうか。記憶には遠い。


「な、に……?」

 異変を覚えた早妃は、辿々しく言葉を紡ぐ。誘惑にかまけていたせいか、逃げる方は格段下手らしい。

「早く岬から出ろ。この阿婆擦あばずれ」

 厘は唇を寄せながら、瞳を鈍色から褐色へと変化させる。

「ンっ!?」

 そして、都合よく半開きであった唇にキスを落とした。

 ———岬。少し荒療治だが許せ。心の内で唱えながら、ジタバタと暴れる身体を押さえながら、厘はソレ・・を幾度も注いだ。


 ——————……

「う……」

 うめき声。早妃の操る・・ものではない声帯から零れ落ちる。岬の身体が脱力したのは、重ねてからたった数秒後のことだった。

「やっとか」

 厘は首と腰に腕を添えて、項垂れた岬を抱える。離した唇を再び重ねる。今や瞳も、本来の色を取り戻しているはずだ、と瞳を見ぬままに確信した。しかし早く注がなければならない。今度は、いつも通り精気を───。

 鈴蘭には毒がある。

 庵はその毒を利用して夢魔を追い出せ、と提言した。痛み慣れをしていない霊にはうってつけ、自ら出るように仕向けることができる。
 無論、厘自身にもその案は浮かんでいた。しかし、背を押されるまでは踏み切れなかった。毒を利用する方法の最低条件は“岬の身体を毒に侵すこと”だったからだ。

「岬……」

 操りを解かれた人形のように脱力する、愛おしい身体。締め付けながら、厘は唇に神経を注ぐ。
 鈴蘭に含まれるコンバラトキシンは、猛毒だった。解毒には、通常の倍以上の精気を注ぐしか方法はない。延いて、今回は悪霊の完全憑依であったため、倍々以上の精気を捧げる必要があった。───毒が、全身へまわる前に。

 頼む……目覚めてくれ。
 懇願しながら蘇るのは、最後に放たれた早妃の言葉。『嫌……もう無理……!』と地団駄を踏んだ直後、去り際に吐き捨てた。

 ───『そんなに寵愛してるのに可哀そうね、あなた。このの異常に気付けないなんて』

「……っん」

 岬───?
 厘は我に返り、無意識に侵入していた生物・・を引っ込める。舌先に纏わりつく甘い唾液の感触は、夢魔の誘惑をいとも簡単に凌駕した。

「目、覚めたか」

「……厘?」

 りんごのように紅潮した頬と唇から微かに溢れる糸に、心臓を深く抉られる。周りに「小娘」と放つことで制御していた何かの緒が、プツリと切れる音を聴いた。

「痛む所はないか」

「うん……平気だけど、」

 ───ここは家?
 そう問われ、岬が意識を失ったのは街だったか、と思い出した。

「少し説明する必要があるな……まぁ、その前に」

 厘は言いながら、知らぬ間に浮かしていた彼女の腰をゆっくり下ろす。そして、そのまま強く抱きしめた。

「り、り……っ」

 名前すら口に出せないほど狼狽うろたえている。この反応、岬本人で間違いない。───しかし、たった二日でこのザマか。

「おかえり。岬」

 破綻寸前の理性と隠し切れない安堵に、心から辟易した。
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