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第7章 潜った海馬は猛々しく

31話

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 アパートから徒歩十五分。「すごい人だね」と目を開く岬に頷きながら、厘はあたりを見渡した。普段なら木枯らしの音も鮮明に響くはずが、年明け二日目の今日は全くもって聴こえない。この郊外の神社でさえ、以前訪れたセンター街の風体を為していた。

「ふん。物好きめ。初詣なんて一体なんの意味があんだよ」

 岬の隣で庵は変わらず文句を垂れる。不本意ながら同意見。しかし、岬の着物姿は神社によく映える。これを見られるだけで、足を運んだ意味はありそうだ。厘は横目に彼女を捉えながら、白い息を吐いた。

「去年一年の感謝と、これからの一年を祈願するんだよ。きっと、みんな大切な人を想って」

「そういうもんか」

「うん」

 人でごった返す参道を歩きながら、厘は思い伏せた。やはり岬には白が見合う。先刻放った言葉・・・・・・・は、揶揄い紛いでも間違いではなかった、と。

「毎年、宇美と来ていたのか」

「うん。毎年。……お母さんの健康も、幸せも。お祈りしてたはずなんだけど、ね」

 語尾と眉を下げる岬に、庵は喉を鳴らす。同時に厘は思い出していた。あの手狭な部屋で、突然宇美が倒れ込んだ過去を思い出していた。
 随分昔の事ように感じるが、あれはたった数か月前のこと。それに、すべて切り替えられるほど岬の痛みは柔くない。彼女の脳裏には、たとえ何年経っても過るのだろう。こうして、思い出を辿る度に。

「塗り替える必要はない」

「……え?」

「来る度、好きなだけ思い出せば良い。思い出せることが、今お前の生きている証だろう」

 それに、俺はお前たちの思い出話を聞くのが、割と好きだ———。続けて、夜会巻きを施した髪を撫でる。岬は視線を落としながら「ありがとう」と小さく笑った。

「……あのね。お母さんっていつも決まって、二十五円入れるんだ。お賽銭」

「二十五……二重に縁を、という願掛けか」

「うん。正確には二人分に十分ご縁を、ってことみたい。私とお母さんの、二人分」

 彼女は微かに鼻を赤らめる。「私も五円入れてるのに、欲張りだよね」と、優しい笑みがこちらを向いた。

「だから今年はね。私が、三十五円入れようと思うんだ」

「「三十五」」

 瞬間、重ねられた声に互いを睨み見る。しかし、かち合う視線に火花は散らない。宇美の話を聴いたからだろう。犬猿には違いない仲だが、妙なところで気が合うようだ。

「どう、かな?」

「……構わん、好きにしろ」

「別にいいけどよ……」

 岬の願いに抗えないところも、同様に。


 ——————……

「お前はどこでも食い意地が張っているな」

 参拝を終えた後、厘はフランクフルトを頬張る庵に息を吐く。何も、両手に持つことはないだろうに。

「でも羨ましいなぁ。たくさん食べられるのって、幸せだよね」

 岬も岬で、お門違いな感想を放っている。庵は満更でもなさそうに頷く。この大食らいが岬を気に入る理由は、偏にこの、鈍く朗らかな包容力にあるのだろう、と確信した。

「厘は、食べたいものない?」

「俺はいい。お前はどうなんだ」

「えぇっと……綿菓子、とかかな」

 気恥ずかしそうに、岬は声を細める。参道に並ぶ屋台のひとつ、その綿菓子が売っている店の風貌は、鮮やかに色目立ちしていた。

「子どもが多いな」

「うっ……うん、そうだよね……」

 なるほど。やけに恥じらっている理由はこれか。口を一文字に結んで目を逸らす岬に、思わず笑みが零れた。

「ひとつでいいか」

「え?」

「買って来てやる。そこで庵と待っていろ」

 厘は人混みをかき分け、色とりどりに着色された屋台を目指す。その間、すれ違った人間のほとんどが手元に食べ物を持っていた。参拝よりも本来の目的は “こちら” なのでは、と思えるくらいだ。しかし、これほど屋台が蔓延っているのに、やたらと混みあう『わたがし』の列。子どもに根強い人気があるのか、買うまでに数分かかりそうだ。奇怪なことに、後ろにもまだ列は続いていた。

 ……大丈夫か、あいつら。
 ようやく手に入れた飴菓子。箸にまとわりついた雲を片手に、厘は二人を案じた。庵は放浪していないだろうか。もしそうであるなら、岬は奴に付いて行っていないだろうか。
 早妃に憑かれていた時にも感じていた不安が、再び過る。たった少しの間傍を離れるだけで、この有様だ。宇美よりも余程、俺は過保護なのだろう。

「あっ……おかえり、厘」

『へぇ、あんなでかいのにお遣い行かせてたんだ』

 しかし今後は、より庇護欲を高めそうで恐ろしい。傍を離れた数分の間に、彼女には新たな霊が憑いていた。

「……またか」

 厘は後ろに憑く少年を見据え、肩を落とした。
 ここ最近の違和感。憑かれるペースが明らかに狂い始めている。悪霊・夢魔の早妃が憑いたあと、収まったとも思えた憑依の波は、再び強く打ち寄せてきた。
 おかしい。この一か月で四度目だ。精気を注ぐ頻度も徐々に上がってきている。宇美が倒れる前にも、ここまでのハイペースは例になかった。

「オイ。俺の分はねぇのか」

「あるわけないだろ」

 阿呆、それどころではない。得体のしれない焦燥感に襲われながら、庵を睨みつける。同時に、岬の後ろに憑く少年を見下ろした。
 ビー玉のような丸い瞳に、透き通った白い肌。特徴は岬に似ているが、こちらを興味深そうに眺めるじっとりとした目つきは、なんとなく気に入らない。……少しくらい慄いたらどうだ。まだ、みさ緒の方が可愛げがある。思い返すと随分懐かしく感じられる、あの卑しい顔を、厘は脳裏に浮かべていた。

「おい、そこの餓鬼がき

 言いながら、岬に綿菓子を手渡す。少年は厘を見上げ、あっけらかんとした口調で『何?』と首を傾げた。

「お前はなぜ、岬に憑いた」

 人混みに流されないよう、岬の肩を寄せる。図らずとも、彼女の温もりが肌に吸い付く。庵は “見えざる存在もの” に問う厘を、後ろから怪訝に見つめていた。

『なんでって言われても。“扉” が開いていたから入っただけだよ』

「……扉、だと?」

 内側で反芻するとともに、復唱する。人の体内には “扉” なるものが存在するとでもいうのか。

『それより、僕甘いもの苦手なんだよねぇ。次はしょっぱいもの食べてよ。岬』

「う、うん……ごめんね」

 年相応。我が儘なリクエストに、苦笑を浮かべる岬。そんな彼女を横に、厘は思い伏せていた。

 扉———脳裏に描き出されたイメージは、この神社や祠に佇む両開きのもの。あるいは、鉄骨アパートのそれ。少年の口ぶりから分かるように、おそらく普通の人間の “扉” は閉まっているものなのだろう。……ただし、岬は違う。なぜだ。なぜ———、


「岬。庵」

 巡らせるも、思考回路は迷路をなしたまま。厘は二人を呼び、振り返る。そして、覚悟を固めた。彼女あいつのもとへ行くのなら、今が頃合いだろう、と。
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