白の甘美な恩返し 〜妖花は偏に、お憑かれ少女を護りたい。〜

魚澄 住

文字の大きさ
34 / 50
第7章 潜った海馬は猛々しく

33話

しおりを挟む

 線香と木の匂いが擦れ合う部屋の隅。目先に広がるご本尊。氷の上かと錯覚するほど冷たい畳。

「勝手に入っていいのかな……」

 明かり一つ点らない伽藍の中を見渡しながら、岬は不安げに呟いた。

「大丈夫ですよ。ここはまだ外陣げじんですから。どちらにせよ、今日はお坊さんも不在なので平気です」

 胡嘉子は脱力したまま、半身になって振り返る。彼女にも、ここに住む人間ひととの接点があるのだろうか。厘との関係を重ねながら疑問に思う。砂利を這って出てきた様子からは、とても一緒に住んでいるとは考えにくいけれど。
 巡らせている内、胡嘉子は今度こそ振り返る。

「ここに、座ってください」

 示されたのは紫色の座布団の上。岬は言う通りに膝を折る。慣れない着物が、少し崩れた。

「それで、厘さん。見返りは何かありますか」

 隣に座る彼に、胡嘉子は問う。

「やはり、無償タダで、というわけにはいかないか」

「当たり前です。妖力を使うのですから……。ただでさえ、今日はゆっくり寝て居たかったのに」

「分かった。ほら、これでいいか」

 見返り。厘が懐から取り出した果実に、岬は目を丸くする。屋台で林檎飴として売っていたはずの、林檎が現れたからだ。もしかして、店主と交渉したのだろうか。妖花は “生” の方が好きだから。

「まあるい……赤い……」

「ひと手間かかっている。大事に食えよ」

 胡嘉子は林檎を受け取るなり、大きく喉を鳴らす。暖簾のような長い髪から覗く口角は、不気味さを一層引き立てていた。

「いいでしょう。これで手を打ちます」

「頼んだぞ」

 よほど林檎が嬉しかったのか、否か。瞬きの直後、目と鼻の先に及ぶ胡嘉子の微笑み。今までの様子からは考えられないほどの機敏さで、彼女は岬と距離を詰めた。

「岬さん。私は対価を受け取りました。ので、貴方を透かしたい・・・・・と思います」

「すかす……?」

「はい。この手で触れることで体内を巡ります。もちろん、脳の海馬も例外ではありません。つまり記憶も辿る為、私はこれを “旅” と呼びます。いいですか? その間、貴方にも旅が巡ります。酔わないよう私も気を付けますが———」

 息継ぎのない長い説明の中、ようやく見えた胡嘉子の瞳。金色こんじきを成したその大きな瞳に、吸い込まれそうになった。厘や庵にはない奥深さが、彼女の瞳には在った。

「解りましたか?」

「は、はい……」

 高揚の収まらない胡嘉子に、岬はたじろぎつつも頷いた。

 触れることで身体の性質、宿る力、すべてを透かすことができるという趣旨。特別な妖術の正体が見え、岬は納得した。彼女に厘が依頼したワケは、おそらく———。

「では、肩の力を抜いて。邪念も失くして。ゆっくり、息を吐いてください」

 気怠さの抜けた歯切れのよい口調。慎重を語る瞳に、思わず緊張の糸を張る。しかし、言われた通り息を吐き切ると、自然と力は抜けていった。


 ブワッ———。
 胡嘉子の低い体温が額に触れる、その瞬間。菊の香りが全身を巡る。喩えるなら、リリィを摂り込んでいた感覚に近い。目を瞑っているはずなのに、眩暈がする。ぐわり、目が回る。ときおり混じる線香の香りは、酔いを加速させた。


  ・
  ・
  ・


『ねぇ。お母さぁん? 何してるの?』

 次に視界を明らめたとき、そこは夢の中だとすぐに解った。視線の先に見えるのは幼少期の自分と、死んだはずの母親だったからだ。

 いまの私と、同じ着物を———。岬は白い袖口を握り、まだ刺繍のない母の和装を捉えた。

『ねぇ、お母さん。お母さん』

 着物の価値を知らぬまま、容赦なく引っ張る少女。母は「待っててね。直ぐ、直ぐに終わるから」と目を細める。額に汗を浮かべていた。
 よく見ると、膝元は土で汚されていて、手元も葉で擦ったような傷が目立つ。しかし、母はやめなかった。曇天の河川敷。たったひとつの花を摘もうと、懸命に根を引き抜こうとしていた。

「え、あれって———」

 岬は彼女の手元に目を凝らし、息を呑んだ。母が抜こうとしているその花は、よく身に覚えのある鈴蘭だった。

「お母さん……お母さん……!」

 幾度声を掛けても反応はない。母は花を抜くこと一心に力を注いでいた。
 女性とはいえ、大の大人があれほど汗を流しても引き抜けないものなのか。幼い頃は気づくことができなかった。この異様な空気にも。母の焦燥にも。鈴蘭が萎れかけている状況にも。

 でも、今なら分かる。これは夢なんかじゃない。私たちが過ごした過去だ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

【完結】『左遷女官は風花の離宮で自分らしく咲く』 〜田舎育ちのおっとり女官は、氷の貴公子の心を溶かす〜

天音蝶子(あまねちょうこ)
キャラ文芸
宮中の桜が散るころ、梓乃は“帝に媚びた”という濡れ衣を着せられ、都を追われた。 行き先は、誰も訪れぬ〈風花の離宮〉。 けれど梓乃は、静かな時間の中で花を愛で、香を焚き、己の心を見つめなおしていく。 そんなある日、離宮の監察(監視)を命じられた、冷徹な青年・宗雅が現れる。 氷のように無表情な彼に、梓乃はいつも通りの微笑みを向けた。 「茶をお持ちいたしましょう」 それは、春の陽だまりのように柔らかい誘いだった——。 冷たい孤独を抱く男と、誰よりも穏やかに生きる女。 遠ざけられた地で、ふたりの心は少しずつ寄り添いはじめる。 そして、帝をめぐる陰謀の影がふたたび都から伸びてきたとき、 梓乃は自分の選んだ“幸せの形”を見つけることになる——。 香と花が彩る、しっとりとした雅な恋愛譚。 濡れ衣で左遷された女官の、静かで強い再生の物語。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました

美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?

後宮の手かざし皇后〜盲目のお飾り皇后が持つ波動の力〜

二位関りをん
キャラ文芸
龍の国の若き皇帝・浩明に5大名家の娘である美華が皇后として嫁いできた。しかし美華は病により目が見えなくなっていた。 そんな美華を冷たくあしらう浩明。婚儀の夜、美華の目の前で彼女付きの女官が心臓発作に倒れてしまう。 その時。美華は慌てること無く駆け寄り、女官に手をかざすと女官は元気になる。 どうも美華には不思議な力があるようで…?

処理中です...