白の甘美な恩返し 〜妖花は偏に、お憑かれ少女を護りたい。〜

魚澄 住

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第7章 潜った海馬は猛々しく

34話

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 「頑張れ」

 過去と分かった直後も、岬は爪が食い込むまで拳を強く握りしめていた。

 ───『それが俺の、使命だからだ』

 厘と出会ったあの日。どうして、あれほど忠実に母の願いを聞いてくれるのだろう、と浮かべていた疑問。その答えが今、目の前で示されているのかもしれない。

『ぬ、けたぁー!』

 重心を後ろに、転げ笑う母。懐かしくも、鮮明に刻まれている表情に、岬は安堵した。よほど体力を擦り減らしたのか、彼女はそのまま河川敷に寝そべった。

『お母さん。だいじょうぶ?』

 上から顔を覗き込む娘に、母は『へーきへーき』と高笑い。その明るさは何よりも眩い、少女の光だった。それは、今も昔も変わらない。

『お母さんね。このお花をたすけたかったの』

 曇天に翳した鈴蘭の花。根から丁寧に抜かれたその花が、なぜか安堵しているように見えた。ただの花ではない、と今なら分かるからだろうか。

『悪い瘴気が流れてる。ある人間の負の感情が、この地をむしばんでいたみたい。それになぜか、この子・・・に向けて一層強く』

『……お母さん?』

『岬にはちょっと難しいかな?……よしっ、じゃあひとつだけお約束』

『うんっ!みさき、約束すき!』

『んー?そうなの? 可愛いなぁ岬は』

 起き上がった母は、少女の柔い頬にキスをした。目を細めながら、心底、愛おしそうに額を合わせた。それは憶えのない出来事。今日までずっと、忘れていた。

 岬は自分の頬に手を滑らせる。
 どうして思い出せなかったのだろう。母が注いでくれた愛情すべてを刻むことが、どうして出来ないのだろう。幼い頃に戻ってでも刻みたい。

 ……でも、もう知っている———過去を恋しく思う自分は、とても脆いこと。

『約束はね、このお花を大事に育てること。いーい? 大事に、大事にね』

『うんっ。だいじょうぶだよ。だってみさきもこのお花大好き!かわいい!』

『でしょう? あ、それより大変。着物汚れちゃったわ』

『あらあら、おせんたくが大変ですねぇ』

『えぇ? それは幼稚園で覚えたのですねぇ?』

 微笑む母と、一緒に土を払う少女。まだあの子は、何も知らない。十数年後、目の前の居場所が突然消えてしまうことを———。

 変哲のない日常。いつも通りの帰り道。「今日はね、体育でキーパーをやったんだよ」と、常套句に答える準備を整えて、真っ直ぐアパートに帰ったあの日。玄関を抜けた狭い廊下で、母は倒れていた。唇は色を青くして、頭上に放られた腕は脈を失っていた。
 その後、自分がどう動いたか。憶えているのはいずれも断片———救急車のなか、母の笑顔を浮かべた。自分を責め立てる気力すらなく、血の気を失った。
 もしも。少女がこのとき、母が逝ってしまうと知っていたのなら。代わり映えのない日常の一コマすべて、刻むことができていたのだろうか。おそらく、きっと。


『岬』

 曇天が少しずつ晴れていく。一筋差し込んだ光から伝播する。広がる。母が少女を呼ぶ声は、まさにその情景によく似合う。母はいつでも、一筋の光だった。

『……岬?』

「え……」

 しかし、雲は再び影を作る。容赦なく被さる。雨が降りだしそうな、灰色がかった雲だった。
 岬は幼い自分の姿を見据え、喉を狭める。少し前まで楽しそうに母と笑い合っていた少女が、微かに体を痙攣させ、卒倒したからだ。
 先ほど母が放っていた “瘴気” と何か関係があるのだろうか。証拠に、母は冷静に「大丈夫」と何度も刻む。現在から運ばれた・・・・岬自身には、何も感じ取ることはできなかった。

『岬、大丈夫だよ。大丈夫だからね』

 自分の額を震える少女のそれに合わせながら、彼女は微笑んだ。そして、手にした草花を大切に包み込んだ。

 ———『あなたは特別なんでしょう? ねぇ、リリィ・・・。教えて。あなたに、岬を護ることが出来るのか』


  ・
  ・
  ・


 リリィ。
 そう呼んだ母の声が、残像となり脳を霞める。瞬間、岬の視界は閉ざされた。来た・・時と同じく、再び眩暈の渦に苛まれる。しかし、往きと違う出来事もあった。

『岬。私はいつでも、見守っているからね』

 母の声が、奥底で響いたこと。金縛りのように固まった体が、優しく包まれたこと。すべて、懐かしい気がした。


 ———「岬さん。終わりましたよ」

 気が付いた時。岬は長い髪に埋もれていて、涙を流していた。胡嘉子が抱きしめてくれている、と悟るまで、時間を要した。

「随分長い旅をしていましたね。少し心配しました」

 頭上で響く、波長の緩い声。岬は涙を懸命に拭い、彼女を見上げた。

「あの、わたっ、わたし……」

 息はうまく整わず、吃る声。

「大丈夫ですよ。あなたの旅は、決して悪いものではありません。きっと何か、意味があるのだと思います。それに———」

 胡嘉子は岬を再び抱きしめながら、厘に視線を向けた。

「少し、厘さんとお話があります。岬さんは、庵さんと休まれてください。……ああ、そうそう。憑依されていた霊魂は旅と同時に離れていきましたので、ご安心を」

 プツリ———。ブラウン管のテレビの、電源を切られたような音。同時に深く落ちていく。抵抗の余力も、気力も残っていない。

 胡嘉子の腕のなか、岬は深い眠りについた。
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