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第7章 潜った海馬は猛々しく
35話
しおりを挟む「おい。何か変な事していないだろうな」
「ええ。もちろん」
完全に気力を失い、脱力した岬を抱え、本堂の外へと運ぶ胡嘉子。そして、彼女を庵へ引き渡した。……ただ眠らせるだけなら、わざわざ外に追い出さなくてもいいだろう、と厘は睨み見る。
「随分と好いているんですね。あの子の事を」
彼女は気味の悪い笑みを浮かべながら「ああ、それよりも、」と切り出した。
「岬さんは、異常なほどにお優しいですね」
「……何をいまさら」
「貴方なら痛感していると分かっていました。ですが、あえてもう一度言います。異常なほどに心優しいのです」
だったらなんだ。急かす厘に、胡嘉子は珍しく髪を耳に掛けた。眠気はすっかり醒めたらしい。
「あの子でなければ、完全憑依などあり得ないでしょう。いくら月が出て居まいと、それ程に難儀なのです。霊にとって、憑依とは」
久しく除いた金色の瞳に、厘は息を呑む。岬が憑依体質たる所以は「岬自身が原因」とでも言いたいのか。
「ただし、原因は違います」
「じゃあなんだ」
思考を読んだかのような台詞に、厘は眉を寄せる。庵が胡嘉子を好かない理由にも、いよいよ見当がついた。
「彼女に触れて解りました。普通なら閉ざされているはずの “扉” が二つ、開いています」
「……また扉か」
今日はそればかりではないか。先刻まで岬にべたり張り憑いていた幼い霊も、常識であるかのように放っていた。生憎、こちらは全く見当がつかない。
「魂の中には二つ、在るんです。霊魂の介入を許す扉。そして、憑依を許す扉が」
「介入と憑依? 二つの違いはなんだ」
「介入を許すだけで、人を操ることは出来ません。しかし、岬さんの魂はその内の一つがこじ開けられていた。まるで、無理やり錠を破ったように」
無理やり?———復唱する前に、胡嘉子は続けた。
「一つ目が引き金となって、二つ目の開錠も許してしまっている……そんなイメージです。本来なら拒むことが出来るはずの介入を、許してしまっている。つまり、彼女の優しさが仇となっているのです」
厘はますます顔を顰めた。
つまり、生まれつきではない。後天的に施された体質という事。しかし岬の本意ではなく、何者かの手が意図的に及んだ———彼女の性質を良いように利用している可能性も、無きにしも非ず。……ああ、くそ。虫の居所が悪いにも程がある。
「そいつは、岬の扉を開けた奴は誰なんだ」
「……先を急がないでください。私の妖術でも、確実に、とは言えません」
これまで饒舌だったはずの唇が、平行線に結ばれる。厘はとにかく、と先を急いた。動揺が瞳を泳せた。
「確実でなくてもいい。手掛かりでもなんでも、教えてくれ」
———その後。胡嘉子の放った『不確実な手掛かり』に、厘は目を見張った。不覚にも立ち眩む。血が少し抜けたような、これまでに覚えのない感覚だった。
‘ あの日、俺がいなければ ’
厘は額を押さえ、心許ない木造の柱に寄りかかる。「大丈夫ですか」と案じる胡嘉子の声など、聞き入れる余裕もなかった。
「厘さん。厘さん」
ようやく我に返ったのは、彼女が幾度も肩を揺らした後のこと。失っていた意識は、ほんの数秒に過ぎない。それでも、自分の体が異常を来していることに、薄々感づき始めていた。
「ああ……悪い。今日は帰る。ありがとうな」
「一遍に……あまり一遍に、精気を注がないよう気をつけなさい。いえ……絶対に、これだけは守ってください」
ふらつく足を滑らせる。その背に向かい、胡嘉子は被せた。
でないと、貴方が死にますよ───。加えられた言葉に、厘は慄くことなく振り返る。
「俺が、岬を残して逝けると思うか。……この様だぞ」
放った瞬間。『使命』など、もう頭に無かった。
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