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第8章 愛の行方は揺るぎなく
39話
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「……珍しいですね。お一人ですか?」
翌朝。岬は墓詣りを済ませた後で、彼女を尋ねた。菊の化身であるという胡嘉子は、やはり苦手な香りを纏っていた。
「すみません。少し、聞きたいことがあって」
「いいですよ。中へどうぞ」
一か月ほど前、踏み締めた畳に再び足を落とす。ひやり、爪先は一瞬にして感覚を失う。氷上のような畳も、風貌も変わらないけれど、彼女に以前の気だるさは感じられなかった。むしろ、来ることを知っていた、とでも言いたげな様子だ。
「厘さんのこと、ですよね」
畳に腰を下ろしながら、金色の瞳を覗かせる。やはり、と岬は喉を鳴らした。
「はい。……昨日、倒れかけてしまって。息も苦しそうで。今は家で休んでいます」
「やはり、そうですか」
そして、胡嘉子は容赦なく、息継ぎもせずに告げた。
———今まで以上に、続けざまに負荷のかかる “送り込み” を場合、厘は
「死にます」
と。
「———……」
母の死を目前にしたとき。浮かび望んでいた極楽浄土という言葉は、もう二度と浮かばなかった。
死は、極楽などではない。居場所を奪うことも、世界を無色にすることも、もう知っていた。
岬は形見のペンダントを、強く握りしめる。———もう失いたくない……それなのに。
「震えないで、岬さん」
冷え切った手が、胡嘉子の両手に包まれる。温度を感じてはじめて、自分が震えていたのだと悟った。冷静に “死” を呑み込んだ脳が色を失いかけていることに、気が付いた。
震え。恐怖。暗闇。
───『阿呆……勝手に逝くな』
そして、差し込んだ光。
彼の世へ手を伸ばしたとき、厘が初めて放った言葉が、いまさら心の芯を弾いた。死を望んでいたあのときには、一言も思い出せなかったはずなのに。
「驚きました。あなたも彼を、そこまで想っているのですね」
胡嘉子は優しく微笑み、菊の香りを添えて岬を包み込む。棺に囲まれた母を彷彿とさせる香りが、皮肉にも母を思い出させた。陽だまりのようなぬくもりが、身体に優しく溶け込んだ。
「大丈夫ですよ」
「……」
「普通に過ごしていれば……今憑いている霊魂程度の対処なら、問題ありませんから」
飛沙斗は少し不満気に『えぇ、どういう意味?』と呻る。胡嘉子は意にも介さず、先を続けた。
「今の状態は、俗世で言う “風邪” のようなものです。ただし、症状は重いものと言えますが」
「じゃあ、厘は……」
「ええ。すぐに逝ってしまうわけではありません。あなたの……あなたが死に逝くまで、添い遂げることはできるはずです。人の寿命はそう長くはありませんし。ただ、」
重ねて、大量の精気を削がれなければ———。
胡嘉子は語尾を強調し、そう加えた。岬は震えを鎮めながら、煌びやかなその瞳を見つめる。
「私が、何かできることはないんでしょうか」
厘が注いでしまったら。完全憑依の間、止めることが出来なかったら。無理をして、自分の精気を削いでしまったら。
今までも、大量の精気を送り込んでくれた事があったのだろう。今後も同じような事が無いとは限らない。自分を救けるために、それも記憶に残らないまま厘が逝ってしまうなど、絶対に耐えられない。岬は拳を強く握りしめた。
「捨ててください」
「すて、る……?」
「はい。大切なものを守りたいのであれば、拒むことを覚えなさい。良心を捨てなさい」
胡嘉子の凛々しい声に、岬は肩で反応する。そして、反芻した。
———『己を穢してでも、守りたいと思えるのなら』
その夜、岬は最後に告げられた言葉を巡らせた。頭の中で、何度も。何度も。
「絶対……今度は絶対、私が護るよ」
細く息を吸い込む寝顔を、そっと覗き込む。安らかなその表情に涙が溢れ落ちたことを、厘は知らなかった。
翌朝。岬は墓詣りを済ませた後で、彼女を尋ねた。菊の化身であるという胡嘉子は、やはり苦手な香りを纏っていた。
「すみません。少し、聞きたいことがあって」
「いいですよ。中へどうぞ」
一か月ほど前、踏み締めた畳に再び足を落とす。ひやり、爪先は一瞬にして感覚を失う。氷上のような畳も、風貌も変わらないけれど、彼女に以前の気だるさは感じられなかった。むしろ、来ることを知っていた、とでも言いたげな様子だ。
「厘さんのこと、ですよね」
畳に腰を下ろしながら、金色の瞳を覗かせる。やはり、と岬は喉を鳴らした。
「はい。……昨日、倒れかけてしまって。息も苦しそうで。今は家で休んでいます」
「やはり、そうですか」
そして、胡嘉子は容赦なく、息継ぎもせずに告げた。
———今まで以上に、続けざまに負荷のかかる “送り込み” を場合、厘は
「死にます」
と。
「———……」
母の死を目前にしたとき。浮かび望んでいた極楽浄土という言葉は、もう二度と浮かばなかった。
死は、極楽などではない。居場所を奪うことも、世界を無色にすることも、もう知っていた。
岬は形見のペンダントを、強く握りしめる。———もう失いたくない……それなのに。
「震えないで、岬さん」
冷え切った手が、胡嘉子の両手に包まれる。温度を感じてはじめて、自分が震えていたのだと悟った。冷静に “死” を呑み込んだ脳が色を失いかけていることに、気が付いた。
震え。恐怖。暗闇。
───『阿呆……勝手に逝くな』
そして、差し込んだ光。
彼の世へ手を伸ばしたとき、厘が初めて放った言葉が、いまさら心の芯を弾いた。死を望んでいたあのときには、一言も思い出せなかったはずなのに。
「驚きました。あなたも彼を、そこまで想っているのですね」
胡嘉子は優しく微笑み、菊の香りを添えて岬を包み込む。棺に囲まれた母を彷彿とさせる香りが、皮肉にも母を思い出させた。陽だまりのようなぬくもりが、身体に優しく溶け込んだ。
「大丈夫ですよ」
「……」
「普通に過ごしていれば……今憑いている霊魂程度の対処なら、問題ありませんから」
飛沙斗は少し不満気に『えぇ、どういう意味?』と呻る。胡嘉子は意にも介さず、先を続けた。
「今の状態は、俗世で言う “風邪” のようなものです。ただし、症状は重いものと言えますが」
「じゃあ、厘は……」
「ええ。すぐに逝ってしまうわけではありません。あなたの……あなたが死に逝くまで、添い遂げることはできるはずです。人の寿命はそう長くはありませんし。ただ、」
重ねて、大量の精気を削がれなければ———。
胡嘉子は語尾を強調し、そう加えた。岬は震えを鎮めながら、煌びやかなその瞳を見つめる。
「私が、何かできることはないんでしょうか」
厘が注いでしまったら。完全憑依の間、止めることが出来なかったら。無理をして、自分の精気を削いでしまったら。
今までも、大量の精気を送り込んでくれた事があったのだろう。今後も同じような事が無いとは限らない。自分を救けるために、それも記憶に残らないまま厘が逝ってしまうなど、絶対に耐えられない。岬は拳を強く握りしめた。
「捨ててください」
「すて、る……?」
「はい。大切なものを守りたいのであれば、拒むことを覚えなさい。良心を捨てなさい」
胡嘉子の凛々しい声に、岬は肩で反応する。そして、反芻した。
———『己を穢してでも、守りたいと思えるのなら』
その夜、岬は最後に告げられた言葉を巡らせた。頭の中で、何度も。何度も。
「絶対……今度は絶対、私が護るよ」
細く息を吸い込む寝顔を、そっと覗き込む。安らかなその表情に涙が溢れ落ちたことを、厘は知らなかった。
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