42 / 50
第9章 浮わつく望みは憂わしく
41話
しおりを挟むハラハラと舞い散る桃色の花弁。岬は「満開だね」と翳すように手を伸ばす。試みて五回目。やっとのことで収めた欠片を、心底嬉しそうに見つめている。
「見頃だからな」
厘は羽織のなかで腕を組み、彼女の背を見守っていた。正直、気が気ではなかった。すべての想いを伝えるのが今日である、と決意を蒸し返せば、体を巡る糸が強く張った。それに——
「桜なんか見て、何が楽しいんだよ」
何故か庵も同行している。隣で文句を垂れながら、訝しげに眉を寄せている。岬が誘ったことには違いないだろうが、少しも空気を読めないのか、こいつは。厘は辟易した。せっかく人気のない、穴場のロケーションを用意したというのに。
「なんだよ」
「いいや。なんでもない」
厘は視線を背けるついでに見上げる。太い根を大地に下ろした桜の木と、舞い散る花弁。そして思い伏せる。まるでお前は岬のようだ、と。
控えめな花弁の色も、咲いてはすぐに散っていく脆さも、岬そのものだ。掴めそうで掴めない、この距離感も。
「おい岬。腹が減った」
庵ははらりと降る桜を退け、のらりくらりとそう放つ。
一見、花より団子とも取れる台詞には、おそらく裏がある。十中八九、敵対心があるのだろう。佇む季節も色も似通っているのに、“日本の花” としてスポットライトを浴びるのは、いつでもこの桜であるからだ。従って、今回の不躾は特例、お咎めなしとした。
「今用意するよ。私もお腹空いてきちゃった」
「敷物、持ってきたか」
「うん」
レジャーシートを広げると、風に煽られて花が舞う。軽く、四方に散らばった。
「本当に誰もいないね……いつ見つけたの?この場所」
岬は何段も重なる弁当箱を、上から順にせっせと並べる。厘はその様子を目で追いながら、沈黙した。
穴場なのは確かだが、見晴らしのいい丘の上に一本桜は良く映える。シーズン真っ盛りに誰一人として現れないなど、到底有り得ない。しかし、誰一人として現れない。
念には念を。厘は、妖術で一本桜の気配を消していた。
「お前が学校に居る間、たまたま見つけたんだ」
ただ、岬に知られるのは気恥ずかしい。この空間を誰にも邪魔されたくなかった、と打ち明けるのは、想いを伝えてからの方が賢明だ。厘は岬お手製のサンドイッチを頬張りながら、目を背けた。
「うまいな」
「本当?よかったぁ……」
彼女は頬を緩めて「綺麗だね」と続けた。見上げた先には、三人を覆う桜の影。
「岬」
「え……?」
そして、細く長い髪に絡まる花弁。取ってやろうと伸ばした手は、庵の体に阻まれた。
「おい、ついてんぞ」
「あ、本当だ。ありがとう」
どうやら、庵の初動に先を越されたらしい。行き場のなくした手を下ろし、厘は再び頬張った。
「お前、意外と抜け目が無いな」
「……あぁ?どういう意味だコラ」
「自覚なしか。余計にタチが悪い」
「自覚?なんのだよ、はっきり言え!」
うるさい。やかましい。邪魔者第一号。果たしてこいつが岬に抱く感情は、恋心なのか、否か。……ああ、知りたくもない。
「酒でも飲んで大人しくしていろ」
「なっ……あるなら先に言え」
懐から純米吟醸を取り出すと、庵は寄せていた眉間を伸ばし、大人しく注ぎだした。やはり花より団子か。
「へぇ……梅、って字が入ってるんだね、このお酒。お花見にピッタリ」
岬は二升瓶を覗き込み、興味深そうに言った。
「そういえばそうだな」
「本当に知らなかったのかよ。皮肉なもんだな」
一瞬で酒を流し込んだ庵を、厘は密かに睨み見る。が、反論はできなかった。無自覚とはいえ、自分でもそう感じていたからだ。
「皮肉……?どうして?」
「日本の代表花———梅はその座を取って代わられたからな。この壮大な桜に」
かつて、詩人が詠っていた “花” といえば、香り高い梅ひとつ。しかし、時代を巡るごとにその “花” は桜の意へと変化した。そうでなければ、梅の妖花は、ああまで捻くれてはいないだろう。国花と謳われる胡嘉子と仲が悪いのも、頷ける。
厘は懐かしい顔を浮かべながら、苦笑した。
「でも梅は、日本の春をいち早く知らせてくれるんだよね。あの香りが、私もお母さんも大好きだった」
対して岬は朗らかに微笑む。
「そうか」
以前から感じていた通り、花籠親子は視覚よりも嗅覚から季節を取り込むらしい。その要因が少しでも “リリィ” にあったのなら、俺はどんなに幸せだろう。厘は心の内で加えながら、目を細めた。
「岬。酒注いでくれ」
「うん」
傍ら、庵は清々しいほど意に介さず、猪口を差し出す。厘は呆れながらも、同じように流し込む。
梅を拵えた酒は、想像以上に深い味わいだった。岬に注いでやれる数年後に、また用意してやろうと思えるほどに。
「やっぱり俺ぁ、花を見るよりこっちのが性に合う」
「お前、酔うなよ。面倒だから」
「うるせぇ。……大体、花見なんて何の意味があんだか……俺にはさっぱりわかんねぇよ」
庵は文句を垂れながらも、岬と桜へ交互に目を配る。どうやら、儚い春の代名詞に彼女を投影していたのは、この呑兵衛も同じらしい。少しはまともな感性が備わっているようだ、と厘は息をついた。
「でも、ただの風習じゃないと思うんだ。お花見って」
そのまま、岬の言葉に耳を傾ける。彼女は米麹の甘酒を含みながら、庵をまっすぐに見据えた。
「大切な人と、この瞬間にしかない景色を同じ角度で共有したい……とか、ね。私は、それが “意味” なんだと思うな」
気恥ずかしそうに放った直後、彼女は沸々と頬を染める。
「え、えっと……違うの。私がそう思うだけで、全然っ、自惚れてるわけじゃないよ……」
そして、顔を横に振りながら俯いた。こちらの様子をチラチラと窺う視線は、厘に意を汲ませた。肩を揺らしながら、懸命に笑みを堪えた。
———『桜が咲いたら、花見に行こうか』
そう誘ったのは誰か、辿るまでもない。
岬の自惚れではない。誘った動機も、想いを伝える場所として選んだのも、つまりは “意味” の通りだからだ。
「なあ、岬」
呼んでも未だ、俯く頬に手を伸ばす。瞬間、敷物を巻き上げるほどの風が、乾いた陽気を纏いながら訪れる。勢いよく桜を靡かせ、同時に視界を霞ませた。
しかし、横に舞っていた花びらは、すぐにハラハラと落ちていく。厘は伸ばした手をそのままに、瞬きをした。
———ほんの、一瞬だった。
「なんだこれ、酒じゃねぇなぁ」
次に瞼を開いたとき、岬は岬ではなくなっていた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
5
1 / 3
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる