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第9章 浮わつく望みは憂わしく

42話

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「……お前、何者なにもんだ」

 酔いを覚ました様子で、庵は素早く立ち上がる。岬の額に自ら手を押し当てる。
 至近距離で向かい合う二人。いつもなら庵に一発拳を入れているところだが、今はその必要もない。中にいるのは岬でない、と庵も察していたからだ。

 今日は新月ではない———つまり、この完全憑依……また悪霊か?とりあえず、夢魔ではないようだが。
 厘はクンッと空気を嗅ぎ、鈍色の瞳を光らせた。

「あぁ?何者でもいいだろう」

 言いながら、岬の眉間は皺を刻む。そして、額のもとにある庵の手首を鷲掴み「とりあえず、酒を寄越せ」と唸る。喉が切れてしまいそうなほど、険しい声だった。

「いっ、つ……」

 ……なんだ?こいつが呻くほどの腕力なのか?
 厘はすぐに退いた庵に、目を見開いた。華奢で非力な岬の身体。それをいとも簡単に操り、本来の力・・・・でねじ伏せられるほど強いのか。

「酒はやる。だが、素性を明かせ」

「白髪の……へぇ、お前が厘か」

 俺を、知っている———?
 にやり、と持ち上がる口角に、悪寒が走った。同時に訪れる、焦燥感。
 精気を底まで減らされる前に、岬から出さなければ———たとえ、この身が朽ち果てたとしても。

「上物だ。……飲みすぎるなよ」

 さかずきに酒を注ぐ。岬の右手は上機嫌にそれを受け取る。その様を見届けながら覚悟を呑んだ直後、喉は想定以上に窮屈だった。

「この小娘が下戸げこでないことを祈ろう」

 対して堂々と佇む霊魂は、岬の背筋を反るように伸ばし、喉を鳴らしながら酒を含んだ。
 いいから……早く明かせ。厘は吊り上った瞳で、妙にいい飲みっぷりを睨みつけた。

「ああ~っ、んめぇ!こりゃあ確かに上物だ。褒めて遣わす」

「対価を払え」

「……ククッ。なんだなんだ、やはり焦っているなぁ?」

 やはり———。嘲笑を含んだ言葉に、厘は顔をしかめる。庵は痛めた手を摩りながら、奴を鋭く見下していた。岬の身体でなければ、とっくに制裁を加えたい心情だろう。生憎、今回ばかりは気持ちを汲んだ。

「まぁまぁ。酒を嗜みながらゆ~っくり話そうぜ。俺も久々なんだ」

「お前と交わす杯はない。さっさと吐け、下衆げす野郎」

 瞬間、岬の眉がピクリと動く。そして腹を抱えて笑い出した。

「さすがあやかし一派。よく見抜いたなァ、俺が下衆だと」

 お門違いにもほどがある。厘はその胸倉を引き寄せた。

「あぁ?違うな。見抜いたのではない。岬の体を乗っ取った時点で下衆だと、俺が決めたんだ」

 ドスを利かせた声に、岬の喉は再び乾いた笑いを響かせる。

「いい……いいなァ。お前のその眼」

「なにがだ」

「殺気と愛に塗れた混沌が、だよ。そうだな……その眼に免じて教えてやろう。俺の正体はな、」

 言いながら唇を舐める岬の妖艶さに、思わずゴクリと喉を鳴らす。先に素性を見抜かれたのは自分の方だ、と厘は悟った。

「いわゆる下衆ヤロウ。かつては人を襲ったこともある。俺は “鬼” だ」

「鬼……?」

「ああ。まぁ今ではすでに霊魂……本体は全身焼き切れているが———」

「……は、」

 聞き入るあまり、油断していた。
 ものの一瞬で後ろ首を捕まれ、唇を重ねられる。後の祭り。それでも辛うじて、岬の身体を払い退けた。

「……どういうつもりだ」

 傍で様子を見ていた庵は、会話の最中に妖術で編み上げた縄を、細い手首に縛り付ける。行間を読めない庵でさえ、ただならぬ空気を感じたのだろう。厘はその様を見据えながら、逡巡した。
 古から伝わる昔話。鬼は人を襲っていただけではない。人を襲い、襲われ、恨みを募らせていたという。となれば奴は、悪霊ではない。───怨霊おんりょうだ。

「お前……まさか知っているのか」

「何のことだ?」

 後ろに手を縛られたまま、鬼は口角を持ち上げる。初めから鼻についていた余裕と、重ねられた唇に見える真実。おそらく、岬の体質と注ぐ精気の関係を知っている者。そして、俺の死を望む者———いや……考えすぎか。
 推測は辿るたびに、良くない方向へ進んでいく。これが夢であれば、どんなに良かっただろう。

 ———『一遍に……あまり一遍に、精気を注がないよう気をつけなさい。でないと、貴方が死にますよ』

 浮わついた望みの傍ら、胡嘉子の忠告が蘇る。
 平気だ……この怨霊を追い出すだけなら、なんとか保つだろう。本来の岬が帰ってくれば、変わらずあの笑顔が見られる。必ず、見られる。

「とぼけるな。この娘の命に、俺が関わっていることをだ」

 厘は拳を握りしめ、唇を重ねた真意を突き詰める。岬の皮を纏った鬼は存外、素直に「ああ」と頷いた。
 ……まだ。まだだ。厘はその華奢な体に影を落とし、爪がめり込むほど強く、拳に力を込めた。まだ、明かさなければいけないことがある。

「お前の裏で、糸を引いているやつがいるな」

「あー、これ言っていいやつか? まー口止めはされてねぇからなァ」

「つまり、いるということか」

「ははは、こりゃあ話が早くていい」

 岬には似合わない、高飛車な笑い声。ほんのりと頬が赤いのは、アルコールが回ったからだろう。

「こちらも早いに越したことはない。俺にはすでに見えている。……お前が令を下された相手は “地縛霊” だろう。岬と……この娘と母親が一度訪れた、河川敷の地縛霊だ」

 目覚めたとき、岬はすぐ素面しらふに戻れるのか。そう案じられるほどに、心の内は存外、穏やかだった。過去と照らし合わせ、核心を突きながらも冷静だった。

 すべて、胡嘉子が岬に触れたおかげで分かり得た。
 ときは数年前。一輪の鈴蘭が救われた、あの河川敷。

 ———『あなたを蝕んでいた瘴気。それは、河川敷にへばりついた地縛霊のものです。随分と溺愛していたようで』

 ゆっくり、慎重に紡がれた胡嘉子の言葉。おそらく、次に続く事実に必ず苦しむことになる、と解っていたからだ。

 ———『そこからあなたを救った宇美さんは、霊感が強くて、ですね……地縛霊も、腹いせに彼女自身を・・・・・呪うことは叶いませんでした。……だから、彼女の娘に呪いをかけた。霊に精気を奪わせるよう、憑依の扉をこじ開けたのです。娘が得体の知れないものに憑りつかれる。それは、母親の宇美さんにとって、一層苦しい結果になると地縛霊は踏んでいたのでしょう』

 事の発端は、瘴気に侵された草花の救出———。厘は事実を聞き、苦しんだ。そして、同時に理解した。岬を守り抜くことは、宇美に託された使命だからではない。あるべき必然なのだ、と。


「鬼よ。最後にあと一つだけ訊いておきたいことがある」

 そう放ったあと、正面から「あ?……最後?」とようやく卑しい笑みが消えた。
 自分が追い出されることなど、想定していないのだろう。なぜ地縛霊へ下ったのかは不明だが、霊魂となったいまでも自分の力を過信している。そして、鈴蘭の妖花がこの娘に尽くすと知っている。全霊を尽くし護ったとしても、追い出せないほどの力で憑くことができる、と信じている。

 しかし、この推測が正しければ、情報量に不足があるな———。厘はほくそ笑み、岬の顎を掬い上げた。

「な、んだ……」

 庵よ。手首を縛る手際の良さは褒め讃えてやるが、ある意味、愚策かもしれないぞ。

「へぇ……かわいいものだ」

 中身は違えど、必死でこちらを見上げる岬の瞳に、ゾクゾクと得体の知れない煩悩が込み上げてしまう。厘は懸命に本能を縛った。

「ああ、遅くなってすまない。最後の問いだ。心して聞け」

「だっ、から、なんだってんだよ」

 必死に喉を通したような声に、そっと近づきながら訊ねた。

「致死量を知っているか」

「……はぁ?」

 腑抜けた反応を前に、厘は唇を近づける。そして、鈍色の瞳を赤褐色へと変え、毒素をふんだんに這い上げた。
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