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第10章 陽だまりは勇ましく
43話
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<お前の裏で、糸を引いているやつがいるな>
頭の奥底で、反響する穿った声。金縛りにあったかのような自分の意識。
岬は閉ざされた視界の中で、ある違和感を覚えた。誰かがこの身体を操っていることを、自ら理解できている。今までにはない感覚だった。同時に蘇る、胡嘉子の言葉。
———『大切なものを守りたいのであれば、拒むことを覚えなさい』
拒むこと———意味しているのは、霊魂を尊重して身体を明け渡すのを“拒むこと”であると、岬は悟っていた。
……絶対、厘を死なせない。そう誓ったはずなのに、どうして。どうして私はまた、完全憑依を許しているの。
「致死量を知っているか」
「……はぁ?」
早く。早く目覚めて。でなければ厘は、また私を救うために無理をする。お願いだから……早く、目を覚ましてよ。
深海に沈んだような闇の中、岬はもがいた。まだ自分は迷っているのか、と嘆いた。———ずっと霊魂の居場所であってきた、この良心を捨てる。己を穢して選ばなければいけない。それが今だと、解っているのに。
視界を明らめると、音もなしに舞う花びらがハラハラと降り注いでいた。
「……」
視線を落とすと、胸元に沈んだ低い体温。薄紫に唇を染めた厘の姿が、そこにはあった。
「厘———!」
岬は血相を変えて起き上がり、その上半身を抱き上げる。彼は薄い瞼をゆっくり開くと、こちらを見上げて力なく微笑んだ。
「無事……だったようだな」
安堵と共に漏れる息。見るからに力尽きていて、しかし瀕死ではない。それでも岬は、悔まずにはいられなかった。また、命を賭して自分を護ってくれたのだ、と語られずとも解っていた。
「なんだよ、らしくねぇ……」
傍にいた庵は軽く舌打ちをした直後、厘の腰を折るように担ぎ上げる。文句を垂れながらも、庵は歯を食いしばっていた。まるで、鏡を見ているようだった。
「ねぇ庵……私は、何に憑かれていたの……」
岬は訊ねる。シートに散乱した酒と桜の痕跡を見据え、響いた厘の声を懸命に起こしながら、庵を見上げた。
「鬼、と言っていた」
「……おに?」
「恨みつらみの類。そういう “気” をビシビシ感じた。憑いてた野郎は憎んでいたんだろうよ。……何かを強く」
ほら。片して早く帰るぞ。
言いながら、庵は春風に金色の髪を靡かせる。彼の肩に担がれた厘は、不服そうにその横顔を睨み見る。しかし、いつもなら「放せ」と退けるはずの厘は、大人しくしたがっていた。それほどに堪えているのかもしれない。
岬は怠さの残った体で敷物を仕舞い、リュックを背負う。行きよりもはるかに重たく感じられた。
「庵は、見てたんだよね」
「ああ、見てたぞ。全部な」
大通りを避け、出来る限り近道を行く家路のなか、岬は俯きながら影を踏んだ。
「厘は私を、また救けてくれたんだよね」
悪霊である “夢魔” が憑いていたときと、きっと同じ様に———心の内で加えながら、思い返す。厘の体力がこうまで削られていた様子は、夢魔のときと酷似していた。
「護りたかったんだろうな、心底お前を。ただ、こいつは荒療治が過ぎンだよ。……萎れるまで注がなきゃ、救けられなかったんだろうな」
答えた直後、平行線に口を縛る庵。傾いた西日に照らされた横顔は、再び悔恨の色を覗かせた。
「庵は、知ってたの……?厘が私に、その……」
「ああ……精気を送り込む、ってやつをか?」
岬は項垂れた厘の唇を一瞥し、頷いた。
「とっくに知っていた。目の前でやられるとは思ってなかったけどな」
庵は意地悪く口角を持ち上げたあと、岬の頭を優しく撫でる。逞しい手の感触が、新鮮だった。
「胸糞悪ぃが……まぁ、お前が無事なら俺は良い。こいつも役に立つってことだ」
庵も、心配してくれていたのだろうか。
あやふやな記憶を呼び起こしても、彼の様子を思い出すことはできなかった。残っているのはやはり、籠ったように響く厘の声だけ。
「厘……厘、」
岬は彼の手を握り、絞り出した声を落とす。触れた体温はまだ生温かく、ここに在ることを教えてくれた。
「ありがとう。ありがとう……。でも、もう無理しないで。私を救うために、削らないで」
一度に大量の精気が削がれなければ———。胡嘉子からの忠告を脳裏に浮かべながら、思わず唇を噛みしめる。厘はその手を軽く握り返した。
「残念だが、お前くらいしかないんだよ。俺の無理の為所は」
厘が放った瞬間、生温かい風に水と草木の匂いが混じる。直後、何かに引き寄せられるように振り返り、岬は目を瞠った。
———この景色、この場所……お母さんと来たことがある。ずっと前にも。最近も。
「ここって……」
記憶に新しいのは、胡嘉子に触れられた時のこと。長い夢の中で見た、母が懸命に厘を救い出していた風景。足元に続く河川敷では現在も、自由に伸びた草が揺れていた。
大通りから少し外れた、通学路でも駅沿いでもない道。家から遠くはないはずなのに、どうして今まで気づかなかったのだろう。厘が往きにこの道を通らなかったのは、もしかして———
「どうした?」
「ここ……たぶん、厘の元の居場所なんだ」
首を傾げ、立ち止まる庵。傍ら、岬は河川敷に誘われ、足を向かわせながら背後に答える。体に電流のような刺激が走ったのは、その直後だった。
「い、た……っ」
ピリピリ、と、爪先から脳天までを貫くような細い痛み。青い草木に囲まれながら、岬は思わずしゃがみこんだ。
痛い。痛い。痛い。
「岬……?」
「あっ、おい!お前まだ……チッ、ったく、」
近くでゆっくりと草木を踏む、誰かの足音。見上げると、そこには庵の手を逃れた厘が覗いていた。
いつもよりも青白い肌。覇気のない瞳。岬は彼の、血色の薄い頬に手を添えて、懸命に微笑んだ。唇が震えてしまわないよう、力を込めた。
「大丈夫……少し、頭痛がしただけだよ」
反対側で額を押さえながら、岬は堪えた。そして直感した。この場所から早く退くべきであることを、底に眠る何かが訴えていた。
「厘。歩ける?」
「……ああ。お前は本当に平気か」
「うん。早く……早く帰ろう」
岬は立ち上がり、冷えた厘の手を強引に引く。河川敷を出ようと、強く草を踏みしめる。———しかし、それは叶わなかった。
「ッ———!?」
草木が足元に絡みつくように、離れない。足首を噛まれているように感じるほどの、鋭い痛み。それに、
『……前の……だ』
籠った音で、頭の奥に響く声。次第にその音は大きく、明確になっていき、岬は言葉の意味を悟った。
———『お前のせいだよ』
鈍器で脳を殴られた感覚。何度も、何度も。同じ言葉をなぞる声に、岬は顔を覆った。
「う、ぅ……」
「岬……?」
ダメなのに。ここから出なきゃ、ダメなのに。意志とは反対に、岬は再び河川敷に沈んだ。
土の、湿った匂いが鼻を突く。俯いて露わになった後ろ首に、ぽつり滴が零れ落ちる。雨だった。
「厘。出て……お願い。ここを出て、」
「何を言う。俺が、お前を置いて行けると思うのか」
違うの。厘、ダメなの。もう削れているんでしょう。“これ以上” はきっと、ダメなんでしょう。きっと、きっと———。
岬は、余力で首を振りながら「来ないで」と呻く。しかし、その声は糸よりも細く、厘の耳には届かなかった。代わりに、頭の奥で響く声は音量を増し、一層思考を支配した。
『母親と違ってお前は弱い。だから厘を、護れないんだよ』
それは、ひしゃげた女の声。続いて響く嘲笑に、岬は脈を荒立てた。響いた声の、言う通りだった。
私は厘を護れない。いつも護られるばかりで、何一つ与えられたことがない。こんなにも大切なのに、何一つ。
ドクンドクン、ドクンドクン———体中の血液が、鼓膜を叩く。厘に護られた命が確かに在ると、今更愛おしく思う。しかし、握っていた拳は心音が荒立つと同時、脱力して開花した。
また。また。自分の中に侵入される瞬間を、存在を分かっている。それなのに、止められない。
目は覚めているはずなのに、視界は闇に閉ざされた。
頭の奥底で、反響する穿った声。金縛りにあったかのような自分の意識。
岬は閉ざされた視界の中で、ある違和感を覚えた。誰かがこの身体を操っていることを、自ら理解できている。今までにはない感覚だった。同時に蘇る、胡嘉子の言葉。
———『大切なものを守りたいのであれば、拒むことを覚えなさい』
拒むこと———意味しているのは、霊魂を尊重して身体を明け渡すのを“拒むこと”であると、岬は悟っていた。
……絶対、厘を死なせない。そう誓ったはずなのに、どうして。どうして私はまた、完全憑依を許しているの。
「致死量を知っているか」
「……はぁ?」
早く。早く目覚めて。でなければ厘は、また私を救うために無理をする。お願いだから……早く、目を覚ましてよ。
深海に沈んだような闇の中、岬はもがいた。まだ自分は迷っているのか、と嘆いた。———ずっと霊魂の居場所であってきた、この良心を捨てる。己を穢して選ばなければいけない。それが今だと、解っているのに。
視界を明らめると、音もなしに舞う花びらがハラハラと降り注いでいた。
「……」
視線を落とすと、胸元に沈んだ低い体温。薄紫に唇を染めた厘の姿が、そこにはあった。
「厘———!」
岬は血相を変えて起き上がり、その上半身を抱き上げる。彼は薄い瞼をゆっくり開くと、こちらを見上げて力なく微笑んだ。
「無事……だったようだな」
安堵と共に漏れる息。見るからに力尽きていて、しかし瀕死ではない。それでも岬は、悔まずにはいられなかった。また、命を賭して自分を護ってくれたのだ、と語られずとも解っていた。
「なんだよ、らしくねぇ……」
傍にいた庵は軽く舌打ちをした直後、厘の腰を折るように担ぎ上げる。文句を垂れながらも、庵は歯を食いしばっていた。まるで、鏡を見ているようだった。
「ねぇ庵……私は、何に憑かれていたの……」
岬は訊ねる。シートに散乱した酒と桜の痕跡を見据え、響いた厘の声を懸命に起こしながら、庵を見上げた。
「鬼、と言っていた」
「……おに?」
「恨みつらみの類。そういう “気” をビシビシ感じた。憑いてた野郎は憎んでいたんだろうよ。……何かを強く」
ほら。片して早く帰るぞ。
言いながら、庵は春風に金色の髪を靡かせる。彼の肩に担がれた厘は、不服そうにその横顔を睨み見る。しかし、いつもなら「放せ」と退けるはずの厘は、大人しくしたがっていた。それほどに堪えているのかもしれない。
岬は怠さの残った体で敷物を仕舞い、リュックを背負う。行きよりもはるかに重たく感じられた。
「庵は、見てたんだよね」
「ああ、見てたぞ。全部な」
大通りを避け、出来る限り近道を行く家路のなか、岬は俯きながら影を踏んだ。
「厘は私を、また救けてくれたんだよね」
悪霊である “夢魔” が憑いていたときと、きっと同じ様に———心の内で加えながら、思い返す。厘の体力がこうまで削られていた様子は、夢魔のときと酷似していた。
「護りたかったんだろうな、心底お前を。ただ、こいつは荒療治が過ぎンだよ。……萎れるまで注がなきゃ、救けられなかったんだろうな」
答えた直後、平行線に口を縛る庵。傾いた西日に照らされた横顔は、再び悔恨の色を覗かせた。
「庵は、知ってたの……?厘が私に、その……」
「ああ……精気を送り込む、ってやつをか?」
岬は項垂れた厘の唇を一瞥し、頷いた。
「とっくに知っていた。目の前でやられるとは思ってなかったけどな」
庵は意地悪く口角を持ち上げたあと、岬の頭を優しく撫でる。逞しい手の感触が、新鮮だった。
「胸糞悪ぃが……まぁ、お前が無事なら俺は良い。こいつも役に立つってことだ」
庵も、心配してくれていたのだろうか。
あやふやな記憶を呼び起こしても、彼の様子を思い出すことはできなかった。残っているのはやはり、籠ったように響く厘の声だけ。
「厘……厘、」
岬は彼の手を握り、絞り出した声を落とす。触れた体温はまだ生温かく、ここに在ることを教えてくれた。
「ありがとう。ありがとう……。でも、もう無理しないで。私を救うために、削らないで」
一度に大量の精気が削がれなければ———。胡嘉子からの忠告を脳裏に浮かべながら、思わず唇を噛みしめる。厘はその手を軽く握り返した。
「残念だが、お前くらいしかないんだよ。俺の無理の為所は」
厘が放った瞬間、生温かい風に水と草木の匂いが混じる。直後、何かに引き寄せられるように振り返り、岬は目を瞠った。
———この景色、この場所……お母さんと来たことがある。ずっと前にも。最近も。
「ここって……」
記憶に新しいのは、胡嘉子に触れられた時のこと。長い夢の中で見た、母が懸命に厘を救い出していた風景。足元に続く河川敷では現在も、自由に伸びた草が揺れていた。
大通りから少し外れた、通学路でも駅沿いでもない道。家から遠くはないはずなのに、どうして今まで気づかなかったのだろう。厘が往きにこの道を通らなかったのは、もしかして———
「どうした?」
「ここ……たぶん、厘の元の居場所なんだ」
首を傾げ、立ち止まる庵。傍ら、岬は河川敷に誘われ、足を向かわせながら背後に答える。体に電流のような刺激が走ったのは、その直後だった。
「い、た……っ」
ピリピリ、と、爪先から脳天までを貫くような細い痛み。青い草木に囲まれながら、岬は思わずしゃがみこんだ。
痛い。痛い。痛い。
「岬……?」
「あっ、おい!お前まだ……チッ、ったく、」
近くでゆっくりと草木を踏む、誰かの足音。見上げると、そこには庵の手を逃れた厘が覗いていた。
いつもよりも青白い肌。覇気のない瞳。岬は彼の、血色の薄い頬に手を添えて、懸命に微笑んだ。唇が震えてしまわないよう、力を込めた。
「大丈夫……少し、頭痛がしただけだよ」
反対側で額を押さえながら、岬は堪えた。そして直感した。この場所から早く退くべきであることを、底に眠る何かが訴えていた。
「厘。歩ける?」
「……ああ。お前は本当に平気か」
「うん。早く……早く帰ろう」
岬は立ち上がり、冷えた厘の手を強引に引く。河川敷を出ようと、強く草を踏みしめる。———しかし、それは叶わなかった。
「ッ———!?」
草木が足元に絡みつくように、離れない。足首を噛まれているように感じるほどの、鋭い痛み。それに、
『……前の……だ』
籠った音で、頭の奥に響く声。次第にその音は大きく、明確になっていき、岬は言葉の意味を悟った。
———『お前のせいだよ』
鈍器で脳を殴られた感覚。何度も、何度も。同じ言葉をなぞる声に、岬は顔を覆った。
「う、ぅ……」
「岬……?」
ダメなのに。ここから出なきゃ、ダメなのに。意志とは反対に、岬は再び河川敷に沈んだ。
土の、湿った匂いが鼻を突く。俯いて露わになった後ろ首に、ぽつり滴が零れ落ちる。雨だった。
「厘。出て……お願い。ここを出て、」
「何を言う。俺が、お前を置いて行けると思うのか」
違うの。厘、ダメなの。もう削れているんでしょう。“これ以上” はきっと、ダメなんでしょう。きっと、きっと———。
岬は、余力で首を振りながら「来ないで」と呻く。しかし、その声は糸よりも細く、厘の耳には届かなかった。代わりに、頭の奥で響く声は音量を増し、一層思考を支配した。
『母親と違ってお前は弱い。だから厘を、護れないんだよ』
それは、ひしゃげた女の声。続いて響く嘲笑に、岬は脈を荒立てた。響いた声の、言う通りだった。
私は厘を護れない。いつも護られるばかりで、何一つ与えられたことがない。こんなにも大切なのに、何一つ。
ドクンドクン、ドクンドクン———体中の血液が、鼓膜を叩く。厘に護られた命が確かに在ると、今更愛おしく思う。しかし、握っていた拳は心音が荒立つと同時、脱力して開花した。
また。また。自分の中に侵入される瞬間を、存在を分かっている。それなのに、止められない。
目は覚めているはずなのに、視界は闇に閉ざされた。
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