白の甘美な恩返し 〜妖花は偏に、お憑かれ少女を護りたい。〜

魚澄 住

文字の大きさ
46 / 50
第10章 陽だまりは勇ましく

45話

しおりを挟む
 母も、厘も、口を揃えて「岬は強くなれる」と言っていた。しかし実際のところ、抗っても、探っても、開かれた扉を閉ざすことは叶わなかった。完全憑依は完全憑依のまま、例によって厘の精気を貪った。
 もう二度と、大切な人を失いたくない。死なせない。そう誓ったはずなのに。


「岬……岬!」

 え……?

 憶えのある、柔らかい光。岬はゆっくりと瞼を持ち上げ、それを捉える。眩しくて眉を寄せる。瞳孔が狭まっていくのを感じながら、無意識に伸びていた手に、岬は戸惑った。そして同時に、これは夢か、もしくは極楽浄土であると悟った。でなければ、この声が届くことはあり得ない。

「岬。起きてる?」

 大好きな母の、柔らかい声だ。

「お母さん……」

 体は海に浮かんで、思うように動かない。腕も足も波にとられて、それでも気持ちがいい。岬は思わず目を閉じた。
 脳器官を持たないクラゲのように、なにも考えずにプカプカと浮いているのも悪くないのかも、と一瞬たしかに耄碌した。
 また厘に叱られそうだ、と、重たい瞼を持ち上げる。しかし、目の前にいるはずの母の表情は、後光のせいで窺えない。シルエットさえ、象ることはできなかった。

「ごめんね。お母さん、最後まで岬を守ってあげられなくて」

 それでも、前に居る事だけは分かる。クラゲになることは叶わず、しかし声を聞いただけで涙が溢れる心に、岬は安堵した。

「守ってくれていたんだね。私、何も知らなくて。何も、解っていなくて……。厘にも救けられてばかりで、」

 何度拭っても拭いきれない、涙の粒。現実ではないからか、海に雫が浮遊する。母の光を通して、それはキラキラと一層目を眩ませた。

「そう。リリィの本当の名は、厘っていうのね。お母さん、最期まで知らなかったなぁ」

「……どうして、お母さんは———」

「うん。リリィがただの生花じゃないって、知っていたよ」

 母は包み込むようなトーンで打ち明けた。
 あの日、幼い岬が倒れた直後、厘の花弁を呑ませたこと。自分が亡き後も必ず護ってほしいと唱え続けたこと。どんな形でもいいから一人でも多く、自分母親以外の人を愛してほしいと願っていたこと。

「岬は、厘のことが好きなんだね」

「……うん」

 岬は俯き加減で頷く。初恋を打ち明けることの気恥ずかしさを、齡十七にして初めて知った。

「大丈夫。それなら必ず救えるよ」

 きっと、じゃないな、絶対に。力強く加えられる言葉。聲色こわいろで、微笑んでいるのが分かった。

「でも、どうやって……」

「もう分かっているはずでしょう。岬」

 被せるように告げられる。岬は喉を鳴らした。

「大丈夫。だって、ちゃんと見守ってきた私が言うんだもの」

 寄せられる強い波が、浮いた涙の粒を攫っていく。瞬間、ほんの一瞬。光の中に、母のシルエットが浮かんだ気がした。
 四十九日のあと、ぽっかりと空いた穴。あの感覚は、寂しさのせいだけではなくて。きっと居場所を失くしたこの体を、ずっと支え続けていた。彼の世へ逝ってしまう、寸前まで。

「これから……私が戻ったら、お母さんは消えちゃうの……?」

 流されきった涙が、再び海を彷徨う。対して母は陽気に笑いながら、岬の身体を包み込む。優しくも勇ましい陽だまりが、溶けて体に注ぎ込まれるようだ。

「消さないでよ。寂しいじゃん」

 静かに、耳元に落とされた声。岬は笑った。どこまでも、母らしい。

「岬。まだ、あのペンダントは持っている?肌身離さず」

「……?うん、持ってるよ」

「じゃあ、よく聞いて———」

 今までになく、真剣に紡がれた教え。岬は耳を澄ませた。
 幼い頃、眠る前によく聴いていたおとぎ話のようで、まるで現実とは信じがたい事実。それでも、岬には信じる以外の選択肢は残されていなかった。
 非情な現実から救いだしてくれたのは、いつだって、“おとぎ話” から出てきたような彼ら・・だったから。

「絶対に大丈夫。……いってらっしゃい。岬」

「行ってきます」

 離れていく陽だまりに、もう手は伸ばさない。岬は、温かい光に別れを告げる。最後だけ、微かに震えた母の声を留めるように、ペンダントを強く握りしめた。

 ・
 ・
 ・

 大丈夫。もう、私は分かっている。人を愛する力の強さも、何を犠牲にしても護りたいと思えるほど、愛しい存在も。
 光を失くした暗闇のなか、岬は再び聳える扉に手を触れる。波に足を掬われず立っていられるのは、気持ちに整理がついたからか。

 岬はそっと息を吐く。

 お母さん。私、厘が大好きだよ。お母さんと同じくらい、大好きで。今は厘と一緒に生きていたくて、彼のことで頭が一杯。でも、随分最近まではそれが怖いと思ってた。あなたへの愛を、忘れてしまうようで———。
 一番はお母さんでなければいけない。そうやって、ずっと躊躇っていた。厘や庵と出会うまでは、一つの居場所しか選択肢がなかったから、今の今まで知らずにいたんだ。

「……でも、違ったね」

 愛する気持ちに順番なんてない。愛することで、あなたを忘れてしまうこともない。私がここで、生きている限り———。

「幸。ねぇ、お願い。私から……出て行って」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

【完結】『左遷女官は風花の離宮で自分らしく咲く』 〜田舎育ちのおっとり女官は、氷の貴公子の心を溶かす〜

天音蝶子(あまねちょうこ)
キャラ文芸
宮中の桜が散るころ、梓乃は“帝に媚びた”という濡れ衣を着せられ、都を追われた。 行き先は、誰も訪れぬ〈風花の離宮〉。 けれど梓乃は、静かな時間の中で花を愛で、香を焚き、己の心を見つめなおしていく。 そんなある日、離宮の監察(監視)を命じられた、冷徹な青年・宗雅が現れる。 氷のように無表情な彼に、梓乃はいつも通りの微笑みを向けた。 「茶をお持ちいたしましょう」 それは、春の陽だまりのように柔らかい誘いだった——。 冷たい孤独を抱く男と、誰よりも穏やかに生きる女。 遠ざけられた地で、ふたりの心は少しずつ寄り添いはじめる。 そして、帝をめぐる陰謀の影がふたたび都から伸びてきたとき、 梓乃は自分の選んだ“幸せの形”を見つけることになる——。 香と花が彩る、しっとりとした雅な恋愛譚。 濡れ衣で左遷された女官の、静かで強い再生の物語。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました

美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?

後宮の手かざし皇后〜盲目のお飾り皇后が持つ波動の力〜

二位関りをん
キャラ文芸
龍の国の若き皇帝・浩明に5大名家の娘である美華が皇后として嫁いできた。しかし美華は病により目が見えなくなっていた。 そんな美華を冷たくあしらう浩明。婚儀の夜、美華の目の前で彼女付きの女官が心臓発作に倒れてしまう。 その時。美華は慌てること無く駆け寄り、女官に手をかざすと女官は元気になる。 どうも美華には不思議な力があるようで…?

処理中です...