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第10章 陽だまりは勇ましく
46話
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意識がはっきりしていたのは、重たい扉をひとつ閉ざしたところまで。
「……ん」
“海” から還った岬は、目の前で光る鈍色の瞳を見つめ、勢いよく飛び退く。瞬間、湿った草の上に倒れる厘の体。寸前まで光っていた瞳は閉じられて、唇も肌も蒼白と化していた。
「りんっ……、」
まだ少し怠く、鉛がのし掛かったように重い体。しかし自分の意思で動けているということは、幸を追い出すことに成功したらしい。そして、厘がこの体に精気を注ぎ続けていたことを意味していた。
「私、戻ってきたよ。だからお願い……お願い、起きて……」
脱力した彼の上半身を起こしながら、動転した心を懸命に冷ます。母の教えを、絶対に無駄にはしない。
「だいじょうぶ……。少しだけ、待っててね」
河川敷に、彼の頭を据え置く。直後、岬は首に下げていたペンダントの鎖をちぎり、ガラスの奥に眠る花弁を空に翳した。
「庵。庵、起きて」
「ん……んン?」
次いで、深い寝息を立てていた庵を揺らし「お願いがあるの」と詰め寄った。これまでになく鋭く光を灯した岬の瞳に、庵は寝起き早々慄いた。
「このペンダントを、ガラスを、割ってほしいの」
何事か。そう言いたげにも言葉を呑みながら、冴えない視界を取り戻すべく目を擦る庵。しかし岬は、容赦なく続けた。
「私の力だけじゃ、足りないの」
「……割る?」
「そう。中身を取り出したいの。お願い、庵」
ようやく視界を明らめ、仰向けになった厘を一瞥してから、庵は目を丸くする。岬はその反応を前に、唇を噛み締めた。庵が動揺するほど、一体、どれほどの精気を注いでくれたのだろう。瀕死になるまで、どうしてやめなかったのだろう。
パリンッ———!!
逡巡の最中、横で響いた音で我に返る。視線の先では庵が拳に血を流し、「ほら」と “中身” を差しだしていた。一瞬だけ、目眩がした。
「言っておくが、こんなかすり傷すぐに塞がる」
「かすり傷、」
「気を散らすな。お前が今構うべきは、あのどうしようもねぇ虚け野郎だろ」
「っ、うん」
言われてすぐに、庵の傷口と刺さった破片から目を逸らす。
「ごめんね。あとで、手当てするから」
「いい……平気だっつってんだろ」
「ありがとう。庵」
ばつが悪そうに頭を掻く庵から、黄色い花弁を受け取る。ペンダントに収まるように刻まれたその花弁は、「向日葵なんだ」と母は言った。
『向日葵はね、太陽を探して、まっすぐそこへ向かう力があるの。たとえ “ただの花” であっても、精気の力は妖花に負けないくらい強いの。だからね、岬、』
もしも厘が瀕死なら、すぐにそれを呑ませなさい。そうすれば、———
静かに眠る厘。その端麗な顔に体温を寄せながら、母の言葉を思い出す。
「私だけの力じゃ、まだ駄目だったけど……それでもちゃんと、救けるから。今度は “私たち” が」
告げた後、岬は取り出した白い水筒を傾けて、口内に水と向日葵を同時に含んだ。
———『物足りないのなら、口移しで注いでみるか?』
いつだったか。冷やかしなのか、本気なのかも分からない、厘の台詞が過る。まさか、自分から実践することになるとは、夢にも思わなかった。しかし今度こそ、躊躇いも逃げる気も、毛頭なかった。
厘……起きて。
薄い唇に自分のそれを重ねながら、岬は静かに目を閉じる。そして、合わさった管の中で強く、強く、向日葵が届くように押し込んだ。何度も水を含んで、注いだ。これまで彼が注いでくれたように———息をするのを忘れるほど、懸命に。
———……岬?
朦朧とした意識のなか。呼ばれた拍子に視界を明らめると、唇の隙間から垂れた水の痕が、視界の端に写り込む。不謹慎にも胸を締め付けられながら、視線をそっと持ち上げる。
袂から鈍色が覗いて、岬はようやく息を吸い、大きく吐いた。
「好きだよ……厘」
零れ落ちる。
気づけばすでに、雨は止んでいて。雲間から覗いた日の光は、二人だけの世界を作り上げるように、オレンジ色の緞帳を下した。
「……ん」
“海” から還った岬は、目の前で光る鈍色の瞳を見つめ、勢いよく飛び退く。瞬間、湿った草の上に倒れる厘の体。寸前まで光っていた瞳は閉じられて、唇も肌も蒼白と化していた。
「りんっ……、」
まだ少し怠く、鉛がのし掛かったように重い体。しかし自分の意思で動けているということは、幸を追い出すことに成功したらしい。そして、厘がこの体に精気を注ぎ続けていたことを意味していた。
「私、戻ってきたよ。だからお願い……お願い、起きて……」
脱力した彼の上半身を起こしながら、動転した心を懸命に冷ます。母の教えを、絶対に無駄にはしない。
「だいじょうぶ……。少しだけ、待っててね」
河川敷に、彼の頭を据え置く。直後、岬は首に下げていたペンダントの鎖をちぎり、ガラスの奥に眠る花弁を空に翳した。
「庵。庵、起きて」
「ん……んン?」
次いで、深い寝息を立てていた庵を揺らし「お願いがあるの」と詰め寄った。これまでになく鋭く光を灯した岬の瞳に、庵は寝起き早々慄いた。
「このペンダントを、ガラスを、割ってほしいの」
何事か。そう言いたげにも言葉を呑みながら、冴えない視界を取り戻すべく目を擦る庵。しかし岬は、容赦なく続けた。
「私の力だけじゃ、足りないの」
「……割る?」
「そう。中身を取り出したいの。お願い、庵」
ようやく視界を明らめ、仰向けになった厘を一瞥してから、庵は目を丸くする。岬はその反応を前に、唇を噛み締めた。庵が動揺するほど、一体、どれほどの精気を注いでくれたのだろう。瀕死になるまで、どうしてやめなかったのだろう。
パリンッ———!!
逡巡の最中、横で響いた音で我に返る。視線の先では庵が拳に血を流し、「ほら」と “中身” を差しだしていた。一瞬だけ、目眩がした。
「言っておくが、こんなかすり傷すぐに塞がる」
「かすり傷、」
「気を散らすな。お前が今構うべきは、あのどうしようもねぇ虚け野郎だろ」
「っ、うん」
言われてすぐに、庵の傷口と刺さった破片から目を逸らす。
「ごめんね。あとで、手当てするから」
「いい……平気だっつってんだろ」
「ありがとう。庵」
ばつが悪そうに頭を掻く庵から、黄色い花弁を受け取る。ペンダントに収まるように刻まれたその花弁は、「向日葵なんだ」と母は言った。
『向日葵はね、太陽を探して、まっすぐそこへ向かう力があるの。たとえ “ただの花” であっても、精気の力は妖花に負けないくらい強いの。だからね、岬、』
もしも厘が瀕死なら、すぐにそれを呑ませなさい。そうすれば、———
静かに眠る厘。その端麗な顔に体温を寄せながら、母の言葉を思い出す。
「私だけの力じゃ、まだ駄目だったけど……それでもちゃんと、救けるから。今度は “私たち” が」
告げた後、岬は取り出した白い水筒を傾けて、口内に水と向日葵を同時に含んだ。
———『物足りないのなら、口移しで注いでみるか?』
いつだったか。冷やかしなのか、本気なのかも分からない、厘の台詞が過る。まさか、自分から実践することになるとは、夢にも思わなかった。しかし今度こそ、躊躇いも逃げる気も、毛頭なかった。
厘……起きて。
薄い唇に自分のそれを重ねながら、岬は静かに目を閉じる。そして、合わさった管の中で強く、強く、向日葵が届くように押し込んだ。何度も水を含んで、注いだ。これまで彼が注いでくれたように———息をするのを忘れるほど、懸命に。
———……岬?
朦朧とした意識のなか。呼ばれた拍子に視界を明らめると、唇の隙間から垂れた水の痕が、視界の端に写り込む。不謹慎にも胸を締め付けられながら、視線をそっと持ち上げる。
袂から鈍色が覗いて、岬はようやく息を吸い、大きく吐いた。
「好きだよ……厘」
零れ落ちる。
気づけばすでに、雨は止んでいて。雲間から覗いた日の光は、二人だけの世界を作り上げるように、オレンジ色の緞帳を下した。
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