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第11章 白の誓いは芳しい
48話
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“再び幸せが訪れる”
鈴蘭の花言葉を、厘は疾うに理解していた。ただ、見合うとは到底思えない。寵愛する娘を幸せにするどころか、この世に置いて行こうとしているのだから。
「もっと、もっとよ。厘。この体に注ぎ込んで、一緒に逝きましょう」
幸と名乗った地縛霊は、唇を貪るように深くキスを重ねた。
「ああ……救わせてくれ。岬」
そして、何度も応えた。隙間で、幸の名前を呼ぶことは一度もなかった。怒りをぶつけることもなかった。殊勝なことに、最期くらい、愛おしい娘の笑顔だけを浮かべていたかったらしい。
シトシトと降り注ぐ細い雨のように、か弱い娘。籠の中に収まっていた自分に、愛を教えてくれた存在。
せめて、お前を愛している、と伝えておきたかった。他の誰かを愛することがあっても、いつか呪いのように、この鈴蘭の卑しい香りが蘇るように。
———お願い……起きて。
そんな邪念を払ったのは、またしても岬の声だった。遠のく意識に語り掛けるように響く、細い声。ただし、今までのそれとは明らかに違う。
……幸が操っているものではない。
気が付いた時、パリンッ———!! と、尖った音が鼓膜を震わせる。岬の身に何かあったのか、と案じても身体はピクリとも動かない。瞼さえ閉じられたままだ。
肝心な時に救えなくて、愛おしいなど言えるものか。厘は意識の底で自身を嘆く。そのときだった。
ドクンッ。急激に脈を早める心臓。
ドクンッ、ドクンッ。芯からじわりと伝う熱。遠のいていた意識が、次第に我を取り戻していく感覚。最中、ある人物の影を見た。
忘れるはずもない。暗闇のなかで柔い光を纏う彼女は、朽ち果てるはずの命に、最愛の娘を託してくれた張本人だ。
『どうして、お前がここに、』
ああ。俺はついに死んだのか。
答えを聞くまでもなく、厘は納得した。だからこそ、彼の世にいるはずの宇美が前に立っているのだろう、と。
『時間がないから率直に言うよ、厘。あなたはもうすぐ目を覚ます。うちの娘が今、奮闘しているはずだから』
本当に時間がないらしく、やたらと早口で。多少聞き取り辛いが、慣れ親しんだ声だからかしっかりと意味は伝わる。靄がかかって見えにくいはずの表情も、容易に想像がついた。おそらく、朗らかに笑っている。
『厘は死なない。だって、あの子を残してなんて逝けないでしょう?』
しかし、それに続いた表情は、見たことがないはずだ。気恥ずかしいような、嬉しいような、複雑な笑みの匂いがする。
『……俺は、また会えるのか』
岬と、また。そう続けた厘に、宇美は大きく頷く。
『もうすでに感じているでしょ。あの子から注がれる生気を』
瞬間、身体中を巡る血液が脈を叩く。強く、何度も。
これを……岬が?
『私も、まだ逝きたくなんてなかった。でもね、』
熱くほとばしる血潮を感じながら、厘は目の前で消え入りそうな声に耳を澄ませた。岬の前では決して放たれたことのない、涙の滲んだ声だった。
『厘が化身として現れてくれたことも。あの子に恋を教えられたことも。……本当に、良かったと思ってる。本当に、本当に』
貴方が、岬を愛してくれていることも———。
加えられた言葉に、厘は顔を火照らせる。在るはずのない “母親” という居場所を、今さら実感した。彼女に抱いていた感情は、親愛と呼んで相違ないだろう。
『だから絶対に、権利がないなんて思わないで。貴方も岬も、愛し、愛される命であってほしいから』
心の片隅に潜んでいた罪悪感が、ゆっくりと溶けていく。しかし、終わりはあまりにも唐突だった。
『っつ……』
閉じられた瞼の向こうで、陽だまりが呼んでいる。まだ聞き足りないことも、言い足りないことも、山ほどあるというのに。
どうやら、最後らしい。互いにそれを悟った。
直後、厘は靄の向こうに在る宇美の眼差しをようやく受けとる。それだけで、足りないものすべてがパズルのように嵌まっていくようだった。
『あ……!そうそう。まだ来ちゃダメよ?二人とも』
陽気に放たれた、最期の言葉。おおらかで、しかい震えた彼女の声に、厘は潤んだ瞳で天を仰いだ。目を覚ました時、誰にも涙を悟られないように。
・
・
・
「———……岬?」
瞼を開くと、雲間から覗く日の光が、彼女の後ろに差し込んでいた。それはちょうど宇美を思わせる、暖かい温度だった。
「好きだよ……厘」
“まだ” どころか、当分逝けそうにもないぞ。宇美。
喉から絞り出したようなその声に、厘は笑みを零しながら思いを馳せた。
———……が、しかし。
「おい岬。ハンカチを忘れて、」
「いっ、いってきます!!」
バタンッ。アパートの扉が閉まる音が、無情に響き渡る。
あれから一週間経過した今日。平穏な日常のなか、厘の心情はそう穏やかではなかった。
「……なんだ、アレは」
行き場を失くした手を引っ込めながら、思い切り眉を顰める。ようやく岬の想いを確認できた矢先に、この有様だ。要するに———、
「まーだ避けられてんのかぁ、岬に」
後ろから響く声。やけに愉快そうに弧を描く口元を、厘は鋭く睨み見た。避けるどころか、就寝時以外はこの庵をウチへ招き入れている始末。妙に面白がっている様がさらに気を逆撫でする。
「お前、学校へは行かなくていいのか」
「いい。今日はサボる予定だ」
戯け……この期に及んで、お前と二人きりなど耐えられるものか。厘の理性と我慢はすでに限界に達していた。
すべてが不明瞭。不燃焼。岬の反応まだ自分の命がここに在る理由も、宇美の姿が見えた理由も、はっきりしていないというのに。
「……サボると言ったな」
「あぁ? それがなんだよ」
痺れを切らした厘は、庵の肩に手を掛ける。辛抱してきたものが積もりに積もり、所作は乱暴になった。
———『好きだよ……厘』
意識が朦朧としていたとはいえ、聞き逃すはずもない。無論、岬もそれを承知だろう。……生殺しとは、やはりあの娘は妙なところで肝が据わっている。
「術を掛けてくれ。褒美ならいくらでもやる。後払いでな」
強引に庵の襟を引き寄せ、放つ。河川敷で、上から降り注いだ岬の瞳を手繰り寄せながら。
鈴蘭の花言葉を、厘は疾うに理解していた。ただ、見合うとは到底思えない。寵愛する娘を幸せにするどころか、この世に置いて行こうとしているのだから。
「もっと、もっとよ。厘。この体に注ぎ込んで、一緒に逝きましょう」
幸と名乗った地縛霊は、唇を貪るように深くキスを重ねた。
「ああ……救わせてくれ。岬」
そして、何度も応えた。隙間で、幸の名前を呼ぶことは一度もなかった。怒りをぶつけることもなかった。殊勝なことに、最期くらい、愛おしい娘の笑顔だけを浮かべていたかったらしい。
シトシトと降り注ぐ細い雨のように、か弱い娘。籠の中に収まっていた自分に、愛を教えてくれた存在。
せめて、お前を愛している、と伝えておきたかった。他の誰かを愛することがあっても、いつか呪いのように、この鈴蘭の卑しい香りが蘇るように。
———お願い……起きて。
そんな邪念を払ったのは、またしても岬の声だった。遠のく意識に語り掛けるように響く、細い声。ただし、今までのそれとは明らかに違う。
……幸が操っているものではない。
気が付いた時、パリンッ———!! と、尖った音が鼓膜を震わせる。岬の身に何かあったのか、と案じても身体はピクリとも動かない。瞼さえ閉じられたままだ。
肝心な時に救えなくて、愛おしいなど言えるものか。厘は意識の底で自身を嘆く。そのときだった。
ドクンッ。急激に脈を早める心臓。
ドクンッ、ドクンッ。芯からじわりと伝う熱。遠のいていた意識が、次第に我を取り戻していく感覚。最中、ある人物の影を見た。
忘れるはずもない。暗闇のなかで柔い光を纏う彼女は、朽ち果てるはずの命に、最愛の娘を託してくれた張本人だ。
『どうして、お前がここに、』
ああ。俺はついに死んだのか。
答えを聞くまでもなく、厘は納得した。だからこそ、彼の世にいるはずの宇美が前に立っているのだろう、と。
『時間がないから率直に言うよ、厘。あなたはもうすぐ目を覚ます。うちの娘が今、奮闘しているはずだから』
本当に時間がないらしく、やたらと早口で。多少聞き取り辛いが、慣れ親しんだ声だからかしっかりと意味は伝わる。靄がかかって見えにくいはずの表情も、容易に想像がついた。おそらく、朗らかに笑っている。
『厘は死なない。だって、あの子を残してなんて逝けないでしょう?』
しかし、それに続いた表情は、見たことがないはずだ。気恥ずかしいような、嬉しいような、複雑な笑みの匂いがする。
『……俺は、また会えるのか』
岬と、また。そう続けた厘に、宇美は大きく頷く。
『もうすでに感じているでしょ。あの子から注がれる生気を』
瞬間、身体中を巡る血液が脈を叩く。強く、何度も。
これを……岬が?
『私も、まだ逝きたくなんてなかった。でもね、』
熱くほとばしる血潮を感じながら、厘は目の前で消え入りそうな声に耳を澄ませた。岬の前では決して放たれたことのない、涙の滲んだ声だった。
『厘が化身として現れてくれたことも。あの子に恋を教えられたことも。……本当に、良かったと思ってる。本当に、本当に』
貴方が、岬を愛してくれていることも———。
加えられた言葉に、厘は顔を火照らせる。在るはずのない “母親” という居場所を、今さら実感した。彼女に抱いていた感情は、親愛と呼んで相違ないだろう。
『だから絶対に、権利がないなんて思わないで。貴方も岬も、愛し、愛される命であってほしいから』
心の片隅に潜んでいた罪悪感が、ゆっくりと溶けていく。しかし、終わりはあまりにも唐突だった。
『っつ……』
閉じられた瞼の向こうで、陽だまりが呼んでいる。まだ聞き足りないことも、言い足りないことも、山ほどあるというのに。
どうやら、最後らしい。互いにそれを悟った。
直後、厘は靄の向こうに在る宇美の眼差しをようやく受けとる。それだけで、足りないものすべてがパズルのように嵌まっていくようだった。
『あ……!そうそう。まだ来ちゃダメよ?二人とも』
陽気に放たれた、最期の言葉。おおらかで、しかい震えた彼女の声に、厘は潤んだ瞳で天を仰いだ。目を覚ました時、誰にも涙を悟られないように。
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「———……岬?」
瞼を開くと、雲間から覗く日の光が、彼女の後ろに差し込んでいた。それはちょうど宇美を思わせる、暖かい温度だった。
「好きだよ……厘」
“まだ” どころか、当分逝けそうにもないぞ。宇美。
喉から絞り出したようなその声に、厘は笑みを零しながら思いを馳せた。
———……が、しかし。
「おい岬。ハンカチを忘れて、」
「いっ、いってきます!!」
バタンッ。アパートの扉が閉まる音が、無情に響き渡る。
あれから一週間経過した今日。平穏な日常のなか、厘の心情はそう穏やかではなかった。
「……なんだ、アレは」
行き場を失くした手を引っ込めながら、思い切り眉を顰める。ようやく岬の想いを確認できた矢先に、この有様だ。要するに———、
「まーだ避けられてんのかぁ、岬に」
後ろから響く声。やけに愉快そうに弧を描く口元を、厘は鋭く睨み見た。避けるどころか、就寝時以外はこの庵をウチへ招き入れている始末。妙に面白がっている様がさらに気を逆撫でする。
「お前、学校へは行かなくていいのか」
「いい。今日はサボる予定だ」
戯け……この期に及んで、お前と二人きりなど耐えられるものか。厘の理性と我慢はすでに限界に達していた。
すべてが不明瞭。不燃焼。岬の反応まだ自分の命がここに在る理由も、宇美の姿が見えた理由も、はっきりしていないというのに。
「……サボると言ったな」
「あぁ? それがなんだよ」
痺れを切らした厘は、庵の肩に手を掛ける。辛抱してきたものが積もりに積もり、所作は乱暴になった。
———『好きだよ……厘』
意識が朦朧としていたとはいえ、聞き逃すはずもない。無論、岬もそれを承知だろう。……生殺しとは、やはりあの娘は妙なところで肝が据わっている。
「術を掛けてくれ。褒美ならいくらでもやる。後払いでな」
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