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第11章 白の誓いは芳しい
49話
しおりを挟む厘の意識を取り戻そうと、奮闘していたあのとき。
記憶が飛ぶほど懸命に、向日葵を注ぎ込んでいた。朦朧とした意識のなか、ようやく鈍色の瞳が覗いたときには、安堵した。呼吸を忘れていたことさえも忘れていて、だから吐いた瞬間、思わず零れてしまった。
「うぅ……」
岬は後頭部を抱えながら、机に額をすり寄せる。新学期を迎え、新しい教室にも穏やかな風が吹き込むなか、早々塞ぎ込んでしまっていた。想いの籠った「好き」はきっと、遊園地の時のようには誤魔化せない。———それに、
「あんなキスまで……」
思い返す。向日葵の精気を確実に注ぎ込むため、押し込んだ。あのとき触れた、薄い舌の感触。
「キスがどうしたの?」
「……へ?」
不意を突いた声掛けに、腑抜けた返事で顔を上げる。正面で首を傾げているクラスメートを見つめ、岬は目を丸くする。高校に入って久しく、生徒から声をかけられた。
「花籠さん?」
「あっ……えぇっと、何でもない、です」
しどろもどろ。それでも、精一杯の誠意。
前のクラスでも、その前のクラスでも。新学期となれば後ろ指を差され、『あれが例の花籠岬だ』と気味悪がられることが常だったからだ。
岬は緊張の糸を張ったまま、彼女から視線を逸らす。そしてもう一度、下からこっそり垣間見る。
「ふぅん、そっか」
気味悪がる素振りもなく、まっすぐこちらを見据える瞳に、思わず期待を寄せたくもなる。しかし、よりにもよってこんな独り言を聞かれるなんて……。岬は自分の言動を悔んだ。
「あ。それよりさ、あっちで伊藤くんが呼んでるんだけど」
「伊藤……くん?」
誰のことだろう。
首を傾げながら、彼女の指が差す先を見据える。直後、お礼を言い終えて、扉の前に立つ彼の元へ駆け寄った。
苗字で呼んだことがないので、すっかり抜けてしまっていたけれど、学内で彼は “伊藤庵” で通っていたっけ。
「どうしたの?庵。珍しいね」
隣のクラスになった、と聞いてはいたけれど、登校初日に顔を出してくれるとは思いもよらず。岬は自然と笑みを溢した。
「へぇ……前とは少し空気が違うな」
庵は腕を組みながら俯瞰するように、一通り教室内を見渡す。
「え……前?」
「来い、岬。朝のホームルームとやらまで、まだ時間はあるのだろう」
言いながら、彼は少し強引に手を引く。廊下を行くと、周りのざわめきが耳に入る。新入生の目は一層好奇心を含み、彼の金髪を眺めていた。
「あ、庵……?」
顔を熱しながら、岬は顔を俯かせる。
庵?庵、だよね……?
逞しい背中も、朝日を反射する金色の髪も、間違いなく彼のもので合っているはずなのに。どうして違和感を覚えてしまうのだろう。……たぶん、なにかが違う。
連れられたのは、人通りの少ない廊下に並んだ進路資料室。まるで最初から行き先は決まっていたかのような素振りで、庵はなんの躊躇いもなく扉を開いた。
まさか、進路の相談とか———?
「どうしたの?庵」
赤の背表紙が陳列する棚。図書室とは違い、ほとんど出入りがなく埃っぽい室内。岬は扉を閉めた庵を見据え、首を傾げた。
「答えてほしいか?」
進路の相談という推測は、どうやらお門違いらしい。岬は振り向いたその妖艶な笑みに、思わず一歩後ずさる。なぜか背筋がゾクリと呻いた。
「う、うん……」
頷きながら、背に当たる本の感触。気付けば後ろは行き止まり。
……やっぱり、なにかがおかしい。庵が庵でないような———。思い伏せながら、一文字に口を結ぶ。直後、穏やかながらも冷えた風が、窓の隙間から吹き込む。金色の髪が綺麗に靡いて、その束に目を奪われる。
変化が及んだのはほんの一瞬だった。
毛先に向かって色が抜けていく。ムラのない金髪から、糸のような白髪へ変わっていく。
「え……」
ふわり。取り入れ慣れた香りが鼻腔を刺激する。目の前に立っていたのは庵だった、はずなのに。
「あいつにしては、空気の読めたタイミングだな」
窓の外を見やると同時、彼は満足げな笑みを浮かべる。見慣れた表情で、見慣れない制服を纏った姿。そこに居たのは、厘だった。
「ど、どうして……」
白髪が扇のように靡く。
一瞬にして消え去った庵の残像。もとより、庵はここにはいなかったのかもしれない。これまでの言動すべてが厘のものだとしたら、覚えていた違和感ともすべて辻褄が合う。
「どうした、と俺に問うていたな」
「へ……」
「今、ここで答えよう」
だからほら。逃げるなよ———?
澄んだ鈍色の瞳は、暗にそう紡いでいるような気がしてならない。堪らず目を逸らそうとするが、しかし、それは叶わなかった。
「……っ?!」
「俺を見ろ。岬」
厘の細長い指が、器用に顎を捉える。鋭い爪先を肌に及ばせない仕草も、間違いなく厘の配慮だ。今度こそ紛い物ではないと、岬は確信した。
あれから、ずっと避けてきた。厘の反応が怖くて、ずっと逃げてきた。だから、近くで彼の視線と交わるのは久しく、落ち着かない。それに———。
岬はネクタイの結び目に視線を落とす。まるでその風貌は、同じ学校で時を共にする同級生。あやかしと人、という隔たりを忘れていまいそうになる。
「……ずるい」
心の内で呟いたはずの言葉は、無意識にも零れ落ちた。
何がずるいって? と言いたげな厘は、やけに愉しそうにこちらを見下ろしながら、距離を詰める。そして本棚に押し当てた片腕で、退路を完全に断った。逃げ果せることは不可能だ。
「ああ。確かに。庵の妖術を使ったのは、少々狡猾だったかもな」
「庵の術……?」
「周りの人間に庵である、と思わせていた。お前にも、抜かりなくな」
そっか、だから……。「ずるい」の意味は違うけれど、ようやく腑に落ちた。庵は初めから居らず、初めから厘であったということだ。
「適当に術を解いてくれ、と頼んでいた。二人きりになる瞬間を待ってからな」
「でも、どうして、」
「ああ。だからそれを、今から答えると言っている」
不機嫌で、かつ高揚を含んだ声色。矛盾したその様子。何がそうさせているのか、未だ解らない。しかし後に続いた言葉は、簡単に紐を解いた。
「俺に惚れているのかと、訊きに来た」
「惚、れ……っ」
体が、みるみるうちに熱を持つ。首から頬に掛けて真っ赤に染めあがる自分の様が、鏡なしにも分かってしまった。
「それとも、訊くまでもないか?」
嬉しそうに笑みを零す厘。反応が素直すぎるのも、玉に瑕だ。
「な、ななっ……なんでそんな、」
慌てふためき泳ぐ瞳を、真っすぐ捉える鈍色。髪を優しく掻き分ける骨ばった手。顎を竦めると、彼の瞳がゆったり細まる。
唇に、彼の唇が及ぶまでは、まるでスローモーションだった。精気を注ぐ、という目的を失ったキスは、触れるだけの優しいキス。しかし瞼を持ち上げると、半分開いた彼の瞳は、今まで以上に熱を持っていた。
「これで分かるだろう」
しかし、当然のように言われても、思い当たる節がない。岬は呆けたまま、「やれやれ」と息を吐く厘を見上げた。未だ、思考回路はふやけたままだ。
「ジレンマだと思った」
「……?」
「お前の扉が閉じ、平和な日常にも文句はない。……が。キスを交わす口実も悉く、消え失せてしまったからな」
言いながら、ばつが悪そうに視線を逸らす厘。同時に、意味を理解した岬はさらに頬を紅潮させた。つまり———、と脈が荒いだ。
「厘は……私のこと、好き……ですか」
期待を込めて、横目を配った彼を見上げる。
「……何を言う」
「え……あ、ごめ、」
どうしよう、違った。ごめんなさい。
綴ろうとした言葉は、彼の腕の中で易々呑まれる。普段より少し高い体温のなか、岬は身体を強く締め付けられる。首筋に及んだ彼の吐息が熱く、おかげで血管が破裂しそうだ。
「いつまで我慢したと思っている」
「え……?」
「今日、お前が帰ってくるまでも待てないほどに……もう、限界だ」
——— “愛している。この世に生ける、何よりも”
告げられた刹那、生温かい雫は頬を伝い、彼のシャツに痕を残す。そんな些細な交わりにさえ、心臓は高鳴りを覚えた。
「私も大好き……大好きです、厘」
厘よりもずるいのは、私の方だ。
岬は背に手を回しながら顧みる。少しは強くなることが出来たと思っていたけれど、恋愛においては初心の同然。一緒に居られるだけでいい、と唱え続けていた建前は、この場で崩れ去った。
今もきっと、母がどこかで見守ってくれているのだろうか。
初めて出来た、母ではない居場所。心から愛を誓える、大切な人。もう、生きる意味がないなんて思わない。きっと、厘が傍にいるのなら。
「ところで岬。あのとき、どうやって俺に精気を及ぼしたんだ?」
うっ、と条件反射に肩が跳ね、恐る恐る彼を見上げる。しかし疑問はあってないようなもの。悪戯を仕掛けた厘の唇は、やんわりと弧を描いた。
「わ、分かってるくせに……厘のばか」
「へぇ……お前に罵られるのなら、悪くない」
「ひゃっ……!?」
喉を鳴らした彼に、岬は耳を甘噛みされる。同時に後ろ首へと回された手は、蒸気した体の熱を吸った。あまりにも、刺激が強い。
「悪いが、これから容赦はしないぞ」
「う、」
どうやら、放たれる以上に彼の辛抱は底を尽きていたらしい。悟ったのは、もう一度唇を重ねられた直後。摂り込むのは、精気でも香りでもない。ただ愛を確かめ合うだけの、甘美な口づけ。
「俺と共に、生きてくれ」
「はい」
たとえ、呪いが体を蝕もうとも。いつか、絶望に苛まれても。やがて、障害が現れようとも———今度は私が、手を引いてみせるから。
だって、生きていきたい。そうきっと、あなたとなら。
<完>
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