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片方の靴下
しおりを挟む雨が、降っている。
錆び付いた青いベンチは座れない程びしょ濡れで、バス停の小さな街灯の明かりと雨粒の落ちた勢で、濡れたアスファルトに揺らめいたオレンジに近い光を写している。
この間の豪雨で少し折れ曲がってしまった、でもギリギリ使える、どこにでもあるビニール傘を差し、バス停で待つ。勢いはないけれど、雨粒が大きく、傘を強く打ち付ける。
ーーー5分ほど経った
全身ずぶ濡れのスーツの男性がバス停に来た。 よく見ると片足だけ靴下を履いていなかった。
カバンが雨水を弾いている。防水らしい。男性は虚ろな目で後ろに並んだ。
よく見ると小さなビニール袋を持っていて薬のような紙の袋が透けて見える。病院の名前もうっすらわかる。しかし、どこのものかは検討がつかなかった。
その袋は重そうに皺が寄っていた。水が入ったのかそれとも……その異様さと暗く、深い時間ということもあり、生者だろうが死者だろうが、私は寒気がした。 傘にあたる水音が遠のき、代わりに心臓が強く体の中に響く。
ーーあと9、10分、心の中で祈りのように唱える。
通りかかる車を確認するふりをしてもう一度後ろの男性を見た。やはり傘をさすどころか、カバンや上着で凌いでいる様子もない。上にあげるようにセットしたであろう髪が乱れて全身に振り続けていた。 びしょ濡れの短い髪が何かを覆うように張り付いている。
不審者かもしれない。さまざまな「かもしれない」が私の頭を巡って、傘を差し出すことが出来ない。
田舎のバス停だ。他のところまでは歩いて20分ほどかかる。それに、そんなことをしていたら最終を逃してしまう。
他の車のライトが流れていく。
そういえば、人に傘を貸そうとしたけれど、拒まれたことを思いだす。
親友だと思っていた子に、私の「優しさ」を拒まれた。「人の傘、使うの嫌なのよ。たとえお友達でも。」あのときは胸の奥がひどく傷んで仕方なかった。 ーーーいま貸すことはないけれど、昔、子供の頃の私なら……と考えた。
得体の知れなさと心細さで、とりあえず手の中の小さな明かりを握りしめた。
男性が小さくなにか呟いた。背中に汗が一筋流れる感覚がする。 ーーーたった10分がとても長く感じた。
遠くにバスの明かりが見えてきた。私は深く、深く息を吐いた。
男性がまた小さくなにか呟いた。
雨にかき消されるほど小さい声の内容は、かすかな鳴き声のように聞こえた気がした。透けたビニール袋の文字が「原口心療内科」と、はっきりと浮かび上がってきた。
たしか、ここから車で20分程のところにある、比較的新しい開業医だった気がする。
雨の音だけがこの場所を支配している。
本当に男性は一歩も動かない。地蔵のようにただ黙って空を見ている。その表情は「無」という字が相応しいほど、何も感じとれず不気味だった。
「どこにいかれるのですか。」
今までききとれなかった男性の声がはっきりと私に向かって聞こえた。その声は雨のように冷えていた。そのことに怯えつつ「い、家に帰ります」と私は怯えながら答えた。
「……そうですか、私は、かえろうか悩んでいます。」
「あの……傘はどうされたのですか?」
「……妻の、墓に、置いてきました。」
そう言うと、男性は向き直り、また立ちつくす。……彼には帰る場所があるのだろうか?あったとして、明かりをつけていてくれる誰かがいるのだろうか。ーーー頭の中にあたたかい光の灯る家が見えた気がした。私は傘を傾きかけて、こらえた。できなかった。
聞いてしまったら、傾けてしまったら、深い夜の底にまで連れていかれてしまいそうな気がした。
「今日も雨ですね」
また男性から私への発言があった。会話が続いたことに驚きつつも、「梅雨ですからね」と何とか言葉を捻り出した。
「雨は……嫌ですね」
「はい、私も好きじゃないです」
「同じ、ですね」
「同じ……」
「なんか、"わかってしまう”んです」
同じ、と言われたことが、なぜかとても辛くなり顔を伏せた。
まるで彼にも私のことが分かるみたいに。傘が風に揺られて骨がキィと小さく鳴り、心許なくなっていく。
最終バスがブレーキの音とともに到着した。これを逃せば、今日はもう、ない。
「今日は、もう……いいかな。」 乗る直前に声が聞こえた。
結局彼はバスに乗らなかった。私は、好奇心か後悔か、バスの窓から男性の影が見えなくなるまでじっと見つめていた。少し、影が薄い気がする。
表情までは分からないが男性がしゃがみこんで袋を抱えて項垂れているのが、最後に見たものだった。
見えなくなったあと、窓に写った私の顔は彼のように虚ろだった。それがあの男性と重なった気がして小さく震えた。
それに気がついたとき、自分の顔に薄暗い影が差し込んだ気がした。けれどバスは私を目的地まで乗せて進んでいく。
今更、下ろしてください、なんて言えるわけが無い。
……もしも傘を差し出していたら、なにか変わったのだろうか。変わったとしても、私はきっと傘を差し出すことはなかっただろう。彼の意図が、わかってしまったから。多分片方の靴下の行方も、私は知っている。
窓に写る私の表情はどこまでも変わらなかった。
手に力が籠り、傘が私の代わりにギシリと嗚咽のように苦しい音を立てる。頭に鉛が入ったように酷く重い。雨が、全てを覆い隠してくれた。
優しさが、必ずしも誰かを救うわけではないことを、私は知っている。……私の靴下の片方も、ここにはないから。
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