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ある男の物語。

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 男がいた。
 男は退屈そうにペンを動かして、自身の机に積もった書類を片付けていく。

「はぁ…、今日の予定は?」

 男が、同じ部屋で待機する女性へと話しかける。

「本日は決定戦がございます」

 話しかけられた女性は、事務的にそう男に告げる。

か…」

 男が心底嫌そうに声を発する。それもそうだろう。男が地位に就いてから、幾度となく行われてきたのだから。

「何時だ?」
「もうあと1時間ほどです」
「そうか…なら、この仕事を終わらせた後、向かうとしよう」

 そう言って男は、次の書類へと手を伸ばした。









 




「……もう、お時間です」
「…そうか」

 男が顔を上げる。随分集中していたようで、時間に気が付かなかったようだ。

「ではいこう」
「はい」

 男が女性に着せられたマントをひるがえし、男が部屋を後にする。向かうは……闘技場。この決定戦の時にのみ、開放されるものだ。
 男が歩き、その後ろを女性がついて行く。








「───これより、決定戦を開始する!」

 長々とした演説が終わり、そう開会が宣言される。もう既に男の顔には、うんざりという心情が現れていた。

(…我は、一体何をしているのだろうな)

 そう思いながら、男が空を仰ぐ。

「ヴィル様、そろそろ」
「…ああ、そうだな」

 男…ヴィルが座っていた椅子から立ち上がる。それだけで、辺りがザワつく。

「今日こそはその顔に泥を付けてやるっ!」

 そう意気込む、数人の男たち。彼らは、この決定戦に幾度となく挑んでいた者たちだった。

「また貴様らか…」

 嫌そうな表情を浮かべるが、それを怖気付いたと見たのか、男たちが獰猛な笑みを浮かべ、一斉にヴィルへと飛びかかった。










 …………しかし、その勝負はほんの一瞬で方が付いた。

「な、何が……」

 襲いかかった男たちも、周りで観戦していた者たちにも理解が出来なかった。それもそうだろう。
 ……一瞬で、男たちが闘技場の壁へと叩きつけられたのだから。

「ふむ。もう少し強くなったと思っていたが…この程度か」

 ヴィルはそう言って少し汚れがついたマントを叩き、その汚れを落とした。
 群がった男たちは、決して弱い訳ではなかった。むしろ、以前挑んた時よりも断然に強くなっていた。筈なのに…一瞬で、吹き飛ばされたのだ。

「…………」

 沈黙が闘技場を支配する。吹き飛ばされた男たちは動けないらしく、他の待機していた者たちに運ばれて行った。

「もう、いないか」

 その問いかけに、答えるものはいない。ヴィルはもう終わったとばかりに足を動かし……そして、止まった。

「あれぇ?……ここどこぉ?」

 痛々しいほどの沈黙を破った、幼き声に。足を止めたのだ。

「…何故」

 ヴィルが声の主を見つけ、ただそう呟いた。
 闘技場をうろつく、長い白い髪と、燃えるような紅い双眸を持つ人物。

「…やっと」

 会えた。

 ヴィルの瞳から、自然に光るものが零れる。

「あれれ?どうしたの?」

 そんな様子を見てなのか、その人物がヴィルへと近付く。

「…覚えて、いますか?」

 そう尋ねるヴィルの声は、酷く、震えていて…
 
「んん?……あ、もしかして……ヴィル坊?」

 ぴしり。

 空気が割れるような音が聞こえた気がした。だが、それを引き起こした当の本人は、全くもって気にしていない。

「大きくなったねぇ…」
「…あなたは、本当に変わらない」

 ヴィルの瞳から、さらに熱いものが零れる。

「あぁ、泣かないの。全く…泣き虫なのは変わらないのねぇ…」

 ……あぁそうだ。いつもこうして我……いや、俺の事を心配してくれた。助けてくれた。

 …………だから俺は、喜んで彼女に譲ろう。








 






 ────魔王という地位を。




 
 
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