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   第一章 地獄はどこも同じ


 頭上を銃弾がかすめていくのが、風を切る音で解る。まるで、よく研いだカミソリで空気を切り裂いているような、細く鋭い音だ。銃弾が飛んでいった方角から考えるに、敵がアンブッシュしている位置は、雄一郎ゆういちろうから見て十時の方向だろう。
 大木の陰から構えていたAK47を、十時の方向へ向けて引き金を絞る。パパパと短い破裂音が鳴って、銃口から小さな火花が散るのが見えた。同時にジャングルの向こうから飛んでくる銃撃がわずかに減った。一人ぐらいは仕留められただろうか。

「ユーイチロー、無事か」

 その時、ぬかるんだ泥の中を匍匐ほふく前進でいずりながら、オズワルドが足下まで近付いてきた。元から褐色かっしょくの肌が泥のせいで余計に黒く見える。
 オズワルドも雄一郎と同じ、フリーの傭兵だ。この戦場で出会ったのはつい一週間前だというのに、元来人懐こい性格なのか、雄一郎には随分と砕けた口を利くようになっている。初対面の時に右手を差し出して「オズと呼んでくれ、ユーイチロー」とくったくのない笑みを向けてきたのを思い出す。その若々しい目元や口元を見ると、今年、三十七歳になった雄一郎よりもずっと年下なのかもしれない。

「無事だ。味方の損害は」
「新兵が二人やられた。片方は頭を撃たれて即死。もう片方は腹をやられて、のたうち回ってるところだ」
「腹を撃たれたって銃は持てるだろ。死ぬまでは戦わせろ」

 淡々とした雄一郎の言葉に、オズが口笛を吹こうとするみたいに唇を軽くとがらせた。だが、その唇から音はれない。その代わりに、小さな問い掛けの声が聞こえてくる。

「敵の数は把握したか?」
「四から六人程度。茂みに隠れて、こっちを狙い撃ちしている。このまま撃ち続けたんじゃ、お互いの弾切れを待つだけだな」
「一度後退するか」
「後退したところで、結局はこいつらを潰さないと他に道はない」

 一週間もこのクソ暑くてジメジメとしたジャングルを歩き回ってきたのに、今更逃げかえるなんて冗談じゃなかった。任務を完遂かんすいできなければ報酬も支払われない。この不快極まりない一週間がタダ働きになるのだけは耐えられなかった。
 オズに右手を差し出す。

しゅりゅうだんを持っていただろう。一つくれよ」
「転がすには遮蔽しゃへいぶつが多すぎるぞ」
「解っている」

 そう言いつつも手を下げようとはしない雄一郎に、オズがためいきらしてしゅりゅうだんを一つ手のひらへ載せてくる。受け取るなり、雄一郎はしゅりゅうだんのピンを引き抜いた。頭の中でカウントを始める。残り二秒になった瞬間、振りかぶって、全力で放り投げた。
 しゅりゅうだんは敵陣の真上に達し、激しい爆音を鳴らす。同時に鈍い断末魔の声が聞こえてきた。敵兵の身体には、頭上から降り注ぐ金属片が突き刺さっていることだろう。
 オズが今度こそ小さく口笛を吹く。

「空中爆発か。エグいことをするな」
「死に方が安らかだろうがエグかろうが、死ぬのは一緒だ」

 握っていたしゅりゅうだんのピンを地面へ放り投げながらつぶやく。すでに敵陣からの銃弾は止まっている。全員死んだか、死んだフリをしているか。
 手元の時計に視線を落とした。五分待つ。その後、敵兵の生死確認に向かうことにする。
 まるで機械のような雄一郎の動作を見て、オズが苦い笑みをにじませた。

「あんただけは敵に回したくないね」

 ちらと視線を向けると、オズは肩をすくめた。

「時々いるんだ。あんたみたいに生き死にの区別が曖昧あいまいになっちゃってる奴。そういう奴は大抵ロクな死に方をしない」

 予言めいた言葉に、雄一郎は露骨に眉をひそめた。

「俺だって生き物と死体の区別ぐらいつく」
「そういう意味じゃないよ」
「じゃあ、どういう意味だ」
「ただ、呼吸をしているだけが生きてるってことではないって意味さ」

 ますます訳が解らない。威嚇いかくする犬のように雄一郎が鼻梁びりょうしわを寄せると、オズはその口元に人懐こい笑みを浮かべた。その快活な笑みに、人を殺して金を稼ぐ者のいやしさは見えない。

「お前は何で傭兵なんかをしてるんだ?」

 問い掛けると、オズは咽喉のどの奥で、くく、と小さく笑った。

「僕の方こそ聞きたいよ。あんたこそ、どうして傭兵をしてる?」
「決まってるだろ。金のためだ」
「金のために命を捨てられるのか?」

 不躾ぶしつけにもとれるオズの返しに、雄一郎は顔をゆがめた。

「俺は金のために生きて、金のために死ぬ」

 極端かつ攻撃的に言い放つ。あきれるかと思いきや、オズは口元に柔らかな笑みを浮かべた。まるで幼い子供を見つめるような、慈愛に満ちた眼差まなざしだ。

「なぁ、金は美味うまいか」
「何?」
「金は美しいか」
「お前の言っていることは意味が解らん」

 雄一郎があきれ気味に見やると、オズは子供みたいに唇をとがらせた。

「自分の富にり頼む者、その者は倒れる、と聖人も言っている」
「お前は宗教家か」
「いいや。でも、聖書は面白い。エログロバイオレンス三拍子揃った最強のエンターテイメント小説だ。あんたに貸してやるよ」
「俺には要らんよ」

 首を左右に振る。だが、オズは雄一郎に目を向けることもなく、自身のバックパックから古びた聖書を取り出した。
 赤い表紙は擦り切れていて、それが何度も読み返されていることをうかがわせる。
 オズは、有無うむをいわさず古びた聖書を雄一郎のバックパックにねじ込んだ。そうして、まぶしいくらい白い歯をしにして笑う。

「いつか、あんたの役に立つさ」

 死んだら役には立たんだろ、と思わず言いそうになった。その言葉を咽喉のどの奥に呑み込んで、雄一郎は再び時計へ視線を落とした。五分経った。
 遮蔽しゃへいぶつに身を隠しながら、オズと二人で音の消えた敵陣へ向かう。
 敵陣に近付くほど、かえるような血臭がただよってくる。草の陰から覗き込むと、五人の男が血を流して倒れているのが視界に入った。そのうちの一人には銃創じゅうそうが見て取れる。

「全員死んでるか」

 オズが小声でささやき掛けてくる。その声に緩く目線を向けて、雄一郎は唇に人差し指を押し当てた。その仕草を見て、オズが上半身をかがめた格好で倒れた敵兵に近付いていく。雄一郎も、オズの斜め後ろに続いた。
 オズが銃口を向けたまま、うつ伏せに倒れた敵兵を仰向あおむけに転がしていく。二人目の時だった。オズが突然、大声で叫んだ。

「逃げろ、ユーイチロー!」

 叫び声に視線を向けると、仰向あおむけになった敵兵がピンの抜かれたしゅりゅうだんを胸に抱いているのが見えた。血に濡れた敵兵の唇には、紛れもない笑みがにじんでいる。
 オズがしゅりゅうだんの上におおかぶさる。そうして次の瞬間、鈍い爆音と共に光の矢が眼球をつらぬいた。
 爆発の衝撃が全身を通り抜ける。背骨が大木にたたき付けられて、目蓋まぶたの裏が真っ暗になった。


   ***


 砲弾が地面をえぐる音で目が覚めた。
 薄く目蓋まぶたを開くと、自分にしがみ付いている小さな身体が見える。まだ十代前半だろう、髪も肌も真珠のように真っ白な少年だ。勿論もちろん、雄一郎の知り合いではない。
 仰向あおむけに倒れたまま、数度またたく。耳鳴りと頭痛がひどい。雄一郎は頭を動かさず、視線だけを周囲に巡らせた。狭く、薄暗い場所だ。洞窟か、防空壕か。

「どいて、くれ」

 胸にしがみ付いて震えている少年へ、かすれた声で言う。すると、少年は驚いたように顔を上げた。雄一郎を見つめる瞳は、目が覚めるような鮮やかな青色をしている。
 上半身を起こした雄一郎は、背骨にしびれるような鈍痛が走るのを感じた。全身が血にまみれている。おそらくオズの血だろう。予想はしていたが、周囲にオズの姿はない。

「ここはどこだ」

 小さく言葉をらす。雄一郎の周囲には、少年の他に一人の男がうずくまっていた。その男も少年と同じく、真っ白な髪と肌をしている。男は、まるで神に祈るかのように雄一郎に向かって両手を組み合わせたまま、理解できない言語をブツブツとつぶやいていた。
 仕方なく少年の両肩を掴んで、その顔を覗き込む。

「ここはどこだ。誰から攻撃を受けている」

 どうしてだか少年は、敵意をにじませた眼差まなざしで雄一郎をにらけていた。少年の唇が動く。

「――o――……ena――」
「何?」
「――お――えなん――」

 最初は聞き取ることすらできなかった言語が、頭の中で自動的に組み直されていく。形すら解らなかったパズルが一つずつまっていくような感覚だった。

「お前なんか――」

 砲撃の音が近い。

「お前なんか女神じゃない」

 言葉が頭の奥で結ばれた瞬間、雄一郎の口元にった笑いがにじんだ。
 三十七歳のおっさんが女神であってたまるか。


「――何の冗談か解らんが、今はつまらん話に付き合ってる暇はない」

 相変わらず敵意をこめた眼差まなざしを向けてくる少年から視線を外して、雄一郎は砲撃の音の方向へ顔を向けた。
 今いる場所は洞窟だろう。感じる振動からして、おそらくそれほど深くはない地下。暗闇でもうっすらと周囲が視認できるのは、岩壁自体が淡く光を発しているおかげだ。特殊な素材なのか、こんな光を発する岩は今まで見たことがない。

「ここはどこだ。誰か現在位置を教えてくれ」

 鈍痛をこらえながら、ゆっくりと立ち上がる。
 繰り返される雄一郎の問い掛けに、念仏のごとき呪文を唱えていた男が顔を上げた。一瞬、男か女か判断できないほど中性的な顔立ちで、真っ白な髪が腰まで伸びている。まだ若い。
 雄一郎の顔を見た瞬間、中性的な青年はハッと息を呑み、かすかに目線をらした。まるで、何かを恥じるような仕草だ。顔をらしたまま、青年が薄く唇を開く。

「ここはアム・ウォレスから南西に千ロートほど離れた地下神殿です」
「アム・ウォレス? ロート?」

 初めて聞く地名と単位に、無意識に眉間みけんしわが寄る。いぶかしげな雄一郎の視線に気付いたのか、青年は口早に続けた。

「アム・ウォレスは、我らの国、ジュエルドの首都にあたります。ロートとは、成人男性が両手を左右に広げた時の一方の指先からもう一方の指先までの長さです」

 なら、大体一ロートが二メートルと言うことか。だが、理解できたことよりも、理解できなかったことの方が多い。

「ジュエルドなんていう国は聞いたことがない」
「それは貴方様がいた世界と、この世界が異なる場所だからです」 

 ますますもっと意味が解らない。
 まるで脳味噌にきりでもかかっているように思考が回らなくなる。どういうことかと問いただそうと口を開き掛けた瞬間、砲弾が近い場所に着弾したのか、爆音と共に天井が崩れて、岩の破片がパラパラと降ってきた。
 少年が短い悲鳴を上げて、雄一郎の腰にしがみ付いてくる。

「僕達みんな、兄さんに殺されるんだ!」

 ヒステリックな叫び声が鼓膜に突き刺さる。雄一郎は、少年の胸倉を掴んで無理やり引きずり立たせた。その雑な扱いを見て、狼狽ろうばいしたように青年が立ち上がる。

「攻撃しているのはお前の兄か」

 青年に構わず、雄一郎は少年の目を見据みすえて問い掛けた。かすかに涙ぐんだまま、少年が小さくうなずく。

「交渉の余地はあるか。砲撃は止められるか」
「む、無理だ。兄さん達は、ぼ、僕を殺したくて仕方ないんだ」
「なら、お前の死体を差し出せば攻撃は止まるか」

 雄一郎の冷血な問いに、少年の顔が見る見るうちに青ざめていく。死人のように真っ青になった少年の頬を雄一郎が眺めていると、青年が上擦うわずった声をあげた。

「ノア様を差し出しても、貴方は助かりません」

 どうやら少年の名前はノアというらしい。

「なぜだ。俺はお前らとは一切関係のない他人だ」
「貴方は、我々に勝利をもたらすために現れた女神です。兄上様がたが今この地下神殿を攻撃しているのも、女神を亡き者にしようとしてだと思われます」

 聞こえてきた女神という単語に、再び失笑がこぼれた。

「俺はただの三十七歳のおっさんだ。こんなのが女神だなんてブラックジョークにもほどがある」
「今はまだ理解できないかもしれません。ですが、貴方は紛れもなく我々の、この国の女神です。今は、この砲撃が貴方の命をも狙うものであることをご理解ください」

 淡々とした青年の言葉に、こちらをあざむいてやろうという悪意は感じられない。雄一郎は少年の胸倉から手を離して、青年に向き直った。

「向こうの砲弾が切れることは考えられるか」
「無理でしょう。兄上様がたの軍勢には隣国のゴルダールが付いています。物資は腐るほどあります」
「救援は望めるか」
「期待はできません。救援が来るとしても、四エイトは掛かるかと」

 一エイトは一日を五十分割したものだとも、簡潔に教えられる。
 つまり、大体三十分くらいか。四エイトであれば、二時間ということになる。この洞窟が砲撃の嵐を二時間も耐えられるとは思えなかった。
 雄一郎は、改めて辺りを見渡した。

「出口は一ヶ所か」
「いいえ、地下神殿の奥の泉にもう一ヶ所、古い出口が……。今は水の中に沈んでいますがもぐれば……運が良ければ運河に出られるかと」

 そこまで聞いて、雄一郎は即座に砲撃が聞こえる反対側へ歩き出した。
 絶え間なく砲弾を打たれ続けられれば、ここは近いうちに崩れ落ちる。こんな訳の解らない場所で、生き埋めになるのだけは御免だった。

「お待ちください!」

 青年が叫ぶ。振り返ると、青年が見覚えのあるものを雄一郎に差し出していた。

「貴方と一緒にこちらの世界に現れたものです。お持ちください」

 AK47とバックパック。受け取ったそれらを肩にかついで、雄一郎は再び進み出した。その後ろを青年と、青年に支えられた少年がついてくるのが気配で解る。
 薄暗く狭い坑道を進みながら、雄一郎は『もしかしたら、ここが地獄というやつなんだろうか』とぼんやり考えた。
 地獄で『女神』と呼ばれるなんて、やはり笑えない冗談だ。


 狭い地下洞窟を、雄一郎は上半身を折り曲げるようにして小走りに進んでいった。
 砲撃に絶え間なくさらされた洞窟は不定期に揺れ、岩の破片を頭に降らせる。今この瞬間に天井が崩れて生き埋めになってもおかしくない。
 駆ける雄一郎の後ろを、青年とノアが必死で追い掛けてくる。
 しばらく走り続けていると、大きく開けた空間に辿たどいた。天井は高く、白銀に発光している。
 その真下にとおった泉があった。
 近付いて、指先で水に触れる。熱くも冷たくもない。めると、無味だった。これならもぐれそうだと判断する。
 振り返ると、息を切らした青年とノアの姿があった。

「泳げるか」

 問い掛けというよりも命令に近い口調で言う。ノアが唇を半開きにしたまま、絶望的な表情で首を左右に振る。雄一郎が青年へ視線を向けると、今度は首肯しゅこうが返ってきた。

「泳ぎます」

 泳げる、ではなく、泳ぐと答える気概きがいが気に入った。雄一郎が笑みをにじませると、また青年は驚いた表情で視線をらした。その目元は苦渋にゆがんでいるのに、かすかに赤い。
 ノアが舌をもつれさせながら、慌てて言う。

「ぼっ、僕は泳げない。今まで泳いだことがないんだ……!」
「じゃあ、溺れ死ぬか、岩に押し潰されて死ぬかを選べ」

 冷たく言い放つと、ノアは雄一郎をきつくにらけた。
 ノアが肩に羽織はおっていたマントを乱暴に脱ぎ捨てる。何枚も重ねていた仰々ぎょうぎょうしい服を脱ぐと、簡素な白い衣服だけになった。

「泳げばいいんだろ……!」

 がなりながらも、その声はかすかに震えている。隠しきれない死への恐怖が、かすれた語尾ににじんでいた。
 その声を聞いた瞬間、不意にぞわりと背筋が隆起するのを感じた。
 初陣を思い出す。まだ二十歳はたちになったばかりだった。両手に抱えた銃が、手が、千切れそうなくらい重たくて、耳元をかすめる銃弾の音に震えが止まらなかったのを覚えている。結局一発も撃てず、ただ小便をらして帰った雄一郎を、上官は鼻が折れるほどブン殴ったのだ。そして、お前が撃てなかったせいで仲間が死んだ、と言われた。
 あの瞬間の全身が真っ暗な穴に吸い込まれていくような感覚は、今でも忘れられない。
 短く息を吐き出し、雄一郎も上着を脱ぎ捨てた。編み上げのブーツを手早く脱ぎ、防水袋に入れてバックパックへ収める。

もぐる前に深呼吸はするな。脳が酸欠になってブラックアウトするぞ」

 そう言い残して、泉へ飛び込もうとした瞬間、青年の声が聞こえた。

「女神様、貴方のお名前は」

 雄一郎は振り返り、じっと青年を見つめた。すると青年は、自身の胸元に手のひらを当てて言った。

「私は、テメレア。テメレア=アーク・ラドクリフ、つかささげる者です」
つかえ、ささげる?」
「はい、貴方に」

 妄執もうしゅう的にも聞こえる言葉に、雄一郎は片眉をわずかにねさせた。
 不意に、頭をよぎった。自分に聖書を押し付け、しゅりゅうだんおおかぶさった馬鹿な男のことが。他人のために命をささげた男。

「俺は、尾上おがみ雄一郎だ。女神様じゃない」

 テメレアと名乗った青年は、ゆういちろう様、とつたない口調で繰り返した。まるで大事な言葉でも口ずさむような繊細せんさいな響きに、むずがゆい何かを覚える。それを振り払うように雄一郎は、雑に言い放った。

「使い捨ての傭兵を様付けで呼んだりするな。俺はお前達を助けるつもりはない」

 今ここで行動を共にしているのは、見知らぬ場所を案内してくれる人間が必要だからだ。
 酷薄こくはくな雄一郎の言葉に、それでもテメレアは表情一つ変えずに言った。

「それでも、私は貴方に、雄一郎様に祈ります」

 雄一郎は、呆気あっけにとられてテメレアを見返した。テメレアは、真っ直ぐ雄一郎を見つめている。言い返すのも躊躇ためらうほどに、その眼差まなざしは真摯しんしだ。雄一郎は首を左右に振って、ためいきらした。

「勝手にしろ」

 そう残して、一息に泉へ飛び込む。全身を、さぁっと柔らかい水がめていく。
 泉の底も天井と同じく淡い白銀に発光していた。そのおかげで水中でも視界がいい。
 左右を見渡し、泉の側面にあいた穴を見付ける。確認するように振り返ると、雄一郎と同じくもぐったテメレアが深くうなずいた。テメレアは、死にそうな形相をしたノアの腕を掴んでいる。
 雄一郎は、再び両腕を動かして水をいた。穴へ向かって進み、水に沈んだ狭い通路を泳いでいく。息が苦しくなってきた頃、ようやく水面が見えてきた。浮き上がって、水面から顔を出すと同時に大きく息を吸い込んだ。胸が荒い息に上下する。数秒後、ノアとテメレアの頭が数メートル離れた位置に出てきた。
 出たのは、広い河の真ん中だった。雄一郎は数十メートル先に見える岸まで泳いでいき、地面へがった。体内から響く自身の鼓動を感じながら耳を澄ませる。砲撃の音は遠い。だが、止まってはいない。
 岸に掴まったまま虫の息をらすノアとテメレアの服を掴んで、地面に引きずり上げる。

「立て。休んでる暇はない」

 そう言いながら、左右を見渡した。
 緑のない、ゴツゴツとした岩肌が目立つ大地だ。柔らかく細かい砂地に、石碑せきひのようにいくつもの白い岩が不規則に立っている。三メートルを超す岩もあれば、三十センチに満たない大きさのものもある。そして、頭上をあおぎ見た瞬間、雄一郎は目を見開いた。
 白銀色の空に、信じられないほどの大きさで幾多いくたの星が散らばっている。クレーターすら肉眼で確認できるほど、星々は近くにあるように見えた。棚引たなびく銀河がまるで虹のように頭上を横切っている。もしここが地球であるなら、天体望遠鏡がなければこんな光景が見えるはずはない。

「ここは、どこだ」

 無意識に唇から言葉がこぼれていた。夢か幻覚か、それともやはり地獄なのだろうか。
 空を見つめたまま凍り付いた雄一郎を見て、テメレアがかすれた声をらす。

「先ほども申し上げました通り、ここは貴方がいた場所とは違う世界です」
「どうして、こんなところにいる」

 雄一郎は上擦うわずりそうになる声を必死で押し殺した。その問い掛けに、テメレアが一瞬だけ戸惑とまどったように視線をらす。

「この国に崩壊の危機が訪れた時、宝珠によって選ばれし『正しき王』のもとに、女神が現れるとされています。女神はこの国の危機を救い、王に勝利をもたらすと……」
「違う、お前なんか女神じゃないっ!」

 つんいのまま荒い呼吸を繰り返していたノアが、テメレアの言葉をさえぎって叫んだ。ノアはかふかふと唇から水を吐き出しながら、泣き出しそうな声で続けた。

「僕は、王様なんかに選ばれたくない……! お前だって、女神じゃない……! こんな、兄弟で殺し合うのなんて嫌だ……! お前なんかいらない、お前みたいな死神は元の世界に帰れよっ!」

 そうわめらすノアの目は、涙でぐずぐずにうるんでいた。それに同情を覚えることもなく、雄一郎は大股でノアに近付き、濡れた前髪を鷲掴わしづかんだ。そのまま引っ張り上げると、ノアの顔が痛みでゆがんだ。

「黙れ、ギャアギャアわめくな。殺されたいのか」

 ノアの顔を覗き込んで、ゆっくりと吐き捨てる。途端、ノアの瞳に再び憎悪の炎がにじんだ。
 雄一郎を憎む目、そして血にまみれた王座をいとう目だ。
 掴んでいたノアの前髪を離して、雄一郎は視線をテメレアへ戻した。

「こんなガキが『正しき王』だって言うのか」

 その問い掛けに、テメレアはうなずきを返した。

「今から三月みつきほど前に、ジュエルドの国王が亡くなりました。そして、国王が亡くなった後、宝珠によって新たな王が選ばれたのです。国王の血をひくのは、正妻の嫡男ちゃくなん、長男のエドアルド様、第二夫人の御子、次男のロンド様、そして第三夫人の……元は巫女みこであった女性の御子であるノア様です。宝珠は、兄上様お二人ではなく、ノア様を『正しき王』であると選ばれました。ですから……」
「末っ子に王座を取られた兄二人が怒りくるって内乱を起こしている、とそういうことか?」
「はい。しかも、兄上様がたは隣国のゴルダールと手を組み、その力に恐れをなした貴族達も兄上様がたの勢力に流れております。……現状、我々は圧倒的に劣勢です」

 劣勢という言葉に、思わず口角に笑みがにじんだ。喜んでいるわけではない。ただ嘲笑ちょうしょうしたくなるのだ、すべてを。特に、いつの間にか不利な戦場に身を置いている自分自身を。

「宝珠が昨夜告げました。愛し子、つまり女神がやってくると。異なる世界から、我らを救うためにこの世界へ『飛び越えてくる』と。ですから、こうしてノア様と私の二人でお迎えに上がったのです」

 事実のみを告げているような淡々としたテメレアの口調に、どうしてだか寒気が走った。
 何だ『飛び越える』って。何が『女神』だ。
 当たり前のようにテメレアが受け入れていることが、雄一郎には受け入れられない。

「そりゃあ、お迎えありがとうよ。だが、残念ながら俺は違う。女神なんてもんじゃねぇよ。見りゃ解るだろうが、そもそも女でもない」

 これ見よがしに両腕を広げて、茶化すようにつぶやく。だが、テメレアは首を左右に振った。

「性別など問題ではありません。貴方は間違いなく女神です」
「何を根拠に」

 失笑混じりに吐き捨てる。だが、苦虫を噛み潰したような雄一郎の顔を見つめて、テメレアは吐息をらすようにつぶやいた。

「貴方は美しい」

 一瞬、開いた口がふさがらなくなる。唇を半開きにしたまま、雄一郎は唖然あぜんとテメレアを眺めた。
 誰かに美しいなどと言われたのは初めてだ。そもそもそれが自分に対する言葉だとも思えなかった。


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