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第二章
11 名前で呼ぶな
しおりを挟む保が懊悩(おうのう)していると、藍人はメルたんに向かって冷めた声をあげた。
「僕の言ってること分かったよね? 分かったなら、さっさと消えて」
端的な藍人の言葉を聞くと、メルたんは憎々しげに顔を歪めた。先ほどまでは小動物のように可愛らしかった顔が、今はひどく鬼女のごとくおぞましく崩れている。
だが、藍人は怯む様子もなく、むしろ笑みを深めて、メルたんの顔を覗き込んだ。
「これ以上、僕らの周りに悪臭を撒き散らすな」
侮蔑の台詞に、メルたんの身体が凍り付くのが見える。アルファに明確な憎悪をぶつけられたオメガの、傷付いた反応だ。
とっさに保は片手を伸ばして、藍人の腕を掴んでいた。藍人が驚いたように保を見やる。その顔を見上げたまま、保は強張った動きで首を左右に振った。保の仕草を見て、藍人が困ったように眉尻を下げる。
「こんなのにまで同情するなんて、保さんは甘いなぁ」
ひとりごとみたいに呟くと、藍人は、ふぅ、と小さく息を吐いた。
直後、硬直がほどけたように、ふらふらとメルたんが立ち上がった。片手にはスマホを持って、もう片方の手ははだけた胸元を押さえている。メルたんは障子の方へと歩いて行くと、近くに立っているミミリンを横目で睨み付けた。
「あんた、ここままじゃ済まないから」
「や~ん、怖いこと言わないでよぉ。あたしたち、同じグループの仲間じゃんかぁ~」
メルたんの脅しに、ミミリンが大袈裟な仕草で身体をくねらせる。まるっきり茶化したようなミミリンの反応に、メルたんは露骨に目尻を吊り上げた。
「オメガだからってバカにしやがってッ!」
それはミミリンへの言葉というよりも、藍人に向けての悪態だったのかもしれない。
そう吐き捨てて、メルたんが個室から怒った足取りで出て行く。その後ろ姿に向かって、ミミリンは相変わらず気の抜けた声をあげた。
「気をつけて帰ってねぇ~」
だが、メルたんの姿が見えなくなると、ミミリンの口元には明らかな嘲笑が滲んだ。メルたんが消えた方を眺めたまま、ミミリンが呟く。
「オメガだからバカにしてるんじゃなくて、あんたがバカだからバカにしてんだっつーの。つか、あんたがあたしのこと『年増ババア』って呼んでんの知ってんだからな、ブース」
先ほどとは打って変わって、ドスのきいた声で吐き捨てる。チッと舌打ちしながら、ミミリンは片手で自身の前髪を掻き上げた。無邪気キャラとは程遠い、ヤンキーのような仕草だ。
その変わりように保が口を半開きにしたまま固まっていると、藍人がミミリンに向かって声をかけた。
「今の動画、君のところの社長にも送っておくから。もちろん保さんの声は消すけど」
「え~、助かりますぅ~。メルたんずっと人気最下位だったから、そろそろクビにする理由探してたんですよね~」
また人格がコロッと変わって、ミミリンが媚びを売るような口調で答える。まるで小悪党が悪代官に擦り寄っているような光景だ。
その反応に、藍人は口角を捻るようにして薄笑いを浮かべた。
「君、小賢(こざか)しいね」
「えぇ、なんでですかぁ?」
「ここまでタクシーで追いかけてる最中に、保さんが僕と一緒にいることに気付いて、彼女を裏切って僕ら側につくことを決めたんだろう? もし保さんが一人だったら、彼女と一緒になって自分たちを撮るように脅していたはずだ」
タクシーで追いかけていた、という藍人の一言に、保は身体を強張らせた。まさか局を出たときから、藍人は自分の車を追いかけてくるタクシーがいることに気付いていたのか。
藍人が軽く首を傾げて訊ねると、ミミリンは一瞬だけチラリと口角を上げた。だが、すぐさま驚いた様子で首を左右に振る。
「まさかまさかっ。人を脅すなんて、そんな怖いことできませんよぉ」
「よく言うよ」
藍人が嘲り混じりに言うと、ミミリンは縋るように保を見てきた。
「ねっ、ねっ、保っちも、私のこと信じてくれるよね」
いつの間にか『奇跡くん』呼びから『保っち』呼ばわりに変わっている。
保が頬を引き攣らせていると、不意に藍人が「はぁ?」と鈍くうなるような声をあげた。
「は? 保っち?」
地の底から這い上がってくるような藍人の低い声音に、ミミリンが焦った様子で首を左右に振る。
「あっ、すんません、保さん、ですっ」
「誰が名前で呼んでいいって言った?」
「ほんと、マジでサーセン。芦名さん、芦名先輩、芦名大王様です」
また後輩みたいな口調で言って、ミミリンが深々と頭を下げてくる。その姿を見て、藍人がゆっくりと頬を緩める。
「今後とも、スタッフさんとの距離感には気を付けて」
「おま言うっ!」
今世紀最大の『お前が言うな』案件が発生して、口が勝手に動いていた。全力でツッコミを入れる保の姿に、藍人がまた大きく噴き出す。楽しそうに笑いながら、藍人が保へと手を伸ばしてくる。
「ほら、戻ってご飯食べよう」
小さな子供を相手にするような口調に釈然としないものを感じつつも、保は黙って藍人の手を掴んだ。引っ張られるままに立ち上がると、そのままのろのろとした足取りで個室を出て行く。
軽く肩越しに振り返ると、ミミリンがこちらに向かって掌を振っているのが見えた。会釈を返そうとした瞬間、ぐいっと藍人に肩を抱かれて止められる。驚いて視線を上げると、藍人が冷たい眼差しでミミリンを見据えていた。
「今晩のことは?」
「見ざる、言わざる、聞かざるです」
自身の目、口、耳の順番でミミリンが両手を押し当てる。それを見て、藍人は目を細めて微笑んだ。
「やっぱり、小賢(こざか)しいな」
「褒め言葉だと受け取っておきます~」
ミミリンの間延びした声を背に、藍人が保の肩を抱いたまま歩き出す。廊下に出ると、相変わらず店内はざわついていた。閉められた左右の個室からは、酔っ払いたちの賑やかな笑い声が聞こえてくる。この様子なら、自分たちのやり取りを聞いていた人はいなさそうだと安心する。
元いた個室へと戻りながら、保はチラッと藍人を見やった。
「あの、ありがとうございます」
「ありがとう?」
「助けてもらったんで……」
実際、藍人がいなかったら、きっとメルたんにセクハラを捏造されて、保は脅される羽目になっていたのだろうと思う。想像するだけでも、寒気の走る未来だ。
ぶるりと小さく皮膚を震わせると、藍人が保の耳元に唇を寄せてきた。
「有り難うって思ってるのなら、お礼にキスの一つでもして欲しいな」
からかうように囁かれて、保は顔面が一気に熱くなるのを感じた。藍人はどこか楽しげな表情で、保を見下ろしている。その瞳には、先ほどのような冷淡さはなく、たゆたうような優しさだけが滲んでいる。
だが、その瞬間、ふと胸ポケットにささったペン型の隠しカメラのことを思い出した。胸元を片手で押さえながら、ぽつりと呟く。
「ちょっと待った。もし俺があの二人に捕まらずに、そのままトイレに行ってたら、カメラにその映像が映ってたんじゃ……」
保が自問自答するように呟くのと同時に、肩に回っていた藍人の腕がするりと離れていった。保と距離を取るように、藍人が大股で廊下を歩き出す。まるで親に悪戯がバレて逃げ出そうとする子供みたいな反応だ。
「おいこら、ちょっと待て」
咽喉の奥から低い声を上げながら、保は逃げる藍人を小走りで追いかけた。
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