【書籍化決定/完結】カメラ越しのシリウス イケメン俳優と俺が運命なんてありえない!

野原 耳子

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第五章

29 法定速度を守ってぶっ飛ばす

 
 その日は、重たい鉛(なまり)が胃に詰められているような感覚のまま仕事を続けた。

 江口との面談後に保に与えられた仕事は、いつものスタジオ内での撮影ではなく、機材保管室でのカメラ整備の作業だった。誰もいない狭い保管室の中で、ただひたすらカメラをバラして部品やレンズを磨いていく。

 もちろんこれも大切な作業だと理解しているが、チマチマとした部品をひたすら磨いていると、不安に押し潰されそうになった。もしかしたら、自分はもう二度と撮影現場に戻れないかもしれないと思うと、胸を締め付けられて息ができなくなる。

 だが、それも自業自得だった。自分をベータみたいなオメガだと思い込んで、周りへの相談や配慮を怠っていた。だから、こういう結果になった。何よりも最悪なのは、自分自身だけでなく周りまで面倒事に巻き込んでしまったことだ。

 自責の念に駆られる度に、保は机に額を打ち付けたくなった。だが、自傷行為に走ったところで何も解決しないことも分かっている。

 だから、ひたすら心を無にしてレンズをピカピカに磨いていく。磨き終わったレンズを光に透かすと、チカッと星のように煌めいた。







 就業時間が過ぎると、保は鬼村に退勤の挨拶をして、とぼとぼと帰宅準備をした。

 保以外のカメラチームは、まだスタジオ内でバタバタと忙しなく動いていた。だが、それも当然だ。チームの一人が突然撮影から抜けてしまったのだから、その穴埋めに必死なのだろう。

 保が挨拶に行くと、カメラチームは一瞬だけ動きを止めて、哀れむような眼差しを向けてきた。きっとあの雑誌の内容が、すでに局内に広まってしまっているのだろうと思う。

 局の廊下を歩いている最中も、保と擦れ違った後にヒソヒソと囁くような声が背後から聞こえてきた。


「あの人……オメガだったんだ……」
「えぇ……藍人があの人を……?」
「めちゃくちゃ普通じゃない……?」


 どれだけ小さく潜められていても、聞きたくない言葉ほど耳に入ってくる。保は深く顔を伏せたまま、ロボットみたいなぎこちない動きで歩き続けた。

 局のスタッフ出入口から出たところで、わずかにほっと息が漏れた。落ち着くためにも、外の冷たい空気を吸い込んで深呼吸をしようとする。だが、その安堵は一瞬で吹き飛んだ。


「芦名保さん?」


 フルネームで呼ばれたことにギクリと肩が強張る。

 視線をやると、夜の暗がりに溶け込むようにして、植え込みの縁に腰掛けた男の姿が見えた。四十代中頃であろう男は、上下黒のジャージを着ていて、頭には黒いバケットハットをかぶっている。いかにもパパラッチといった、性格の嫌らしさがニヤついた顔に滲んでいた。


「お仕事終わりにすいませんねぇ。私、B社で記者をやっております坪井(つぼい)って者なんですが、ちょっとインタビューさせていただけませんか?」
「お断りします」


 即座に答えて、保は足早に歩き出した。だが、後ろから坪井が小走りで着いてくる足音が聞こえてくる。


「いやいや、そう冷たいことを言わんでください。世間の皆様が芦名さんの言葉を待ってるんですよ。一言ぐらい何かおっしゃってもいいんじゃありませんか?」
「何も話すことはありません」


 視線も向けずに、頑(かたく)なな声で返す。

 どこかでタクシーでも捕まえて撒(ま)いた方がいいかもしれない。そう考えて、車通りが多い道へと大股で歩いて行く。


「まあまあ、もちろんインタビューの謝礼は出しますよ。うちに独占インタビューさせていただけるのであれば、二桁ぐらいはお渡しできますから」


 後ろからしつこく声をかけてくる坪井を、完全に無視して歩き続ける。視線を道路へと巡らせるが、あいにく目に入るタクシーはすべて客を乗せていた。

 保が必死にタクシーを止めようとしていると、背後から粘着いた声が聞こえてきた。


「それとも、清水藍人さんのお相手をしていたから、もうお金は十分に貰ってらっしゃるんですかぁ?」


 鼓膜にべったりと貼り付くような、不快な声音だ。とっさに振り返ると、坪井がニヤニヤと笑みを浮かべてこちらを眺めていた。


「最初にお誘いになられたのは、どちらからですか? やっぱりオメガである芦名さんから? それとも、清水さんからですか? 貴方は一見するとオメガに見えませんから、処理相手に選んでも疑われることない相手で、清水さんにとっては都合が良かったのかもしれませんねぇ」


 恥ずかしげもなく下卑(げび)た憶測(おくそく)を吐き続ける男を、思いっきりぶん殴ってやりたかった。怒りのあまり、目蓋の裏が一瞬深紅色に染まる。


 ――あの人のことを何も知らないくせに……。


 震える息を吐き出しながら、こんな見え透いた挑発に乗ってはいけないと必死に自制する。殴ったり、激昂して言い返したりすれば、向こうの思うつぼだ。やり返せば、きっと今回以上にひどい記事を書かれる羽目になる。

 保は奥歯をキツく噛み締めると、再び道路へと視線を向けた。遠くからタクシーが近付いてくるのが見えて、片手を上げようとする。

 だが、腕を上げかけたとき、不意にギュイィィイィイッと凄まじいブレーキ音を立てて、目の前に黒いバンが急停車した。


「えっ?」


 保が間の抜けた声をあげるのと同時に、バンの後部座席の横開きドアが勢いよく開く。直後、中から長い腕がにゅっと蛇のように出てきて、保の両腕を鷲掴んだ。


「うぉ、ぇえぇえぇっ!?」


 力強い腕に、一瞬で身体を後部座席に引っ張り込まれる。後ろを振り返ると、坪井が唖然とした表情でこちらを眺めているのが見えた。大きな音を立てて後部座席のドアが閉まった直後、黒いバンが急発進する。

 数秒もかからぬ内に拉致されたことに混乱しながら、視線を上げる。すると、黒いニット帽を被り、黒いサングラスとマスクをつけた男の姿が見えた。だが、濃いサングラスの下から薄らと透けて見える瞳には見覚えがあった。


「あっ、藍人さん?」


 上擦った声で問い掛けると、藍人は片手で自身のサングラスとマスクを剥ぎ取った。はぁっ、と大きく息をついてから、早口で訊ねてくる。


「保さん、大丈夫? どこも打ったりしてない?」


 藍人が、確かめるように保の頬や二の腕を撫でてくる。そのくすぐったい感触を感じながら、保は困惑したまま唇を開いた。


「俺は大丈夫、ですけど、なんで……」


 なんで、いきなり車に連れ込んだのか。と問うように見上げると、藍人はわずかに苦々しい表情を浮かべた。


「乱暴なことして、ごめん。記事が出た直後だから、きっと保さんも記者に張られてるだろうと思って」


 藍人のその予想はしっかりと的中したわけだ。

 藍人の口から出た『記事』という一言に、保はハッとして声をあげた。


「それより、大丈夫なんですか? あんな記事が出て……」


 気まずさのあまり、言葉が半端に詰まる。藍人は気遣うように、保の肩をそっと掌で撫でた。


「僕は大丈夫だけど、保さんの方こそ大丈夫? 上から何か言われたでしょう?」
「言われましたけど、別に大したことないです。藍人さんの方こそ、仕事に影響は出てないですか? 映画だって予告が公開されたばかりだったのに……」
「そんなことは気にしなくていいよ」
「気にしますよッ」


 堪えきれず、言い返す声が尖る。藍人を見つめる眼差しが険しく吊り上がっていく。保が悔しげに睨み付けていると、藍人はわずかに息を呑んだ。

 重苦しい沈黙が車内に流れる。その静けさを破ったのは、運転席から聞こえた声だった。


「まずいですね。つけられてますよ」


 視線を向けると、運転席でハンドルを操作する猿渡の姿が見えた。普段つけている丸眼鏡を外しており、いつもは引っ詰めている髪の毛をほどいている。

 猿渡が目線だけで示すように、フロントミラーを見やる。その視線に促されて後方の窓を振り返ると、数台後ろのタクシーの助手席に先ほどの記者・坪井が乗っているのが視界に入った。

 それを見て、藍人がうんざりした声を漏らした。


「しつこいなぁ」


 言いながら、藍人が保の両肩を掴んで、ぼすんっと後部座席に座らせてくる。そのまま、シートベルトをきっちりと付けられた。


「保さん、しばらく揺れるから口を閉じて、舌を噛まないように気を付けてね。両手はアシストグリップを握っておくか、体勢を低くしてしっかりと頭を抱えていて」
「そ、それっ、飛行機が落ちるときの体勢じゃ……」


 衝撃を受ける前の防御姿勢というやつじゃないだろうか。か細い声でツッコミつつ、ふと以前の記憶を思い出す。

 そういえば、以前に藍人は猿渡のことを『仕事は優秀だが、運転だけ特殊』と言っていた。だから、マネージャーであるにも関わらず、今までは猿渡ではなく藍人が車の運転をしていたのだ。だが、今ハンドルを握っているのは、その猿渡である。


「よーし! 振り切りますよっ!」


 意気込むように猿渡が大きな声をあげる。その目が、いつもよりギラギラと輝いている気がする。

 藍人は自身のシートベルトを締めると、両目を閉じて、胸の前で十字を切った。その神に祈るかのような仕草にも、嫌な予感が込み上げてくる。


「猿渡さん、安全運転で」


 藍人がそう告げると、猿渡は、アハハッ、と躁(そう)じみた笑い声をあげた。


「もちろんです。法定速度を守ってぶっ飛ばしてやりますよッ!」


 絶対に法定速度を守る人の言い様じゃない。


「え、ちょっ、運転手を代わった方がぁ、ぅギぁあァアあぁッッ!」


 保が上擦った声で言い掛けるのと、車のアクセルが全開で踏み込まれるのは同時だった。ギュンッと凄まじい重力で、身体が後部座席に押し付けられる。


「保さん、口を閉じて!」


 聞こえてきた藍人の忠告に、保は奥歯をキツく噛み締めた。命綱のようにドア上のアシストグリップを両手で握り締める。

 窓の外で、凄まじい速度で風景が通り過ぎていく。それを見ているのが恐ろしくて、保は両目を硬く閉じた。まるでジェットコースターにでも乗ったみたいに、身体が左右にぶんぶんと振り回される。


「ちんたら走ってんじゃねぇ、叩き潰すぞォ!」


 ドスのきいた猿渡の声が聞こえてくる。その豹変っぷりが恐ろしすぎて、保は数十年ぶりに怖くて泣きそうになった。

 そうして、藍人が猿渡の運転を『特殊』と称していたことが、どれほどオブラートに包まれた言葉だったのかを実感したのである。
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