47 / 94
Ⅶ 祈り
5.冠
しおりを挟む
ルテニアは、雷鳴石と呼ばれる鉱物を産する。
音を吸収する働きを持つ石だ。
この石のそばで手を叩くと、音は柔らかい周辺部から中央の微小な核へと伝わり、音を貯めこむ。
長い時間をかけ、核が音で満ちると、石は弾けて結晶化する。
その結晶がまた核となり、新たなる雷鳴石が育つのである。核を親石、周辺部を子石ともいう。
弾けたあとも、石の親子関係は切れるわけではない。結晶化するまでの間、子石には親石が貯め込んだ音が伝播することが確認されている。あたかも孵化したての幼虫が、自分を養っていた卵の殻を栄養源にするように。
古代ルテニア人は加工したこの石を祭祀の場で利用した。
親石の首飾りを下げた王や司祭の言葉は、子石のある場所へ広く伝わる。王の決定や祈りの歌を多くの民に聞かせることは、王家の権力を高めるために有用だった。
戴冠式は、司祭の祈り歌から始まる。
女神の足元で、ルカは親石に向かって聖なる歌をうたった。
歌は聖都の各所に設置された子石へと伝わる。
祈りの言葉と節回しは荘厳な響きを帯びているが、一定で覚えやすい。
民は歌を口ずさんだ。旅芸人が旋律を合わせる。親石の吸い込んだ音を子石が拡散する。
ジェイルはどこかでこの歌を聴いているだろうか、とルカは思う。イグナス領からの来賓はベアシュだと聞いた。そばで彼を守っているだろうか。それとも女神を称える歌を嫌い、雑踏で顔を伏せているのか。
人々の意識を十分に惹きつけた、その瞬間にルカは息を吸い込み、歌に終止符を打つ。
ルカが清めた場に、ナタリアが姿を現す。
王となる者は代々、王城を出て女神の足元に下るのがならわしだった。
純白のドレスに取り付けた長い裾の左右を、くじで選ばれた市井の子どもに持たせている。そうすることで新王の治世が末長く続くことを祈るのだという。
ナタリアがルカの元へ来ると、裾は地へ降ろされた。
美しいナタリアは、女神そのものだった。民の畏れと喜びを、ルカは肌でびりびりと感じた。
この重圧に、震えない方がおかしい。
ルカは汗ばんだ手で祭具を繰り、女神の威光を借りた。
三方に適切な聖水を振りまき、ルテニアの地を讃する祈りを、舌を噛みそうになりながら三度繰り返す。
頭に叩き込んだ司祭の型をルカが演じる間、ナタリアは膝を折って女神像を拝した。
民は美しい女王に目を奪われていた。高い鳥影が上空を斜めに横切った時は声が上がった。ナタリアに大きな翼が生えたように見えたのだ。偶然さえもが必然として彼女に味方した。
やがてルカは、ナタリアの銀髪に王冠を授けた。祈りの手を組み、宣言する。
「女王ナタリアの誕生を、ここに証します」
ナタリアが立ち、くるりと民を振り向いた。割れんばかりの声援が上がる。
ルカは密かに胸を撫で下した。司祭としての役割はひとまず済んだ。後は女王ナタリアが親石に向かって結びの言葉を述べるだけだ。
ルカは一刻も早くこの場から解放されたかった。ナタリアの真意を確かめなければならない。
ナタリアが親石の前に立つ。
ルカはその後ろ姿に違和感を持った。
わずかに屈んだナタリアが、ドレスの脇から何かを取り出した。
陽光の下で銀色に光る、筒状のそれは。
精霊銃だ。
ルカは止める間もなかった。ナタリアが高い空に銃口を突きつける。
雷鳴石がバチバチと鳴った。大気中から取り出された緑の光の粒が精霊銃に、円を描くように集まる。
「ナタリア様……!」
ルカの声は空を穿つ轟音に飲み込まれた。
人々は耳をふさぎ、体を伏せる。万民をひれ伏させ、女王ナタリアは言った。
「高き天におわす女神も、低き地に繋がれた罪びとも、わたくしを言祝いでいると信じています」
ルカは、群衆の中でコパが叫ぶのを見た。彼の計画にないことが起ころうとしている。
ナタリアは精霊銃を捨てた。
「これは女神の神器ではない」
ルカは蒼褪めた。
「我が父アドルファスは王家の誇りを捨て、鮮緑の雷筒をタジボルグ帝国に明け渡したのです。そのために冬麗の戦で多くの民が犠牲を被ったことは、王家の者として慙愧の念に堪えません」
それは、一般には伏されている真実だ。ナタリアは雷鳴石の力で、ルテニアの民にすべてを暴露しているのだ。
「わたくしは耳障りのいい嘘を好みません。女神の足元で、今、すべてが明らかにされました」
民は困惑しているに違いなかった。新たな女王を得て彼らは安心したかったのに、美しいナタリアはこの国の根底を揺るがそうとしているのだ。
「一人ひとりの勇気ある決断を私は求めています。わたくしが女王であるのではない。あなたがたが、わたくしを女王にするのです。嘘偽りなく、力の限り、わたくしはこの国を守りましょう」
さあ、と、ナタリアは群衆に両手を差し出した。
「あなたがたは、わたくしに言うべきことがあるのではありませんか」
一瞬の静寂のあと、群衆が沸いた。女王陛下万歳、女王陛下万歳。地を揺るがすほどの熱い気勢に、ルカは思わず前に出てナタリアを庇った。
配置された近衛騎士が、手で鎖を作って人波を押さえようとする。興奮した民によって大混乱が起ころうとしていた。彼らの顔には、喜びと怒りが混然としていた。
目の前で何が起こっているのか、彼らにはわからないのだろう。まったく新しい出来事に混乱しているのだ。
ルカとナタリアの二人は、女神の足元に身を伏せた。
「ナタリア様、なぜこのようなことを。これからどうするおつもりなのです!」
「すべきことは決まっています」
ナタリアは静かだった。ルカとよく似た顔で、ルカが決して浮かべることのない冷然とした表情を浮かべている。
「わたくしたちは王家の者として、鮮緑の雷筒を取り返さねばならない」
「そんな。どうやって」
「行きなさい、ルカ」
「何をするのです」
ナタリアはルカを引きずった。女神像の地下に、大聖堂とつながる細い解散がある。司祭職はそこを行き来して儀式の準備をしていた。
「父を人質にとられたわたくしに、おまえを守る力はありません。混乱に乗じて逃がすことしか」
「おやめください、ナタリア様、おねえさま、どうか」
「早く行きなさい」
ナタリアがルカの頬を打った。ルカは驚いて一歩後ずさる。
後ろは階段だ。足が空を切り、転がり落ちたルカはしりもちをついた。
「約束を忘れないで」
ナタリアは頭上から言った。
「姉の言葉を守らぬ者に戻って来られても、わたくしは迷惑です」
光を背負ったナタリアの顔は、眩しくてルカには見えなかった。
音を吸収する働きを持つ石だ。
この石のそばで手を叩くと、音は柔らかい周辺部から中央の微小な核へと伝わり、音を貯めこむ。
長い時間をかけ、核が音で満ちると、石は弾けて結晶化する。
その結晶がまた核となり、新たなる雷鳴石が育つのである。核を親石、周辺部を子石ともいう。
弾けたあとも、石の親子関係は切れるわけではない。結晶化するまでの間、子石には親石が貯め込んだ音が伝播することが確認されている。あたかも孵化したての幼虫が、自分を養っていた卵の殻を栄養源にするように。
古代ルテニア人は加工したこの石を祭祀の場で利用した。
親石の首飾りを下げた王や司祭の言葉は、子石のある場所へ広く伝わる。王の決定や祈りの歌を多くの民に聞かせることは、王家の権力を高めるために有用だった。
戴冠式は、司祭の祈り歌から始まる。
女神の足元で、ルカは親石に向かって聖なる歌をうたった。
歌は聖都の各所に設置された子石へと伝わる。
祈りの言葉と節回しは荘厳な響きを帯びているが、一定で覚えやすい。
民は歌を口ずさんだ。旅芸人が旋律を合わせる。親石の吸い込んだ音を子石が拡散する。
ジェイルはどこかでこの歌を聴いているだろうか、とルカは思う。イグナス領からの来賓はベアシュだと聞いた。そばで彼を守っているだろうか。それとも女神を称える歌を嫌い、雑踏で顔を伏せているのか。
人々の意識を十分に惹きつけた、その瞬間にルカは息を吸い込み、歌に終止符を打つ。
ルカが清めた場に、ナタリアが姿を現す。
王となる者は代々、王城を出て女神の足元に下るのがならわしだった。
純白のドレスに取り付けた長い裾の左右を、くじで選ばれた市井の子どもに持たせている。そうすることで新王の治世が末長く続くことを祈るのだという。
ナタリアがルカの元へ来ると、裾は地へ降ろされた。
美しいナタリアは、女神そのものだった。民の畏れと喜びを、ルカは肌でびりびりと感じた。
この重圧に、震えない方がおかしい。
ルカは汗ばんだ手で祭具を繰り、女神の威光を借りた。
三方に適切な聖水を振りまき、ルテニアの地を讃する祈りを、舌を噛みそうになりながら三度繰り返す。
頭に叩き込んだ司祭の型をルカが演じる間、ナタリアは膝を折って女神像を拝した。
民は美しい女王に目を奪われていた。高い鳥影が上空を斜めに横切った時は声が上がった。ナタリアに大きな翼が生えたように見えたのだ。偶然さえもが必然として彼女に味方した。
やがてルカは、ナタリアの銀髪に王冠を授けた。祈りの手を組み、宣言する。
「女王ナタリアの誕生を、ここに証します」
ナタリアが立ち、くるりと民を振り向いた。割れんばかりの声援が上がる。
ルカは密かに胸を撫で下した。司祭としての役割はひとまず済んだ。後は女王ナタリアが親石に向かって結びの言葉を述べるだけだ。
ルカは一刻も早くこの場から解放されたかった。ナタリアの真意を確かめなければならない。
ナタリアが親石の前に立つ。
ルカはその後ろ姿に違和感を持った。
わずかに屈んだナタリアが、ドレスの脇から何かを取り出した。
陽光の下で銀色に光る、筒状のそれは。
精霊銃だ。
ルカは止める間もなかった。ナタリアが高い空に銃口を突きつける。
雷鳴石がバチバチと鳴った。大気中から取り出された緑の光の粒が精霊銃に、円を描くように集まる。
「ナタリア様……!」
ルカの声は空を穿つ轟音に飲み込まれた。
人々は耳をふさぎ、体を伏せる。万民をひれ伏させ、女王ナタリアは言った。
「高き天におわす女神も、低き地に繋がれた罪びとも、わたくしを言祝いでいると信じています」
ルカは、群衆の中でコパが叫ぶのを見た。彼の計画にないことが起ころうとしている。
ナタリアは精霊銃を捨てた。
「これは女神の神器ではない」
ルカは蒼褪めた。
「我が父アドルファスは王家の誇りを捨て、鮮緑の雷筒をタジボルグ帝国に明け渡したのです。そのために冬麗の戦で多くの民が犠牲を被ったことは、王家の者として慙愧の念に堪えません」
それは、一般には伏されている真実だ。ナタリアは雷鳴石の力で、ルテニアの民にすべてを暴露しているのだ。
「わたくしは耳障りのいい嘘を好みません。女神の足元で、今、すべてが明らかにされました」
民は困惑しているに違いなかった。新たな女王を得て彼らは安心したかったのに、美しいナタリアはこの国の根底を揺るがそうとしているのだ。
「一人ひとりの勇気ある決断を私は求めています。わたくしが女王であるのではない。あなたがたが、わたくしを女王にするのです。嘘偽りなく、力の限り、わたくしはこの国を守りましょう」
さあ、と、ナタリアは群衆に両手を差し出した。
「あなたがたは、わたくしに言うべきことがあるのではありませんか」
一瞬の静寂のあと、群衆が沸いた。女王陛下万歳、女王陛下万歳。地を揺るがすほどの熱い気勢に、ルカは思わず前に出てナタリアを庇った。
配置された近衛騎士が、手で鎖を作って人波を押さえようとする。興奮した民によって大混乱が起ころうとしていた。彼らの顔には、喜びと怒りが混然としていた。
目の前で何が起こっているのか、彼らにはわからないのだろう。まったく新しい出来事に混乱しているのだ。
ルカとナタリアの二人は、女神の足元に身を伏せた。
「ナタリア様、なぜこのようなことを。これからどうするおつもりなのです!」
「すべきことは決まっています」
ナタリアは静かだった。ルカとよく似た顔で、ルカが決して浮かべることのない冷然とした表情を浮かべている。
「わたくしたちは王家の者として、鮮緑の雷筒を取り返さねばならない」
「そんな。どうやって」
「行きなさい、ルカ」
「何をするのです」
ナタリアはルカを引きずった。女神像の地下に、大聖堂とつながる細い解散がある。司祭職はそこを行き来して儀式の準備をしていた。
「父を人質にとられたわたくしに、おまえを守る力はありません。混乱に乗じて逃がすことしか」
「おやめください、ナタリア様、おねえさま、どうか」
「早く行きなさい」
ナタリアがルカの頬を打った。ルカは驚いて一歩後ずさる。
後ろは階段だ。足が空を切り、転がり落ちたルカはしりもちをついた。
「約束を忘れないで」
ナタリアは頭上から言った。
「姉の言葉を守らぬ者に戻って来られても、わたくしは迷惑です」
光を背負ったナタリアの顔は、眩しくてルカには見えなかった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
57
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる