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番外編「ニャンヤンのお祭り」
3.小さな施療院
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ルカが目を覚ますと、部屋にジェイルの姿はなかった。
まだ朝の早い時間だ。冷たくなった寝床のシーツに白い光が射していた。
何も告げずにいなくなるのは初めてではないが、ルカは心細い気持ちになる。
『俺といろ。ずっとだ』
昨夜そう言ったのはジェイルだ。なのに彼は今、ここにいない。
同じベッドでおねだりを聞いてくれた後、彼は対価かのようにルカのからだを求めた。
交際している身でもあり、ルカも奉仕するのはやぶさかではないのだが、ジェイルの体力は底なしだった。いつもおしまいまで意識を保っていられない。
今日も起きればジェイルが身を清めてくれた後で、それはとても有難い心遣いなのだが、ルカは何もかも夢だったみたいな気がして寂しい。
手を握って、後ろから突いてもらった気がする。果ててもすぐに勃起するジェイルの男性器を口で慰めた気がする。
でも、本当にそんなことをしただろうか。思い出そうとすればするほど綿菓子みたいに溶けていく記憶に、ルカはうなだれた。本当に現実だったかどうか、なにひとつ証明できないのだ。
ルカは頭を振って起きだした。修道士のルカが、女神様より恋人を優先するなんて良くないことだ。
朝の祈りを捧げ、身支度を整えたルカは宿を出た。
ルテニア王国で雄黄領と呼ばれるラウムは、工芸で栄えた都市だ。
中でもルカのいるセイボリーの町は、細工物で有名だった。
契機は、聖都シュテマの大聖堂建築にあると言われている。かつてルテニア中から呼び寄せられた職人たちがこの地に滞在し、選抜試験を受けた。
合格した大工は聖都へ上ったが、落第した職人の中には帰る場所がない者もいたようだ。彼らはそのままセイボリーの町に居を構え、いくつかの工房を開いた。
おそらく試験に落とされたことに反発してだろう、職人たちは伝統的な装飾をきらい、素朴な作風を好んだ。その性質は女神像にもあらわれている。
シュテマの女神像が貴族の姫君のようにたくさんの装身具を身に着けているのに対し、セイボリーの女神像がまとっているのは薄衣だけだ。からだの線は太く、あえて言うなら寸胴で、口元には大らかな笑みを浮かべている。
ルカはこの町に根付いている、親しみ深い女神様の姿も好きだった。なんでも相談に乗ってくれそうに見える。
これなら女神嫌いのジェイルも心を開けるのではと思ったのだが、彼は遠目にちらっと見て『あの腹に金を貯めこんでいるんだろうな』と言っただけだった。
セイボリーの女神様はそんなことをしていないと、ルカはよく知っている。
聖堂の横に小さなテントを張って、小さな施療院を開いているからだ。
栄えている一方で、ラウムは貧富の差が激しかった。
特に最近は政情が不安定で、経営を維持できない工房が増えているらしい。
頭巾を目深にかぶり、顔を隠した修道士が開く施療院であっても、客足は絶えなかった。
そのいっぽうで、聖堂は素通りされている。病んだひとびとはみな暮らしに追われ、女神に祈るどころではないのだろう。
聖堂の運営資金のいくらかは、国庫から賄われる。とはいえ、女神に私腹を肥やす余裕などあるわけがない。
「もう何も信じられない。王様が、私たちを裏切っていたなんて」
熱を出したという子供を診せにきた母親は涙ぐんでいた。
ルカは熱さましの薬を調合してやりながら、一緒に辛い気持ちになった。
「これからは、きっといい時代が来ます。王様に代わり、心清らかな女王陛下が立たれたのですから」
だが、その女王を糾弾する声も多かった。
誰も知りたくなかったのだ。女神に愛されたルテニアの王が、女神の神器をタジボルグ帝国に売り渡したなど、ひとびとにとっては、知ったところでなんの利益にもならない情報だ。
「緑の民も野放しなうえ、帝国は今にも攻めてきそうだ。女神はルテニアを見限ったんじゃないのかね」
工房を手放したという職人は、仕事探しのためにほうぼう歩き続けて、とうとう足を痛めてしまった。
王家への信頼を無くしたラウム領は地固めをすべく税を上げ、領地間の移動を制限した。
宿場と土産物で持っていたセイボリーにとっては、これが大きな打撃となった。
ちっぽけなルカは「きっと、大丈夫です」としか言えなかった。
「女神様が私たちを見捨てることなどあるでしょうか。ひとの気持ちが離れることがあっても、女神様はそばにいてくださいます」
職人は頭を振っただけで、返事をしなかった。
それが午前中で最後の客だった。
ひとりひとりの症状は軽いものでも、多い人数をひとりで、手早くさばかなくてはならない。
ルカは頭も、気も、重かった。
彼は白い頭巾の下に、王家の証である銀髪と、緑の民である母から受け継いだ翠の瞳を隠していた。
(私には責任がある)と、ルカは思った。
叔父のアドルファスが敵国に国宝を明け渡したのは、ルカのせいだ。
傷つかない忌み子を殺すための兵器を、彼は求めていた。その娘であるナタリアが女王として立ったきっかけを作ったのもルカだ。その結果、女神信仰をよすがとして結束していたルテニアは立ち行かなくなった。
一刻も早く、タジボルグ帝国へ向かわなければならない。
ルカもわかっていた。ここに留まっている限り、前へは進めない。
だが、目の前で苦しんでいるひとびとを、誰かが元気づけなければならないとも思う。
額を押さえてため息をつくルカの表情に、ふっと光が差した。
「来てくれたのですか」
小さな少年が二人、テントの前に来ていた。お互いに肘でつっつきあい、どっちが返事をするか揉めているようだ。ルカがにこにこと待っていると、小柄なほうが「まだいるんだ」と恥ずかしそうに言った。
「ええ。お二人が勧めてくださったから、お祭りの日までいることになりました」
「ふ、ふーん……」
「それはよかったね……」
少年たちはちょっとずつ近づいて来た。
テントの中をちらちらと見て、道具や薬草を「なにこれ。これなに」と尋ねてくる。そう言いながら、彼らが会話のきっかけを探していることに、ルカは気づいていた。
まだ朝の早い時間だ。冷たくなった寝床のシーツに白い光が射していた。
何も告げずにいなくなるのは初めてではないが、ルカは心細い気持ちになる。
『俺といろ。ずっとだ』
昨夜そう言ったのはジェイルだ。なのに彼は今、ここにいない。
同じベッドでおねだりを聞いてくれた後、彼は対価かのようにルカのからだを求めた。
交際している身でもあり、ルカも奉仕するのはやぶさかではないのだが、ジェイルの体力は底なしだった。いつもおしまいまで意識を保っていられない。
今日も起きればジェイルが身を清めてくれた後で、それはとても有難い心遣いなのだが、ルカは何もかも夢だったみたいな気がして寂しい。
手を握って、後ろから突いてもらった気がする。果ててもすぐに勃起するジェイルの男性器を口で慰めた気がする。
でも、本当にそんなことをしただろうか。思い出そうとすればするほど綿菓子みたいに溶けていく記憶に、ルカはうなだれた。本当に現実だったかどうか、なにひとつ証明できないのだ。
ルカは頭を振って起きだした。修道士のルカが、女神様より恋人を優先するなんて良くないことだ。
朝の祈りを捧げ、身支度を整えたルカは宿を出た。
ルテニア王国で雄黄領と呼ばれるラウムは、工芸で栄えた都市だ。
中でもルカのいるセイボリーの町は、細工物で有名だった。
契機は、聖都シュテマの大聖堂建築にあると言われている。かつてルテニア中から呼び寄せられた職人たちがこの地に滞在し、選抜試験を受けた。
合格した大工は聖都へ上ったが、落第した職人の中には帰る場所がない者もいたようだ。彼らはそのままセイボリーの町に居を構え、いくつかの工房を開いた。
おそらく試験に落とされたことに反発してだろう、職人たちは伝統的な装飾をきらい、素朴な作風を好んだ。その性質は女神像にもあらわれている。
シュテマの女神像が貴族の姫君のようにたくさんの装身具を身に着けているのに対し、セイボリーの女神像がまとっているのは薄衣だけだ。からだの線は太く、あえて言うなら寸胴で、口元には大らかな笑みを浮かべている。
ルカはこの町に根付いている、親しみ深い女神様の姿も好きだった。なんでも相談に乗ってくれそうに見える。
これなら女神嫌いのジェイルも心を開けるのではと思ったのだが、彼は遠目にちらっと見て『あの腹に金を貯めこんでいるんだろうな』と言っただけだった。
セイボリーの女神様はそんなことをしていないと、ルカはよく知っている。
聖堂の横に小さなテントを張って、小さな施療院を開いているからだ。
栄えている一方で、ラウムは貧富の差が激しかった。
特に最近は政情が不安定で、経営を維持できない工房が増えているらしい。
頭巾を目深にかぶり、顔を隠した修道士が開く施療院であっても、客足は絶えなかった。
そのいっぽうで、聖堂は素通りされている。病んだひとびとはみな暮らしに追われ、女神に祈るどころではないのだろう。
聖堂の運営資金のいくらかは、国庫から賄われる。とはいえ、女神に私腹を肥やす余裕などあるわけがない。
「もう何も信じられない。王様が、私たちを裏切っていたなんて」
熱を出したという子供を診せにきた母親は涙ぐんでいた。
ルカは熱さましの薬を調合してやりながら、一緒に辛い気持ちになった。
「これからは、きっといい時代が来ます。王様に代わり、心清らかな女王陛下が立たれたのですから」
だが、その女王を糾弾する声も多かった。
誰も知りたくなかったのだ。女神に愛されたルテニアの王が、女神の神器をタジボルグ帝国に売り渡したなど、ひとびとにとっては、知ったところでなんの利益にもならない情報だ。
「緑の民も野放しなうえ、帝国は今にも攻めてきそうだ。女神はルテニアを見限ったんじゃないのかね」
工房を手放したという職人は、仕事探しのためにほうぼう歩き続けて、とうとう足を痛めてしまった。
王家への信頼を無くしたラウム領は地固めをすべく税を上げ、領地間の移動を制限した。
宿場と土産物で持っていたセイボリーにとっては、これが大きな打撃となった。
ちっぽけなルカは「きっと、大丈夫です」としか言えなかった。
「女神様が私たちを見捨てることなどあるでしょうか。ひとの気持ちが離れることがあっても、女神様はそばにいてくださいます」
職人は頭を振っただけで、返事をしなかった。
それが午前中で最後の客だった。
ひとりひとりの症状は軽いものでも、多い人数をひとりで、手早くさばかなくてはならない。
ルカは頭も、気も、重かった。
彼は白い頭巾の下に、王家の証である銀髪と、緑の民である母から受け継いだ翠の瞳を隠していた。
(私には責任がある)と、ルカは思った。
叔父のアドルファスが敵国に国宝を明け渡したのは、ルカのせいだ。
傷つかない忌み子を殺すための兵器を、彼は求めていた。その娘であるナタリアが女王として立ったきっかけを作ったのもルカだ。その結果、女神信仰をよすがとして結束していたルテニアは立ち行かなくなった。
一刻も早く、タジボルグ帝国へ向かわなければならない。
ルカもわかっていた。ここに留まっている限り、前へは進めない。
だが、目の前で苦しんでいるひとびとを、誰かが元気づけなければならないとも思う。
額を押さえてため息をつくルカの表情に、ふっと光が差した。
「来てくれたのですか」
小さな少年が二人、テントの前に来ていた。お互いに肘でつっつきあい、どっちが返事をするか揉めているようだ。ルカがにこにこと待っていると、小柄なほうが「まだいるんだ」と恥ずかしそうに言った。
「ええ。お二人が勧めてくださったから、お祭りの日までいることになりました」
「ふ、ふーん……」
「それはよかったね……」
少年たちはちょっとずつ近づいて来た。
テントの中をちらちらと見て、道具や薬草を「なにこれ。これなに」と尋ねてくる。そう言いながら、彼らが会話のきっかけを探していることに、ルカは気づいていた。
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