忌み子と騎士のいるところ

春Q

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番外編「ニャンヤンのお祭り」

13.トーチカが来た

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 カーツェの母はサンドラと言った。ルカの言葉は聞き取れるようだが、診察は嫌がる。

 ルカは、所在なさげに立っているルクスに「タライに熱いお湯を持ってきてくれますか」と頼んだ。ルクスは、サンドラとルカを二人きりにするのが心配だったのだろうか。ルカが重ねて頼むと、やっと行ってくれた。

 戻るまでの間、ルカは床に綺麗な布を広げて薬草を選んだ。暗闇の中でも仕事道具は手触りと匂いでわかる。サンドラが大きく息を吸う気配があった。ルカは話しかけた。

「ルクス様もカーツェ様も、とても賢い方たちですね」

「…………」

「それに、とても気持ちが優しい」

 サンドラは何か呟いたようだったが、ルカは聞き返さずに口をつぐんだ。なんとなく、彼女は怒っているような気がした。

 タライが来ると、ルカは薬草を包んだ布を熱湯の中でしごいた。ルクスが悲鳴を上げる。

「よしなよ、熱湯だよ」

「大丈夫です」

 ルカは傷つかない化け物だ。今は暗くて見えないけれど、タライの中で手は火傷と治癒を繰り返している。ジェイルが見れば怒るだろうが、ルカはこうすることに慣れてしまっていて、少しも痛くなかった。

 布に十分に薬草の成分が浸透すると、ルカは次に布を絞った。なるべくなら熱いほうがいいが、熱すぎるとサンドラが火傷してしまう。布をぱんっぱんっと鳴らして冷ますと、あたりには甘い香りが濃く香った。

「う……うあ、あ……」

 サンドラが呻く。嫌なものを遠ざけようとばたつかせた手を、ルカは引っかかれながら受け取った。「大丈夫、大丈夫」とまじないのように繰り返しながら、サンドラの肘に布を当てる。

 とたんに、サンドラの手から力がぬけた。

 ルカは手のひら全体でトン、トン、とゆっくりした拍子をとりながら、サンドラの肘から上腕を清めた。手首に行き着くと、温かい布で全体をくるんで撫でおろす。そうやって指の間を拭いている間に、いびきが聞こえてきた。

 ルクスが「寝ちゃった」と驚いたようにつぶやく。

「……ずっと痛みが強くて、眠れなかったのでしょうね。少しは休めるといいのですが」

 ルテニアで、人体は女神が手縫いしたものとされている。女神は皮に肉の綿を詰め、針と糸で閉じて地上へと送り出す。

 だからひとの肌にはたくさんの縫い目があり、うまく指圧すると、綿が動いて体の調子が整うらしい。

 鎮痛作用のある温湿布を当てながら指圧する方法は、戦場で他の修道士から習い覚えた。そのひとはもう地上を去って女神のもとにいるけれど、知識はルカの頭に残っている。

 ルカは薬草を乾いた布に移し変えて、彼女の手に巻き付けた。薬効が切れる前に診察をしなければならない。

「ルクス様、なにか小さな灯りはありませんか。起こさないようにしてさしあげたいのです」

「わ、わかった」

 ルクスが立ち上がったその時、ドアの向こうで子供の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。

「カーツェだ」

 サンドラの寝息に共鳴するように、カーツェはドアの向こうで「やめろ、やめろ!」と叫んだ。

「僕の母さんはトーチカのお気に入りなんだ! 母さんを追い出したら、トーチカが怒るぞ!」

「うるさい!」

 ドアが開いた時、ルカはサンドラが音と光で起きないよう、彼女に胸で覆いかぶさっていた。ルクスは腰を抜かして桶をひっくり返し、カーツェは番頭の腕に食い下がり、番頭はカンカンに怒っていた。

「ガキがガキ増やしやがって! あぁ、おまえらは猫よりたちの悪い畜生だ!」

「……申し訳ありません、大きな声を、出さないでください」

 ルカはゆっくりと、押し殺した声で頼んだ。

「お願いです……すぐ、そちらへ行きますから、今は、戸を閉めて」

「抜かせ! そのイカれ女とヤりてえなら金を払え!!」

 サンドラに伏せたまま懇願するルカに、番頭はますます怒った。

「おら、どけ! 売り物から離れろってんだよ!」

「ルカ、危ない」

 番頭が何か長いものを振りかぶったのを、ルカは壁に映る影の動きで知った。鞭か――杖? その切っ先の鋭さに気づいた時には、もう遅かった。ルカは柄の長い刃物で背中を斬りつけられていた。

 燃えるような痛みが背中に走る。だが、叫び声を上げたのはルカではなく、番頭だった。

 斜めに斬りつけた傷が、即座に塞がるのを、彼と、子供たちは見たらしいのだった。

「トーチカだ……」

 そう呟いたのは、ルクスとカーツェのどちらだったのだろう。いずれにせよ、番頭は刃物を取り落とした。ルカは訳が分からないながら、話し合いの余地があるならと彼を振り向いた。

「なるべく静かに、部屋を出ていただけませんか」

 頭巾はずれてしまっていたが、暗い部屋でルカの瞳と髪の色は灰色にしか見えなかった。

「ご無礼をお詫びします……けれど、もしあなたがお許しくださるのなら、私はもう少しの間、この女性のそばについていたいのです」

 番頭は返事をしなかったが、それは驚きのあまり声も出せないからだった。

 膝を震わせながらゆっくりと後ずさっていく彼に、ルカは頭を下げた。

「……ありがとうございます」

「!!!」

 番頭はサッと廊下に出て、戸を閉めた。畏れと喜びに、彼は打ち震えていた。

 トーチカが来たのだ。

 人々が口伝えする通りの人物だった。鍛え上げた鋼鉄の肌は剣を通さず、礼に篤く仁義を通す。とても若く見えたが、間違いない。女に目のないトーチカは、売り物にならない揉み師さえ愛するのだ。部屋からはまるで若木を焚いたような甘い芳香さえ漂っていた。あれがトーチカのまとう香水の香りでなかったらなんだろう?

 浮足立った番頭は会う者会う者にのべつまくなしに「トーチカが来た!」「俺の店にトーチカが来た!」と伝えて回った。その声は一夜のうちに町を駆け巡った。トーチカが来た、トーチカが来た、ニャンヤンの祭りを楽しみに、悪者どもを追い払うために、トーチカが来た!
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