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黒髪の異端審問官

黒髪の異端審問官(3)

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 重い。
 到底持ち上がりそうもない。
 これは木箱の封をしている釘を全部抜いて、中身を出して運ばないと無理な気がする。
 しかし錆びさせて抜けにくくしてある釘が、果たして自分の力で引き抜けるものだろうか。

 シャーレンはため息をついた。

 白の神官長だというのに、今日の会議でも意見を通せなかった。
 間違ったことをしていると知っていて、それを止める力もない。
 それどころか、こんな箱一つ動かせないだなんて。

「本当に……どうして私はこうも無力なのでしょう……」

「あまり無理をなさるとおケガをされますよ」

 不意にかけられた声にシャーレンは振り返った。
 扉の側には見覚えのある男が立っている。
 先日紹介されたばかりの男。

「……ロゼス」

「名前を覚えていただけたとは光栄です。シャーレン様」

 男はにっこりと微笑む。
 つかつかとシャーレンの側までくると、ロゼスは何でもなさそうに箱をひょいと持ち上げた。

「どちらにお運びすればよろしいですか?」

「……あちらの棚へ」



 シャーレンは改めて木箱を運んでくれた男を見上げた。

「でも、どうして貴方がここに?」

「お願いがあってお部屋まで伺ったのですが、こちらにいらしゃるとのことでしたので。しかし、白の神官長ともあろうお方が、自ら書庫の整理をなされるとは思いませんでした」

「……今日の職務は午前中の会議だけです。私が大教会の白魔術師の中で一番暇なのです」

「ご謙遜を。シャーレン様は書類の山を瞬く間に片付けてしまうと評判です」

「それは買い被りです。私は一日中書類の前に座っているぐらいしかすることがないから、他の方よりも必然的に処理が早くなるだけで……書庫の整理すら一人ではまともに出来ないぐらいですから」

「腕力などなくても、シャーレン様には白の神官長としてのお力がございましょう」

 シャーレンは目を伏せた。

「……それを含めて私は無力なのです。今日も……」

「……」

「……ああ、ごめんなさい。余計な話をしました」

「いいえ。とんでもございません」

「何か用事があって来たのでしたね。用件を聞きましょう」

「実は……異端審問庁に白魔術師をお貸しいただきたいのです」

「……そのトラン殿のご要望でしたら、先日お断りさせていただいたばかりですが」

 シャーレンはにべもなく答えた。
 異端審問長トランは異端審問の為に魔術師を貸せと何度も言ってきている。拷問にかけ、その傷を癒し、また拷問にかける。そのための白魔術師を貸せと。そんなことに使われるとわかっていて、人など貸せるわけがない。

「はい。存じております。何度も申し訳ございません。ですが、このところ審問にかける異端者が急増し、こちらは慢性的な人手不足。こちらとしても、どうしても優秀な白魔術師が必要なのです」

「白の宮も私以外はそこまで暇ではありません。貸せるほどの余裕はありません」

「……お貸しいただけないのなら、また他のところに手伝いをお願いしなければなりません。ですが、優秀な白魔術師でないと審問の最中に囚人が亡くなることも。実は先日もそれで女が一人亡くなりました。内臓の治癒に失敗したようで手の施しようがなく……三日ほど苦しみぬいて逝きました。あれでは火にかけられた方がまだ慈悲深いというもの」

 ロゼスの言葉にシャーレンはぴくりと震えた。

「不得手な白魔術師のせいで最近はこのようなこともたびたび。こういったことのないよう、ぜひ白の宮の優秀な白魔術師をお借りしたいと、トラン様は仰せです」

 シャーレンは顔を歪めた。

「……まるで審問にかけられる者のため、とでも言いたげですね」

 ロゼスは微笑んだ。

「もちろんそのつもりで申し上げておりますが。シャーレン様もご存知のとおり、そもそも我々異端審問官は彼らの救済のための存在。我々の役目は誤った道に堕ちた者を正し、神の御許へと彼らを連れ戻すこと。異端審問官は堕ちた彼らを救う為に審問を行っているのですから」

「……救い、ですか。あれが」

 苦々しげにシャーレンは呟く。
 拷問にかけ、火焙りにする。審問にかけられた者はほぼ全員が罪を告白し、火刑になっている。あれが救いだというのなら、いったい救いとそうでないものとの差は何なのか。

「火は全ての罪を洗い清める。悪魔に魂を囚われ生きながらえるよりも、炎によって全てを浄化し、神の御許へ召される方がどれほど幸福かというもの。……ああ、シャーレン様にはご異論がおありのご様子ですね」

「……迷える者を救うことは神の示された道。けれどわたくしの思う救いと、貴方やトラン殿の考える救いには幾分隔たりがあるようです」

「……それは残念なことです。ですが、僕やトラン様の考える救いと、シャーレン様の考える救いに多少の隔たりがあったとしても――優秀な白魔術師の存在が囚人のためになるというその点では意見が一致するのではないでしょうか?」

「……」

「シャーレン様は審問によい心象をお持ちでないようですが、白の宮からお貸しいただけないとしても、他の庁からあまり優れない白魔術師を借りて審問が行われるだけのこと。先ほども申し上げたように、審問は救済が目的です。必要以上に苦しめ死なせるようなことは我々の本意ではありません。――どうか白魔術師をお貸しいただけませんか。シャーレン様」

 ロゼスが促す。
 確かに失敗した治癒の修復は単なる治癒より遥かに困難となる。以前、一度治癒の失敗した患者を見たことがある。間違って接合された器官はもう分離のしようもなく、その男は苦しみぬいて死んでいった。とても見ていられないような酷い苦しみようだった。同じことが起こるというのなら、シャーレンがここで意固地になってもいたずらに審問にかけられる者の苦しみを増やすだけだというのなら……。

 苦渋の思いでシャーレンはうなづいた。

「……わかりました。この件は了承しましたと、トラン殿にそうご返答を」

「――ありがとうございます。シャーレン様」

 ロゼスは整った顔に上品な笑みを浮かべ、恭しく頭を下げた。

「ところで、シャーレン様」

「……まだ何か?」

「お一人では大変でしょう。ご承諾を頂きましたお礼に、もしよろしければ書庫の整理をお手伝いさせていただけませんでしょうか?」

「貴方の仕事はいいのですか?」

「異端審問が僕の仕事ですが」

 ロゼスの返答に、シャーレンはちらりと男を見た。
 ロゼスは僅かに首をかしげ、にっこりと微笑んでみせる。異端審問の仕事に戻らせたいのかと、遠まわしに言っているのだ。
 この男はこの短い時間にシャーレンのことをよく理解している。

「……手伝っていってもらえますか?」

「喜んでお手伝いさせていただきます。シャーレン様」
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