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第二章 婚約

1 婚約の手順

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 翌日、カルサティ侯爵家にて朝食が終わって間もなく、オリヴィエールは約束通り現れた。
 略式の正装で現れた彼は、金糸のせいしゅうほどこされ、水晶の飾りぼたんが縦にずらりと並んだ黒の上着を羽織っている。絹のシャツは袖口と襟元にレースがあしらわれており、王宮の園遊会にでも招かれたような出で立ちだ。
 さらに、赤や薄紅色、白、黄色といったいろとりどりの薔薇の花束を抱えている。
 淡い黄色で無地のしゅの午前用日常着姿のベルティーユは、清々しい初夏の陽射しが差し込む居間で新聞を読みながら飲んでいた紅茶をもう少しで噴き出すところだった。
 来訪を予告されていたのだから自分もそれなりの服装に着替えておくべきだった、と内心反省する。
 ただ、オリヴィエールの格好はあまりにも――派手すぎた。

「ずいぶんとめかしこんできたな」

 ベルティーユの気持ちを代弁するように、シルヴェストルがまじまじとオリヴィエールの頭のてっぺんからつま先まで見回して呟く。

「正式に結婚を申し込むのだから、当然だろう?」

 カルサティ侯爵兄妹がなにを驚いているのかわからないといった顔でオリヴィエールは答えた。

「まだ、父は帰宅していない。今日帰ってくるかもわからないぞ」

 予定よりも早く帰宅するだろうと思われるカルサティ侯爵夫妻だが、まだ帰宅していなかった。
 娘が王妃になれないことは薄々気付いていただろうが、いきなり新聞で国王がロザージュ王国王女と結婚することが公表されるとは思わなかったはずだ。
 事情を確認しようとすぐにでも王都へ戻ってくるはずだが、さすがに領地から屋敷までは一日半はかかる。
 どんなに早くても、帰宅できるのは今日の夕方のはずだ。
 王都から離れた地方の新聞は記事の内容が王都の新聞よりも一日二日は遅いことも多いので、もしかしたら今日の新聞で事態を知った可能性もある。

「では、待たせてもらおうかな」
「父が帰宅したら君の屋敷に使いを遣るから、一度帰宅したらどうだ? 公爵なんだからそれなりに忙しい身だろう?」

 ダンビエール公爵位を継いだばかりのオリヴィエールは、喪中とはいえ、さまざまな公爵としての仕事が山積している。

「問題ない。今日中に処理が必要な書類はすべて署名を済ませて弁護士に渡してある。屋敷にいると伯母がたびたび押し掛けてくるから面倒なんだ。やれ祖父の遺産の一部は自分に受け取る権利があるだの、やれどこそこの令嬢と見合いをしろだの」

 オリヴィエールの父には二人の姉と一人の妹がいる。
 三人とも公爵令嬢にふさわしい相手と結婚したが、オリヴィエールが爵位を継いだ途端に頻繁に公爵家に現れるようになったのだという。

「僕が結婚して公爵家を切り盛りする女主人が屋敷にいるようになれば、伯母たちも親切面をしてやってくることはなくなるだろうけどね」

 面倒な姑がいると思われてはまずいと思ったのか、オリヴィエールは慌てて付け加えた。

「侯爵から結婚のお許しが出たら、親戚にはすぐに内々に婚約を知らせるよ。それで伯母たちを黙らせることはできるだろう。祖父の喪が明けたら、すぐに正式に婚約を発表する。結婚式や披露宴の準備期間が必要だろうから、結婚は一年半後くらいになるだろうね」
「一年半……」

 結婚にあまり実感がわかないベルティーユは、オリヴィエールから贈られて花束を抱えつつぼんやりと呟いた。
 その頃にはベルティーユは十八歳になる。
 彼女にとって王妃になることと結婚は別問題だった。
 王妃とはいわば王宮で王を支える役職だ。
 妃としての公務を日々こなし、ときには王の代理として政治に参加し、次期国王となる男児を産み育て、王の助けとなるのが王妃だ。
 貴族の結婚のように爵位や財産、愛を秤に掛けて相手を選ぶものではない。
 王国の女性の中で最高位が王妃だ。
 二年後、国王アントワーヌ五世は他国の王女を妃に迎える。
 そのときにはダンビエール公爵夫人になっている自分は、どうあがいても王妃にはなれないのだという現実だけがじわじわと沸いてきた。

「もう少し式を早めることはできないのかい?」

 ベルティーユのうれい顔を勘違いしたシルヴェストルがオリヴィエールに訊ねる。

「しかし、正式に婚約発表をしてから結婚までの期間が短いと、あまり……好ましくない評判が立つんじゃないかな」

 オリヴィエールはわずかに眉をひそめて言い淀んだ。
 ラルジュ王国の王侯貴族は通例として、婚約から婚姻まで半年以上の期間を設ける。
 規定として決められているわけではないので、庶民のように市庁舎に婚姻予告を公示して半月で結婚することも可能だが、周囲に結婚を急ぐ理由をあれこれと勘ぐられる羽目になる。
 庶民であればどのような憶測が周囲で飛び交おうが問題ないだろうが、貴族となるとそうもいかない。
 のちのち社交界での立場に影響しないとも限らないのだ。

「捕まえた魚に逃げられき遅れるのを恐れて結婚を急いだ、と思われるだけだろう?」
「まぁ、一般的にはそうだろうが、火のないところに煙を立たせようとする連中もいるからな」

 苦々しげにオリヴィエールは告げた。

「うちの伯母など、その筆頭だろう」
「君の身内じゃないか」
「血縁者があだとなることなんて、そう珍しいことじゃないことは歴史が証明してる」
「まぁ……そうだな」

 オリヴィエールの指摘に、渋々シルヴェストルは同意した。
 
「僕としては、伯母たちの邪魔が入らないうちに挙式したいというのが本音ではあるけれど」
「邪魔されそうなのか?」
「十中八九」

 オリヴィエールが正直に答えた途端、シルヴェストルは背筋に悪寒が走るのを感じた。
 振り返ってみると、ベルティーユの侍女ミネットが火の入っていないだんの横で無表情のまま立っている。
 その無表情から漂う気配がとてつもなく殺気に満ちているのは自分の気のせいだ、とシルヴェストルは繰り返し自分に言い聞かせた。
 時として、事実から目をそらすことも必要なのだ。
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