6 / 73
第二章 婚約
1 婚約の手順
しおりを挟む
翌日、カルサティ侯爵家にて朝食が終わって間もなく、オリヴィエールは約束通り現れた。
略式の正装で現れた彼は、金糸の精緻な刺繍が施され、水晶の飾り釦が縦にずらりと並んだ黒の上着を羽織っている。絹のシャツは袖口と襟元にレースがあしらわれており、王宮の園遊会にでも招かれたような出で立ちだ。
さらに、赤や薄紅色、白、黄色といったいろとりどりの薔薇の花束を抱えている。
淡い黄色で無地の繻子の午前用日常着姿のベルティーユは、清々しい初夏の陽射しが差し込む居間で新聞を読みながら飲んでいた紅茶をもう少しで噴き出すところだった。
来訪を予告されていたのだから自分もそれなりの服装に着替えておくべきだった、と内心反省する。
ただ、オリヴィエールの格好はあまりにも――派手すぎた。
「ずいぶんとめかしこんできたな」
ベルティーユの気持ちを代弁するように、シルヴェストルがまじまじとオリヴィエールの頭のてっぺんからつま先まで見回して呟く。
「正式に結婚を申し込むのだから、当然だろう?」
カルサティ侯爵兄妹がなにを驚いているのかわからないといった顔でオリヴィエールは答えた。
「まだ、父は帰宅していない。今日帰ってくるかもわからないぞ」
予定よりも早く帰宅するだろうと思われるカルサティ侯爵夫妻だが、まだ帰宅していなかった。
娘が王妃になれないことは薄々気付いていただろうが、いきなり新聞で国王がロザージュ王国王女と結婚することが公表されるとは思わなかったはずだ。
事情を確認しようとすぐにでも王都へ戻ってくるはずだが、さすがに領地から屋敷までは一日半はかかる。
どんなに早くても、帰宅できるのは今日の夕方のはずだ。
王都から離れた地方の新聞は記事の内容が王都の新聞よりも一日二日は遅いことも多いので、もしかしたら今日の新聞で事態を知った可能性もある。
「では、待たせてもらおうかな」
「父が帰宅したら君の屋敷に使いを遣るから、一度帰宅したらどうだ? 公爵なんだからそれなりに忙しい身だろう?」
ダンビエール公爵位を継いだばかりのオリヴィエールは、喪中とはいえ、さまざまな公爵としての仕事が山積している。
「問題ない。今日中に処理が必要な書類はすべて署名を済ませて弁護士に渡してある。屋敷にいると伯母がたびたび押し掛けてくるから面倒なんだ。やれ祖父の遺産の一部は自分に受け取る権利があるだの、やれどこそこの令嬢と見合いをしろだの」
オリヴィエールの父には二人の姉と一人の妹がいる。
三人とも公爵令嬢にふさわしい相手と結婚したが、オリヴィエールが爵位を継いだ途端に頻繁に公爵家に現れるようになったのだという。
「僕が結婚して公爵家を切り盛りする女主人が屋敷にいるようになれば、伯母たちも親切面をしてやってくることはなくなるだろうけどね」
面倒な姑がいると思われてはまずいと思ったのか、オリヴィエールは慌てて付け加えた。
「侯爵から結婚のお許しが出たら、親戚にはすぐに内々に婚約を知らせるよ。それで伯母たちを黙らせることはできるだろう。祖父の喪が明けたら、すぐに正式に婚約を発表する。結婚式や披露宴の準備期間が必要だろうから、結婚は一年半後くらいになるだろうね」
「一年半……」
結婚にあまり実感がわかないベルティーユは、オリヴィエールから贈られて花束を抱えつつぼんやりと呟いた。
その頃にはベルティーユは十八歳になる。
彼女にとって王妃になることと結婚は別問題だった。
王妃とはいわば王宮で王を支える役職だ。
妃としての公務を日々こなし、ときには王の代理として政治に参加し、次期国王となる男児を産み育て、王の助けとなるのが王妃だ。
貴族の結婚のように爵位や財産、愛を秤に掛けて相手を選ぶものではない。
王国の女性の中で最高位が王妃だ。
二年後、国王アントワーヌ五世は他国の王女を妃に迎える。
そのときにはダンビエール公爵夫人になっている自分は、どうあがいても王妃にはなれないのだという現実だけがじわじわと沸いてきた。
「もう少し式を早めることはできないのかい?」
ベルティーユの憂い顔を勘違いしたシルヴェストルがオリヴィエールに訊ねる。
「しかし、正式に婚約発表をしてから結婚までの期間が短いと、あまり……好ましくない評判が立つんじゃないかな」
オリヴィエールはわずかに眉を顰めて言い淀んだ。
ラルジュ王国の王侯貴族は通例として、婚約から婚姻まで半年以上の期間を設ける。
規定として決められているわけではないので、庶民のように市庁舎に婚姻予告を公示して半月で結婚することも可能だが、周囲に結婚を急ぐ理由をあれこれと勘ぐられる羽目になる。
庶民であればどのような憶測が周囲で飛び交おうが問題ないだろうが、貴族となるとそうもいかない。
のちのち社交界での立場に影響しないとも限らないのだ。
「捕まえた魚に逃げられ嫁き遅れるのを恐れて結婚を急いだ、と思われるだけだろう?」
「まぁ、一般的にはそうだろうが、火のないところに煙を立たせようとする連中もいるからな」
苦々しげにオリヴィエールは告げた。
「うちの伯母など、その筆頭だろう」
「君の身内じゃないか」
「血縁者が仇となることなんて、そう珍しいことじゃないことは歴史が証明してる」
「まぁ……そうだな」
オリヴィエールの指摘に、渋々シルヴェストルは同意した。
「僕としては、伯母たちの邪魔が入らないうちに挙式したいというのが本音ではあるけれど」
「邪魔されそうなのか?」
「十中八九」
オリヴィエールが正直に答えた途端、シルヴェストルは背筋に悪寒が走るのを感じた。
振り返ってみると、ベルティーユの侍女ミネットが火の入っていない暖炉の横で無表情のまま立っている。
その無表情から漂う気配がとてつもなく殺気に満ちているのは自分の気のせいだ、とシルヴェストルは繰り返し自分に言い聞かせた。
時として、事実から目をそらすことも必要なのだ。
略式の正装で現れた彼は、金糸の精緻な刺繍が施され、水晶の飾り釦が縦にずらりと並んだ黒の上着を羽織っている。絹のシャツは袖口と襟元にレースがあしらわれており、王宮の園遊会にでも招かれたような出で立ちだ。
さらに、赤や薄紅色、白、黄色といったいろとりどりの薔薇の花束を抱えている。
淡い黄色で無地の繻子の午前用日常着姿のベルティーユは、清々しい初夏の陽射しが差し込む居間で新聞を読みながら飲んでいた紅茶をもう少しで噴き出すところだった。
来訪を予告されていたのだから自分もそれなりの服装に着替えておくべきだった、と内心反省する。
ただ、オリヴィエールの格好はあまりにも――派手すぎた。
「ずいぶんとめかしこんできたな」
ベルティーユの気持ちを代弁するように、シルヴェストルがまじまじとオリヴィエールの頭のてっぺんからつま先まで見回して呟く。
「正式に結婚を申し込むのだから、当然だろう?」
カルサティ侯爵兄妹がなにを驚いているのかわからないといった顔でオリヴィエールは答えた。
「まだ、父は帰宅していない。今日帰ってくるかもわからないぞ」
予定よりも早く帰宅するだろうと思われるカルサティ侯爵夫妻だが、まだ帰宅していなかった。
娘が王妃になれないことは薄々気付いていただろうが、いきなり新聞で国王がロザージュ王国王女と結婚することが公表されるとは思わなかったはずだ。
事情を確認しようとすぐにでも王都へ戻ってくるはずだが、さすがに領地から屋敷までは一日半はかかる。
どんなに早くても、帰宅できるのは今日の夕方のはずだ。
王都から離れた地方の新聞は記事の内容が王都の新聞よりも一日二日は遅いことも多いので、もしかしたら今日の新聞で事態を知った可能性もある。
「では、待たせてもらおうかな」
「父が帰宅したら君の屋敷に使いを遣るから、一度帰宅したらどうだ? 公爵なんだからそれなりに忙しい身だろう?」
ダンビエール公爵位を継いだばかりのオリヴィエールは、喪中とはいえ、さまざまな公爵としての仕事が山積している。
「問題ない。今日中に処理が必要な書類はすべて署名を済ませて弁護士に渡してある。屋敷にいると伯母がたびたび押し掛けてくるから面倒なんだ。やれ祖父の遺産の一部は自分に受け取る権利があるだの、やれどこそこの令嬢と見合いをしろだの」
オリヴィエールの父には二人の姉と一人の妹がいる。
三人とも公爵令嬢にふさわしい相手と結婚したが、オリヴィエールが爵位を継いだ途端に頻繁に公爵家に現れるようになったのだという。
「僕が結婚して公爵家を切り盛りする女主人が屋敷にいるようになれば、伯母たちも親切面をしてやってくることはなくなるだろうけどね」
面倒な姑がいると思われてはまずいと思ったのか、オリヴィエールは慌てて付け加えた。
「侯爵から結婚のお許しが出たら、親戚にはすぐに内々に婚約を知らせるよ。それで伯母たちを黙らせることはできるだろう。祖父の喪が明けたら、すぐに正式に婚約を発表する。結婚式や披露宴の準備期間が必要だろうから、結婚は一年半後くらいになるだろうね」
「一年半……」
結婚にあまり実感がわかないベルティーユは、オリヴィエールから贈られて花束を抱えつつぼんやりと呟いた。
その頃にはベルティーユは十八歳になる。
彼女にとって王妃になることと結婚は別問題だった。
王妃とはいわば王宮で王を支える役職だ。
妃としての公務を日々こなし、ときには王の代理として政治に参加し、次期国王となる男児を産み育て、王の助けとなるのが王妃だ。
貴族の結婚のように爵位や財産、愛を秤に掛けて相手を選ぶものではない。
王国の女性の中で最高位が王妃だ。
二年後、国王アントワーヌ五世は他国の王女を妃に迎える。
そのときにはダンビエール公爵夫人になっている自分は、どうあがいても王妃にはなれないのだという現実だけがじわじわと沸いてきた。
「もう少し式を早めることはできないのかい?」
ベルティーユの憂い顔を勘違いしたシルヴェストルがオリヴィエールに訊ねる。
「しかし、正式に婚約発表をしてから結婚までの期間が短いと、あまり……好ましくない評判が立つんじゃないかな」
オリヴィエールはわずかに眉を顰めて言い淀んだ。
ラルジュ王国の王侯貴族は通例として、婚約から婚姻まで半年以上の期間を設ける。
規定として決められているわけではないので、庶民のように市庁舎に婚姻予告を公示して半月で結婚することも可能だが、周囲に結婚を急ぐ理由をあれこれと勘ぐられる羽目になる。
庶民であればどのような憶測が周囲で飛び交おうが問題ないだろうが、貴族となるとそうもいかない。
のちのち社交界での立場に影響しないとも限らないのだ。
「捕まえた魚に逃げられ嫁き遅れるのを恐れて結婚を急いだ、と思われるだけだろう?」
「まぁ、一般的にはそうだろうが、火のないところに煙を立たせようとする連中もいるからな」
苦々しげにオリヴィエールは告げた。
「うちの伯母など、その筆頭だろう」
「君の身内じゃないか」
「血縁者が仇となることなんて、そう珍しいことじゃないことは歴史が証明してる」
「まぁ……そうだな」
オリヴィエールの指摘に、渋々シルヴェストルは同意した。
「僕としては、伯母たちの邪魔が入らないうちに挙式したいというのが本音ではあるけれど」
「邪魔されそうなのか?」
「十中八九」
オリヴィエールが正直に答えた途端、シルヴェストルは背筋に悪寒が走るのを感じた。
振り返ってみると、ベルティーユの侍女ミネットが火の入っていない暖炉の横で無表情のまま立っている。
その無表情から漂う気配がとてつもなく殺気に満ちているのは自分の気のせいだ、とシルヴェストルは繰り返し自分に言い聞かせた。
時として、事実から目をそらすことも必要なのだ。
10
あなたにおすすめの小説
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。
【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる