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第九章 宮廷の陰謀と公爵夫人の計謀
4 公爵の不調
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オリヴィエールが目覚めると、すでに寝室の東向きの窓幕は開け放たれ、眩しい朝日が差し込んでいた。窓枠に積もった雪が日差しに反射してきらきらと輝いているが、いつになくその光が目を刺す。
寝台の両側に視線を向けるが、一緒に眠っていたはずのベルティーユの姿はなかった。
体液で濡れた敷布に手を当ててみると、人肌の温度が感じられない。
いつもの彼女なら繰り返し交わった翌朝は気怠そうに昼近くまで寝ているはずだ。
(……どういうことだ?)
ゆっくりと寝台から身体を起こしたオリヴィエールは、いつになく身体が重いことに気づいた。
情事の後の心地よさは一切ない。
(ベルは、どこだ?)
自分ひとりが屋敷の中に取り残されたような不安がオリヴィエールを包んだ。
この心細さは、両親が亡くなった日の朝に似ている。
頭の芯がずきずきと痛み、部屋の中を見回しているだけで目眩がしてきた。
「オリヴィエール、起きたのね。気分はどう?」
ようやくベルティーユが姿を見せたのは、オリヴィエールが頭痛と不安で吐き気を覚えたときだった。
「すごい熱があるわよ。馬車でお医者様を呼びに行かせたわ」
日常着姿のベルティーユは、背後に立つ従僕になにか命じた。
従僕はオリヴィエールに寝間着を羽織らせると「旦那様、歩けますか?」と尋ねた。
なにを聞かれているのかよく理解しないままオリヴィエールが首を縦に振ると、従僕に支えられながら同じ階にあるオリヴィエールの部屋へと運ばれた。
寝室に入ると、寝台の上に倒れ込むようにして寝転がる。
「昨日から様子がおかしいと思ったら、病気だったのね」
「奥様、すこし離れていてください。万が一、伝染する病気だったらいけませんので」
「伝染る病気なら、きっともう伝染っているわよ。だって、一晩中一緒だったのよ?」
「まぁ、そうですけど、旦那様のお世話は私どもがしますので、もう少し離れていてください。あ、でも、旦那様の視界に入る位置にいてください」
「この辺りでどうかしら。邪魔ならどくわよ」
「そこならそれほど邪魔になりません。大丈夫です」
ベルティーユと従僕の声は、大声ではないはずなのにオリヴィエールの頭に響いた。
重い瞼を薄く開けると、ベルティーユが心配そうに自分を見ている姿が目に入る。
使用人たちが汗で濡れた主人の身体を拭き、水を飲ませる。
「旦那様は昨日、奥様がお帰りになるまで寒い玄関で半刻近く立っていらしたんですよ」
「それで風邪を引いたのかしら? わたしのせい?」
「その前から調子が悪かったとは思いますけどね。昨日の旦那様はあまりご機嫌がよろしくないご様子でしたから」
「機嫌が悪かったのも、わたしのせいということかしら?」
「お疲れなんだと思います。夜もあまりお休みになっていないようですし」
「わたしのせいだと言いたいわけね」
「使用人の立場としては、主人の前で『旦那様の自業自得です』とは口が裂けても言えません」
軽口を叩きながら従僕は椅子を運んでくると「奥様はここにお座りください。あ、お医者様が到着したようですね」と仕事をこなしていた。
この屋敷はこんなに賑やかだっただろうか、と枕に顔を埋めながらオリヴィエールはぼんやりと考える。
祖父と暮らしていた頃、使用人たちは粛々と仕事をこなしていた。
彼らは私語を慎み、主人とその孫に対して敬意を払っていたが、親しみを感じさせることはなかった。
カルサティ侯爵家を訪ねると、いつもベルティーユのそばにいる侍女は主人と親しげに会話をしていたし、家令も使用人たちも主人一家との距離が近かった。
ベルティーユが王妃になれないとわかったときは使用人たちも皆落胆していたし、宰相に怒りを向けていた。彼女がダンビエール公爵夫人になると決まったときは、喜んでくれてもいた。
オリヴィエールが結婚すると使用人たちに告げた際、この屋敷の使用人たちも喜んでくれていたようだが、屋敷の中の雰囲気が変わったと彼が感じるようになったのはベルティーユが来てからだ。
皆が「奥様」「奥様」と言ってたいした用事がなくてもベルティーユと話をしたがる。
オリヴィエールが妻の姿を探していると「お庭にいらっしゃいます」「モーリスさんと晩餐会の打ち合わせをしていらっしゃいます」と使用人たちがすぐに居場所を教えてくれる。
「奥様から手鏡をいただいた」「櫛をいただいた」と言って女中たちが自慢しているのを見かけたこともある。
後でベルティーユに尋ねると、結婚祝いで化粧道具をたくさん贈られたので、少女時代から使っていた化粧道具を「古い物だけど誰か使うなら」とミネットに託したということだった。
いつの間にか、ベルティーユはこの屋敷の中で公爵夫人としての居場所を見つけている。
オリヴィエールの目には一目惚れした当時と変わらないベルティーユが映っているはずだったのに、こうやって少し離れてみると、公爵夫人として奮闘している彼女がいる。
「ベル……」
手を握って欲しい、とオリヴィエールは腕を伸ばした。
が、その手首を掴んだのは、到着したばかりの主治医だった。
「公爵様、おはようございます。ご不調とお伺いしましたが、脈拍が少々早いですなぁ」
白髪に顎髭をたくわえた主治医は、オリヴィエールとベルティーユの間に割り込むようにして立つと、患者の険しい表情を無視しててきぱきと診察を始めた。
寝台の両側に視線を向けるが、一緒に眠っていたはずのベルティーユの姿はなかった。
体液で濡れた敷布に手を当ててみると、人肌の温度が感じられない。
いつもの彼女なら繰り返し交わった翌朝は気怠そうに昼近くまで寝ているはずだ。
(……どういうことだ?)
ゆっくりと寝台から身体を起こしたオリヴィエールは、いつになく身体が重いことに気づいた。
情事の後の心地よさは一切ない。
(ベルは、どこだ?)
自分ひとりが屋敷の中に取り残されたような不安がオリヴィエールを包んだ。
この心細さは、両親が亡くなった日の朝に似ている。
頭の芯がずきずきと痛み、部屋の中を見回しているだけで目眩がしてきた。
「オリヴィエール、起きたのね。気分はどう?」
ようやくベルティーユが姿を見せたのは、オリヴィエールが頭痛と不安で吐き気を覚えたときだった。
「すごい熱があるわよ。馬車でお医者様を呼びに行かせたわ」
日常着姿のベルティーユは、背後に立つ従僕になにか命じた。
従僕はオリヴィエールに寝間着を羽織らせると「旦那様、歩けますか?」と尋ねた。
なにを聞かれているのかよく理解しないままオリヴィエールが首を縦に振ると、従僕に支えられながら同じ階にあるオリヴィエールの部屋へと運ばれた。
寝室に入ると、寝台の上に倒れ込むようにして寝転がる。
「昨日から様子がおかしいと思ったら、病気だったのね」
「奥様、すこし離れていてください。万が一、伝染する病気だったらいけませんので」
「伝染る病気なら、きっともう伝染っているわよ。だって、一晩中一緒だったのよ?」
「まぁ、そうですけど、旦那様のお世話は私どもがしますので、もう少し離れていてください。あ、でも、旦那様の視界に入る位置にいてください」
「この辺りでどうかしら。邪魔ならどくわよ」
「そこならそれほど邪魔になりません。大丈夫です」
ベルティーユと従僕の声は、大声ではないはずなのにオリヴィエールの頭に響いた。
重い瞼を薄く開けると、ベルティーユが心配そうに自分を見ている姿が目に入る。
使用人たちが汗で濡れた主人の身体を拭き、水を飲ませる。
「旦那様は昨日、奥様がお帰りになるまで寒い玄関で半刻近く立っていらしたんですよ」
「それで風邪を引いたのかしら? わたしのせい?」
「その前から調子が悪かったとは思いますけどね。昨日の旦那様はあまりご機嫌がよろしくないご様子でしたから」
「機嫌が悪かったのも、わたしのせいということかしら?」
「お疲れなんだと思います。夜もあまりお休みになっていないようですし」
「わたしのせいだと言いたいわけね」
「使用人の立場としては、主人の前で『旦那様の自業自得です』とは口が裂けても言えません」
軽口を叩きながら従僕は椅子を運んでくると「奥様はここにお座りください。あ、お医者様が到着したようですね」と仕事をこなしていた。
この屋敷はこんなに賑やかだっただろうか、と枕に顔を埋めながらオリヴィエールはぼんやりと考える。
祖父と暮らしていた頃、使用人たちは粛々と仕事をこなしていた。
彼らは私語を慎み、主人とその孫に対して敬意を払っていたが、親しみを感じさせることはなかった。
カルサティ侯爵家を訪ねると、いつもベルティーユのそばにいる侍女は主人と親しげに会話をしていたし、家令も使用人たちも主人一家との距離が近かった。
ベルティーユが王妃になれないとわかったときは使用人たちも皆落胆していたし、宰相に怒りを向けていた。彼女がダンビエール公爵夫人になると決まったときは、喜んでくれてもいた。
オリヴィエールが結婚すると使用人たちに告げた際、この屋敷の使用人たちも喜んでくれていたようだが、屋敷の中の雰囲気が変わったと彼が感じるようになったのはベルティーユが来てからだ。
皆が「奥様」「奥様」と言ってたいした用事がなくてもベルティーユと話をしたがる。
オリヴィエールが妻の姿を探していると「お庭にいらっしゃいます」「モーリスさんと晩餐会の打ち合わせをしていらっしゃいます」と使用人たちがすぐに居場所を教えてくれる。
「奥様から手鏡をいただいた」「櫛をいただいた」と言って女中たちが自慢しているのを見かけたこともある。
後でベルティーユに尋ねると、結婚祝いで化粧道具をたくさん贈られたので、少女時代から使っていた化粧道具を「古い物だけど誰か使うなら」とミネットに託したということだった。
いつの間にか、ベルティーユはこの屋敷の中で公爵夫人としての居場所を見つけている。
オリヴィエールの目には一目惚れした当時と変わらないベルティーユが映っているはずだったのに、こうやって少し離れてみると、公爵夫人として奮闘している彼女がいる。
「ベル……」
手を握って欲しい、とオリヴィエールは腕を伸ばした。
が、その手首を掴んだのは、到着したばかりの主治医だった。
「公爵様、おはようございます。ご不調とお伺いしましたが、脈拍が少々早いですなぁ」
白髪に顎髭をたくわえた主治医は、オリヴィエールとベルティーユの間に割り込むようにして立つと、患者の険しい表情を無視しててきぱきと診察を始めた。
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