幽刀星

氷翠

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歩・四十二「政」

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ダアトの空は、妙に澄んでいた。
重苦しい現実とは裏腹に、風だけがやけに清らかだ。
私は馬上でそっと息を吐いた。
手綱を握る手に、微かな震えが残っている。
それが疲労によるものか、これから向かう王城への覚悟によるものかは、自分でもはっきりと分からなかった。

――ダレット王城まで、二十日。

道程は遠い。
この歳になると二十日の旅は骨身に堪える。
だが、ネツァク・ホド伯爵の闇ギルド依頼書を手にした以上、もはや引き返すことなど許されぬ。
私は馬を止め、同行していた側近に命を下した。

「早馬を出し、至急、王城へ書状を届けよ。内容は厳重に封じよ。誰にも触れさせるな」

側近は敬礼し、そのまま馬を走らせていく。
風を切る音が消えるまで、私は静かに目を閉じていた。

あの依頼書――

依頼主、ネツァク・ホド伯爵。
受領者、バラキエル。
ページを開いた瞬間、胸にひやりとしたものが走った。
ただの陰謀では済まされぬ。
これは国家を揺るがす“大罪”である。

「……アランよ。私が守れなかった者のためにも、お前はもう罪人ではない」

呟く声が、乾いた風に溶けていった。



アギ令嬢とエリファスには、私が出発する直前に告げていた。

「アギ令嬢。私はこれよりダレットへ向かう。あなたが王城に向かうのは、その後で構わぬ」

「はい、子爵様。わたくしは必要な荷を整えてから向かいます」

アギ令嬢の声は静かだったが、その奥には確かな決意があった。
エリファスは彼女の背後に立ち、深く礼をした。
私は続けた。

「あなたがダアトにいる間は、冒険者に護衛をさせよう。ネツァク伯爵が動く可能性は高い。彼の目を釘付けにする意味でも……あえて“冒険者を最低十名”つける」

アギ令嬢は一瞬、目を伏せ――やがて小さく微笑んだ。

「……嫌味ですね、子爵様」

「その通りだ」

ネツァク・ホド伯爵の娘であることを盾に利用させぬため、そして伯爵に“動いたと誤解させるため”でもあった。
アギ令嬢はこれを理解している。
その点だけでも、私は彼女を評価していた。



アランには、出立前に話をしておいた。

「この四十日間、お前は宿で待機せよ。無闇に動けば、伯爵の目に映る。護衛として、私が信頼している冒険者を数名つける。何があっても、勝手に外へ出るな」

アランは素直に頷いた。
だが、その瞳の奥には別の火が灯っていた。
まずは伯爵の罪を王に示し、アランの立場を確保することが先決。
馬を進めながら、私は改めて決意を固めた。



旅の途中、私は何度か夜空を仰いだ。
二十日の旅は長い。
街道沿いの宿場町は少ないため、野営も多かった。
夜になると空気が冷え、焚き火の炎が赤く揺れる。
その火を見つめながら、私は何度も依頼書の内容をなぞった。
ネツァク・ホド伯爵。
この男と私の付き合いは長い。
だが、まさか闇ギルドと――バラキエルと結託していたとは。

「……救えぬ男よ」

遠くで狼の遠吠えが響くたびに、胸が重く沈んでいった。



二十日の旅路を終え、ようやくダレットの城壁が見えたとき、
私は安堵の息を漏らした。
高くそびえる城門。
整然と並ぶ石造りの街並み。
王城の旗が風にはためく。

――ここが、ダレット王城。

入城手続きを済ませると、王城宛てに先に送った早馬の書状のおかげか、私はすぐに侍従長に案内され、謁見の準備が整うまでの部屋を与えられた。
道中の埃を払い、衣服を整え、私は静かにその時を待った。
やがて侍従長が来て告げる。

「アギ・ホド令嬢とエリファス・レヴィ殿が到着されました」

「そうか……無事で何よりだ」

アギ令嬢は数日遅れで王都へ到着していた。
伯爵の手から逃れつつ慎重に旅をしてきたのだろう。
合流した直後、私たちは歩調を合わせて王の謁見を待った。
だが、王は忙しい身だ。
謁見が叶うまでにはさらに数日を要した。
その間、私は王城の重臣たちに状況の一部を伝え、証拠品の確認、護衛の配置など、政治的な手筈を整えていった。
アギ令嬢は、時折不安そうな顔を見せたが、それでも決して揺らがぬ芯を持ったまま、同行してくれた。
エリファスは終始冷静で、彼の存在は令嬢の心を安定させていたように思える。



そして――ついにその日が来た。
謁見の間は荘厳で、高い天井に巨大な紋章が掲げられ、両脇には重臣たちがずらりと並んでいた。
ダレット国王は玉座に腰を下ろし、静かに私たちを見つめた。

「エンカイよ。お前の書状、確かに受け取った。重大な罪を告発する内容……今ここで全て語れ」

私は深く頭を下げ、証拠品を差し出す。

「これが、闇ギルド“深猟”への依頼書にございます。依頼主は――ネツァク・ホド伯爵。受領者は……バラキエルと記されております」

広間がざわめいた。
誰もが知る名士。
王家と強い繋がりを持つ大貴族。
その男が闇ギルドと繋がり、暗殺を依頼していた――これは国家の根幹を揺るがす。
アギ令嬢も玉座の前で静かに頭を垂れた。

「父……ネツァクが行ったこと、わたくしは……一切、弁明できません。どうか、陛下の御裁断を」

王は長く沈黙した後、側近や大臣たちと短く言葉を交わした。
その顔は、怒りよりも、深い失望を湛えている。
やがて王は、玉座から立ち上がった。

「……アランという冒険者。彼を罪人として扱う必要は、もはやない。本日より、我が王城の庇護下に置く」

アギ令嬢が小さく息を呑む。
私は深く頭を垂れた。
王は続ける。

「闇ギルドの活動を大幅に制限する。指導層の居場所を突き止め次第、王城軍が動く」

そして――

「ネツァク・ホド伯爵の爵位を、ここに剥奪する。全領地の管理を停止し、王城へ召喚せよ」

広間が一気にどよめきに包まれた。
私は胸を強く押しつぶされたような気持ちになった。
だが、これが唯一の答えだ。
王の声が再び響く。

「早馬をもって、この決定を伯爵へ伝えよ。抵抗すれば――その時は覚悟をしてもらおう」

侍従が動き出し、命令が次々と下されていく。
ネツァク伯爵の運命は、今まさに、王の言葉によって決まったのだ。

私は静かに息を吐き――

アランの顔を思い浮かべた。
この決定により、ようやく彼は“枷”から解き放たれる。
だが同時に――
これで終わるとは思えなかった。
闇ギルド。
そして、バラキエル。
すべてはまだ、始まりにすぎない。
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